B・3



「何してんの、ちょっと〜っ!」

「ナギ。あのさ、今、付き合ってる男が誰もいないんだったら、もう一度俺達付き合わないか?」

「はっ!?」

「俺、前よりマシな男になったよ。今度はちゃんと大事にするから」

「いやいやいやいや、ちょっと、とりあえず離して〜っ!」

 腕の中で無理やり方向転換すると、弘平はするっと腕を外した。だけど冷蔵庫に背をつけて立つ私と更に距離を縮めて見下ろし、真面目な声で言った。

「お前みたいな子が、俺には必要なんだ」

「そそそそんなことないと思うよ!?」

 声が裏返ってしまった。

 両手を私が張り付いている冷蔵庫において、彼は私を閉じ込める。近づいてくる弘平の顔。彼の髪からはシャンプーと冬の空気の匂い。綺麗な形の目が私を見ている。うわ、わ―――――――!

 寸前で、私は顔をそむけて、無理やりその場にしゃがみこんだ。

「――――――おい、ナギ」

 上からがっかりしたような弘平の声が降ってくる。

「だめ、ダメだってば・・・」

 驚きのあまり力が入らなかったけれど、私は何とか弘平をぐいっと押してそこを這い出し、匍匐前進でその場から逃げ出す。バタバタとはいずってソファーにしがみつき、ヤツを振り返った。

「わ、わ、私達はもう終わったでしょ!ちょっと落ち着いて〜!」

「俺は落ち着いてんだけど。そんで、また始めたいと思ってお前を口説いてんだけど」

 弘平はそう言うと、その場でしゃがんで私と目線とあわせる。どうやらまた抱きしめようとは思わなかったらしい。良かった、すんごく良かった!あれをされると流石に理性が!!もう既に動悸が!!

「なあ、ナギ。いいだろ?ちゃんと考えてくれ。もう一度、俺と付き合っ――――――――」

 その時、台所の奥、庭に面した場所にある、洗面所のドアがパッと開いた。

「凪子さんどうした?!大丈―――――――」

 思わず二人ともそっちを見る。

「・・・ぶ、って、え?」

 声を出したのは、何と伊織君。しかも彼は、上半身裸の格好で髪からは雫がたれ、タオルを首からかけていた。

「・・・い、お・・・」

「―――――え?!」

 驚いてすらっと声が出ない私と同時に、弘平が叫んだ。彼は同じく仰天しているらしい伊織君をまじまじと見て、それから私に向き直る。

「・・・お前、男と同棲してたのかっ!?」

 へ?

 私はあんぐりと口を開けてソファーにしがみついたままで、弘平を見る。驚きすぎて頭が働かないのだ。伊織君、居たんだ!?電気ついてなかったけど、まさかお風呂に入ってたの!?

 弘平はパッと立ち上がって、片手で頭をかきまわす。そしてイラついた口調で言った。

「っんだよ・・・!俺、修羅場とかごめんだから!」

 それから彼はバタバタと玄関へ向かい、乱暴にドアを閉めて出て行った。そのバン!という大きな音を、私と伊織君はまだ呆然としながら聞いていた。

「・・・えーと・・・」

 伊織君の声がして、私はゆっくり向き直る。

 ポカンとした顔のままで彼が言った。

「・・・大丈夫です、俺達まだ手も繋いでませんから、って、言ってこようか?」


 ―――――――・・・ああ、神様。


 私はその場に虚脱した。

「――――――いえ、結構です。いいから服着たら、伊織君、風邪引くよ」

 ああ、そうだよね、そう言って伊織君は洗面所に引っ込む。

 私はその場で、酷い疲労感に包まれながらしばらく動けなかった。

 ・・・何てこと!

 頭の中で弘平の言葉が回る。もう一回?もう一回って・・・そんな都合よく?私はあなたに傷つけられたんだよ!そんでそんで、その傷を癒すのにかなりの時間が必要だったんだよー!それなのに、それなのに、再会してすぐにそれ?いやいやいやいやいや・・・。それにそれに、まだ手も繋いでませんからって、伊織君たらそうじゃないでしょ〜!

「何なのよ・・・一体これは・・・」

 私はげっそりと呟く。おかしいな、今日はお洒落な夜になるはずで、素敵な津田さんを見て気分もよく帰ってくるはずだったのに?

 洗面所のドアがあいて、今度はちゃんと部屋着を身に付けた伊織君が出てくる。まだ濡れているらしい頭にはタオルをかけていた。部屋着の上からフリースのパーカーを羽織って、彼は腰に手をあてて私を見る。

「俺ってさ、邪魔したのかな?さっきの」

「え?・・・いや、どちらかと言えば助けられたの。えーと、ありがとう」

 私が首を振りながらそう言うと、伊織君はヒョイと肩を竦める。

「それなら良かった。イヤホンで音楽聞いてて、よく聞こえないけど何か凪子さんが叫んでるなーと思ったんだよ。それで、ネズミでも出たのかと思って。とにかく下だけでも穿いてって急いだんだけど、まさか男の人がいるとは思わなかった」

 彼はそう言いながら台所に立ちコーヒーを淹れる。

「凪子さんも飲む?」

「あ、頂きます」

 私は何とか両手に力をいれて立ち上がり、ソファーに座りなおした。そして改めて、疑問を口にする。

「電気も暖房もついてなかったから、居ないと思ってたの。音楽聞きながら真っ暗でお風呂入ってたの?」

 確かにお風呂場の窓は玄関先からは見えないけれど、洗面所のドアには小さな窓がついていて、お風呂場や洗面所に人がいるかはその光で判るはずだ。だけど家に入ってきたとき、ついているのはシンクの上の明かりだけだったはず。エアコンもストーブもついてなくて部屋は冷え切っていたし。

 伊織君はははは、と小さく笑って、私にコーヒーを運んでくれる。

「俺たま〜に蝋燭持って風呂に入るんだよね。スタジオで目を酷使した時なんか、疲れで霞むし電気が眩しくて目にしみるんだよ。痛くて涙が出てきちゃって。それで蝋燭。そんで、たま〜に音楽も持って入る。リラックスも出来るし、おすすめだよー」

「あ、成る程。だけど・・・ここの浴槽は小さいでしょう?私でも脚のばせないんだから、伊織君だったらダメだよね?どうやって寛ぐの?」

「完全に足を伸ばせなくても、とにかく全身が浸かれれば。窓枠に蝋燭置いてて、顔にはお湯で温めたタオルのっけて。肩凝りもほぐれる」

 そうか、そんなやり方が。私は頷いて、でも火事だけは気をつけてねと言う。ここボロイ木造なんだから。

「それしてたら、かなり全身温まるんだよ。暖房要らないくらい。風呂から上がったらつけようと思ってて。凪子さんが家に居なくて、そう言えばちょっと驚いたな」

 私はゆっくりと息をふきかけて、淹れてくれたコーヒーを飲む。それは熱くて香りが立ち、驚きの連続でささくれたっていた私の心を落ち着けてくれる。熱い液体が喉をおりるのと同時に、くたあ、と体から力が抜けた。

「あ、美味しい・・・」

 私がそう言うと、伊織君はにっこりと微笑む。

「そうでしょう。俺はコーヒー淹れるの上手だと思うよー。何せ毎日10杯以上は飲むからね」

「え、それは飲みすぎでしょ!体によくないと思うよ」

「判ってるけど、まあ酒に溺れるよりいいかな、と。外国で安心して飲めるのがスパークリングウォーターとコーヒーだけなんだよね。結構辺鄙なところもいくもので」

 ああ、これまた成る程。私は頷いた。

 しばらく黙ってコーヒーを飲んでいたけれど、その内伊織君がぼそっと言った。

「凪子さん、それで、さっきの人は?」

 私はついため息を吐いた。・・・そりゃあ気になるよねえ〜・・・。だけどもう今晩は、ヤツのことは思い出したくないんだけど。でもそういうわけにはいかないか・・・。

 十分間を開けてから、言う。

「元カレ。1年半前の夏まで2年付き合っていて、振られた相手」

 伊織君が顔を上げた。

「ああー!あの、金持ちで俺様で凪子さんが振り回されまくった、とかいう?」

「・・・君に話したことありましたっけ?」

「うん、最初に俺がここに来たときにね。そうか、あの人が。まあでも格好いい人だったよね、外見恵まれてて金もあったら、そりゃ自信満々にもなるかも」

「そう。それが魅力の一部でもあるよね。自信がない人より、自信がある人の方がよく見えるのは仕方ない」

 伊織君から反応がないので、私はカップから目を上げる。すると頭にかけたタオルの淵からじいっとこちらを見ている伊織君と目があった。

「・・・何?」

「それで?何で二人で微妙な場所でしゃがみ込んでたの?」

 うう・・・頭痛がする。私は頭を片手で抑えながら小声で言う。

「・・・復縁を迫られたの」

「おおー?もしかして、また会おうって連絡が来て、それで今日はドレスアップして会いに行ったってこと?」

 伊織君がいつもより格段にお洒落をしている私を指差す。

「え?ああ、いや、これはそうじゃないの。前の会社でお世話になった人が自分の事務所作ってね、そのお祝いの会場でたまたま彼に会ったの」

「へえ」

 私はソファーからヨロヨロと立ち上がった。コーヒー飲んだばかりだけど、今晩はもう寝よう、そう決めて。

「あの人、色んな女性と付き合ってみて、私が一番マシだったって思ったんじゃない?もしかしたらコントロールしやすいって思われたのかも。だけど、私はもうそんなつもりはないから、とにかく逃げようとしてたってこと。そこに君が現れてくれて、あの人が勝手に誤解したので、助かりました」

「ああ、確かに誤解してたねえ。修羅場はごめんとか何とか」

「もう勝手にそう思っとけって感じ。えーっと、伊織君、コーヒーありがとう。とにかく非常〜に疲れたので、私は寝ます」

 伊織君が自分の背後を親指でさす。

「お風呂は?その格好で外出してて、凪子さん体冷えてない?俺使ったあと浴槽洗ってあるけど」

「今日はいい。化粧だけ落とすよ。明日起きてから入ります」

 よろよろと階段へ向かう私に、背後から伊織君の声が追いかけてきた。

「風邪引かないようにねー、ちゃーんと温かくして」

 私は一瞬、動けなかった。

 その発音、言い方が、綾に完全に重なったからだった。あの子がいつも寝にいく私にかけてくれた言葉。ちゃーんとって伸ばすところも、同じだった。

 ・・・あ、何よ、もう。こんな時に。

 じわりと涙が浮かぶ。

 私は頭を振って、綾の思い出を追い払った。

 泣くのは、部屋に入ってからにしようと決めた。



 翌日、宣言通りに朝風呂をして、私は午後から街へ出た。

 そして雑貨屋を巡り、運命の出会いを感じたマグカップを買って、家へと戻る。

 これは伊織君へのプレゼントだ。昨日助けてくれたお礼に。

 彼がいなかったら、きっと私はまた弘平の手中にはまってしまっただろう。あれよあれよという内に抱かれてしまって、きっとまた、弘平に惹かれてしまっていただろう。抵抗できずに、受け入れてしまっていたはず。それでまた自分を苦しめたはずだ。

 そうならなくて良かった。

 もう一回弘平とやりなおしてみたって、きっと多分いきつく先は同じような結果だろう。そう思えるほどに、私は回復していたのだった。

 あんなことはもう嫌だ。

 自分を圧し殺して、相手の望みだけを必死で叶えるような恋は。

 偶然だったけど、伊織君のお陰でそうならずに済んだ。

 台所にある小さな丸いテーブル、その上に、手紙と一緒に置いておく。

『伊織君へ。これからは、これを使ってくれると嬉しく思うのですぞ。 凪子』

 買ってきた大きめのマグカップは白い陶器で、全面に英語でバーンと書いてあるのだ。

 PLEASE STOP ME, IF I DRINK COFFEE TOO MUCH!!(飲みすぎたら止めてね!!)

 うんうん、任せて。一緒にいる時は、ちゃーんと止めるからね。

 テーブルの上にセットしたそれを見て、私は一人で笑っていた。





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