・2・



 あの人が話す。私は〇〇まで乗るんです。会社はどちらですか?僕が答える。××です。山の手でお勤めなんですね、僕は街中なので気温が下がらずに辛いですよ。

 あの人が言った。

「ビル風も凄いんでしょうね」

 その時、あの人は前を向く。人ごみが動き出す。電車が来たのだと、僕はやっと理解する。自分の乗るつもりの電車もとっくに着いて、結構な数の人が乗降していた。

「失礼します」

 あの人が最後に笑顔をくれる。またあの香りが僕を包み込んで、咄嗟に返事が出来なかった。

 あ・・・。

 あの人の後姿が電車の中へと消えて、ようやく自分の足も動き出した。ギリギリセーフで電車に駆け込んで、周囲の人間に迷惑そうな顔をされてしまった。

 僕はぼーっとしていた。

 ・・・・あの人と、話すことが出来たんだ。

 綺麗にきゅっと上がった口元。パールピンクの唇。それからそれから、どこの駅が最寄なのかも判ってしまった。それに何と言っても、あの人から話しかけてくれたのだ!あの人から!

 僕は天国にも上がったような気持ちでその日一日を過ごす。

 テンションが高くていつもはうんざりしながらこなすルーティンワークだってすいすいと進んだくらいだ。ついでに通りかかった上司に、最近やる気だな、と褒められもした。

 これぞ恋の力!僕はもう百人力になったつもりで、次こそは、と決心する。次こそは、いや、明日こそは、自分から話しかけるのだ!って。

 もう挨拶をしても変じゃないだろう。あっちからしてもらうより先に、僕からするべきだ。そしてもうちょっとプライベートなことを教えてもらう。名前とか・・・それに出来れば連絡先も欲しい。仲良くなって───────お茶とか、行けるように。

 そこまで自分で想像してバタバタしていた。

「うわーうわーうわー!」

 僕はどうしてしまったんだ。そう言う声も弾んでいた。

 そして翌日。僕はいつもの階段を軽快に上がっていく。今日は先にいって、あの人がくるのを待ってようと思ったのだ。自分から挨拶をして、あの人がくれる笑顔が見たいって。

 だけど、あの人は来なかった。

 その朝、僕は電車を2本見送って待っていたけど。

 いつもの僕が乗る電車の同じ車両のメンバーが、不思議そうな顔をして窓の中から僕をみていた。え、乗らないの?そんな表情だった。僕は困りきって一人でホームに突っ立つ。だってあの人が来なかったから。だから僕は、会社にも遅れてしまった。

 
 あの人は、それからもプラットホームに姿を見せなかった。

 僕が使うこの駅は乗換駅でもあったから、彼女は他の沿線から乗り換えていたのかもしれない。まだそんなことを知る前に、あの人には会えなくなってしまったのだ。

 使う時間を早くしたのかな、そう思って、色々時間帯を変えてみたりもした。1本早くしたり、1本遅くしたり。椅子に座れるようにって早めることはあるだろうし、勤務時間が変わったのかもしれないと思って。

 諦めたくなかった。ようやく話せた次の日に、会えなくなるなんて。

 そんな、無情な。

 僕はしばらくの間大いに足掻いてみせて、それから1ヶ月が経った頃、仕方なく、沈んでいく気持ちを受け入れた。


 ・・・あの人には、もう会えないんだ。



 冬の間は、原チャリでは辛い。それは原チャリボーイだったころの僕でもそう考えていた。完璧な防寒着でぐるぐるに巻き込んで、それでも寒風をつっきって通勤していたけれど、今年は諦めて電車にすることにした。

 あの人に会えなくなったと理解してから、2ヶ月は原チャリに戻ったけれど、すぐ運動不足にもなったから電車に戻したのだ。

 彼女には会えないけれど。でも、覚えていたかったから。

 あのドキドキと喜びを覚えていたかったから。

 ホームの上、いつもの喧騒。ほぼ同じメンバーが、今日もきっちり同じタイミングで現れては同じ立ち位置にむかって進んでいく。

 前のサラリーマンが新聞を器用に畳んで、マスクの中で咳をした。

 インフルエンザが流行っていた。僕の会社でもマスクの着用が敢行されていて、鞄の中にもデスクの中にも用意してある。勿論人ごみの中である電車では、つけることにしていた。

 乾燥した冬の空気に、喉の渇きを覚えていた。マスクで覆われた口の中にハーブキャンディーをいれたくて、僕はコートのポケットの中を探る。先日職場の女性の先輩から貰った飴がまだあったはずだ。

 指先でそれを見つけて、コートから取り出す。それを口にいれようとしてマスクを外したとき────────ドン、と結構な振動が体にきた。

 ぶつかられたのだと判った。

 しかも、その反動で指先でもっていた飴が袋から転がり落ちてしまった。

 あ。

 飴はコロコロとホームに並ぶ人達の足元を駆け抜けて、吸い込まれるように電車のレールへと落ちてしまう。

 一瞬呆気に取られて、それから僕はむかっ腹を立てながら後ろを振り返る。くそ、どこの誰だ、こんなタイミングでぶつかりやがって─────────

「あの、すみません。飴を飛ばしてしまって・・・」

 ふんわりと、あの香りがした。

「あ」

「あ」

 二人で同時に声を出す。

 混雑するホームの上で、僕にぶつかった人、それは懐かしいあの人だった。

 旅行鞄のような大きなキャリーケースを持っている。どうやらこれが僕の足に当たったようだった。

 振り返ったままで驚く僕の顔を真正面から見て、あの人がふんわりと笑った。

「マスクでわかりませんでした。ごめんなさい、またぶつかってしまって。私ったらそそっかしいから」

「ああ・・・いえ!大丈夫、です」

 ようやく声が出た。

 彼女は真っ黒のダウンのコートをきていて、カジュアルな装いだった。無意識にあの人を探してはいたけれど、季節が変わっている上に着ているもので雰囲気がかなり変わる。僕のレーダーはキャッチし損ねていたらしい。

 嬉しい偶然で、あの人の方からぶつかってくれたけれど。

 僕はようやくちゃんと体をむきなおし、ついでに電車を待つ列から抜け出した。

 チャンス到来だ!全身でそう感じていたから。

「あの、あの!」

 うまく声が出ず、きょとんとしている彼女の前で咳払いをする。

 落ち着け、とりあえず、聞きたいことは山ほどあるんだ。でも時間がないかもしれない。ってかこの格好は、もしかして旅行とか?

 色々忙しく考えたけど、とりあえずそれを聞いた。

「お、お久しぶりです。あの・・・旅行ですか?」

 あの人はパッと花が開くように笑うと、いえいえ、と首を振る。

「最近まで色々あって・・・今、転職して引越し前なんです。それで持っていける荷物をちょっとずつ運んでまして」

 へえ!

 目の前が一気に晴れた気がした。

 転職に引越し!そりゃあ忙しかったわけだよね。だから通勤電車にいなかったのか!って。

 わけは判ったけれど、その後一瞬で暗い気持ちになってしまった。・・・引越し。ってことは、もうこの駅は使わないのだろうか?

 ドーンと気分が落ち込んだ。折角会えたのに、また目の前から消えてしまうのだろうか。

「じゃあ、もうここは使わないんですか?」

 気がついたら聞いていた。

 彼女は一瞬びっくりした顔をしたけれど、ちらりとホームに目を走らせてから、ゆっくりとこう言う。

「・・・あの、会社に行かなくて大丈夫なんですか?」

 いつも僕が乗っている電車はついさっき出てしまったところだった。気にしているのだろう、困ったような顔をしている。だけど僕はそれどころじゃなく、焦った気持ちで首を振った。

「大丈夫です!今日は・・・ええと、休日出勤なので、時間は決まってなくて。ついいつも通りに出てきてしまったんですが」

 勿論嘘だ。だけど僕は必死だったのだ。今、ここで彼女との会話を逃してしまうと、今度は本当にもう2度と会えないかもしれないのだから。

 すると彼女は一瞬、考える表情で空を見上げる。

 茶色の髪が肩でふんわり揺れて、あの香りが僕を包む。

 ああ、これだよ、これ。好きな香りだ────────

「あめの」

「えっ?」

 よく判らなくて聞き返す。雨の?どういうこと?

 彼女が笑った。そして、ゆっくりと言いなおす。

「飴を、さっき落としてしまわれたでしょう。私のせいで。よかったら・・・お時間あるなら、お茶でも飲みませんか。私、時間がありますし、お詫びがしたいんです」

 力が入っていた肩が、ストンと落ちた。ほお、とゆっくり呼吸をする。足の先から熱が上がってくるようだった。それはじんわりと体中を包み込んで、僕を笑顔にさせる。

「お茶、いいですね」

 ちゃんと、そう言えた。


 ホームの2階にある小さなカフェで、周囲の騒音を完全に忘れて彼女と話し込んだ。

 注文したコーヒーは少し残ったままですっかり冷め切って、ミルク色の玉が表面に浮かんでいる。僕達は完全に時間を忘れて会話に没頭していた。ポケットの中で携帯電話が振動しているのも気がつかずに、僕はひたすら彼女の言葉に反応して笑う。

 そして僕は知った。

 彼女の名前も、連絡先も、引越しをしてもずっとこの駅を使うってことも。笑顔になるとちょっと左眉が上がるのとか、人差し指に傷があるとか、独身であることも。

 それと。


 あの、香りの名前も。




・「プラットホームの恋」終わり。

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