・10:00P.M.・1
久しぶりに我が社にやってきた繁忙期で、ちょっとしたプロジェクトの責任者になっていた私は、今日だけはどうしても仕方ないと腹をくくっての残業をしていた。
就業時間の6時を過ぎて部屋の中はどんどん人が減っていく。高層ビルの20階から23階のフロアーを占領しているうちの会社は、残業そのものが推奨されていない。というより、財政圧迫のためにむしろ残業は禁止されている。加えて丁度家族を作り出したばかりの若い社員が多いこともあって、8時を過ぎる頃にはほとんどの社員が帰ってしまっていた。
強烈な夕日を遮るために下ろされていたブラインドは、ついさっき帰っていった課長があげていった。一面のガラス窓の向こう側には摩天楼の夜景が広がる。
「ああ〜・・・コーヒーが必要だ、今すぐ」
それもうんと濃いヤツを。
私は一人でそう呟いて、資料やら資材やらで溢れかえったデスクからヨロヨロと立ち上がる。最後まで残ってくれていた部下の新条君が置いて行った大量の資料コピーに埋もれて死ぬかと思うほどだった。
息が出来ないのよ、あんなにあっちゃ!
だけどそれは勿論新条君が悪いわけではない。今31歳になる新条君は転職組でこの会社に入ってきたはりきりボーイ(ボーイではないか、いい年の男性よね)で、確か去年娘さんが生まれたのだった。今が可愛い盛りの娘に会いたくて、彼はいつも最初に退社している。だけどプロジェクトも楽しんでいるようで、これが始まってからは何かと残っていたのだけれど、今日はもういいよと帰したのだ。
あ、そういえば。
その新条君が資料とともに置いていってくれたものがあったはず!
私はいそいそと散らかったデスクの上を探り出す。ええと、確かこの辺りに――――――――
「あった」
取り出したのはチョコレートの箱。女性には、コーヒーとこれの相性がいいんでしょ?妻がそう言ってましたよ、と笑いながら、新条君が置いていってくれたものだった。
・・・気が利くな。きっと彼はいいダンナさんでもあるのだろう。
私はチョコの箱をそっとパソコンのキーボードの上におくと、給湯室へとむかって歩き出す。ぐるりと見回した限りでは、この22階の企画室に残っているのは私だけらしい。隣にある営業室は恐らくまだ誰かはいるだろうし、23階の重役室にももしかしたら誰かは残っているかも。凝り固まった首をまわして音を立てながら廊下を歩く。ここの廊下にはカーペットが引きつめてあって、ヒールをはいた足に優しい。だけど、足音がしないために出会い頭で誰かにぶつかりかけて驚くこともよくあった。
そういうわけで、私は角を曲がるときにはちょっと慎重になる。誰もいないだろうってわかっていても、一応、念のため・・・。
と、角を曲がったその先に人影を発見した。
「あ、まだ残ってたんですか?」
「あー、お疲れ様、牧野さん」
給湯室の手前、自動販売機が置いてあるところの喫煙コーナーで、営業部の牧野さんがタバコを吸っていた。壁にだらりともたれていたのをパッと姿勢を正したのは、きっと私が年上だからだろう。一つしか違わないのに、まったく今時珍しく律儀なことだわ。私はそう思って苦笑した。
「そうなの、珍しく企画部の繁忙期到来でね〜」
「ああ、置田部長がとってきたアレですか?そりゃ大変ですね」
うちの会社の名物部長である置田部長、外見も性格もクマのようなその人がもぎ取ってきた巨大なプロジェクトなのだ。それはうちの企画部だけではなく、勿論会社全体を巻き込んだものなのだけれども、今は計画を煮詰める段階。なので繁忙期はうちだけってことになる。
それにしても、と私はちらりと牧野さんを盗み見た。この人、相変わらずいいお声。特別特徴があるわけではないのだけれど、トーンがいいというか、発音がハッキリしているのに柔らかい印象を残す話方をするのだ。一度それで牧野は営業部への配属になったと聞いたことがあるくらい、彼の声は心地よい。きっとしっかりと営業でも成果を出しているのだろう。年齢のわりには安くないスーツを着ている。
「そう。でもこっちが終われば営業部にも影響いくよ〜。販売部がどう動くかによるけどさ」
悪い顔をして私がそういうと、それは仕方ないっすね、と呟くように言って彼は肩を竦めた。
じゃあお疲れ様、そう挨拶して私はコーヒーを淹れに給湯室へ。
ドアがしまる前に、牧野さんのお疲れ様です、という声が空気と一緒に入ってきた。
私はしばらくその声の余韻に浸ってしまった。
うーん・・・いい声だ。耳から栄養注入だね、ほんと。
そう言えば、耳に甘い声っていうのを、イヤーキャンディーっていうんじゃなかったっけ?
そんなことを思ったのは、もう時計の針が9時50分をさしている時だった。
すっかり暗くなって、高層ビル一面の窓から見える景色は夜の中に瞬く都会のいくつもの光。私のデスクのライトだけがついている状態で、そんな景色に気がつかずに過ごしていた。
かなり集中していた。そのお陰でやるべきことはほとんど済みつつある。今日の分は明日に残したくない。明日は明日で、きっとまた大量の非常事態が発生するのに違いないのだから。
会社はもう夜の中に沈みこみ、きっと今残っているのは私くらいだろう。このままでは残業代なんてつかないぞっていう時間になってしまう。それに、お腹も空いた。
疲れているからだろう、私はつい、コーヒーを淹れにいったときに出くわした牧野さんの良い声を思い出していたらしかった。イヤーキャンディーとは、まったくよく言ったものだわ。耳からでも糖分が欲しいものなのね、こうも疲れが溜まってしまうと。あの人の声を例えば電話で聞いたなら、その一瞬はかなり幸せなんじゃないだろうか。脳内物質がいくつか湧き出しそうだ。
私は頭をふって一度ぐぐーっとのびをすると、散らかったデスクを見回した。
「・・・片付けなきゃね」
そう呟いて、よっこらせと椅子から立ち上がる。仕事途中で脱いだパンプスを机の下に転がしたままで、私は重くなった腕をなんとか動かしてデスクの上を整理し始めた。
このままだったら10時を過ぎてしまう。勿論終電には余裕で間に合うけど、でももうスーパーもあいてないしな・・・。晩ご飯のことを考えて面倒くさくなってしまった。
お腹はすいているけれども、食事をとる、という行為にいきつくまでがえらく面倒くさいじゃないの!ああ・・・出前でも頼みたい。今ここに何か美味しい食べ物をもって来てくれる人がいたら、それだけで惚れてしまうかも・・・。
「いやいや、ないでしょ」
一人で苦笑した。
自分があまり男性に惚れないタイプなのは重々自覚している。きっと恋愛カテゴリーの優先順位が低いのだろうって分析していた。一人でも平気なことが多かったし、気楽だった。
この歳まで仕事を頑張ってきたのは、それが楽しかったからだ。おかげで女性にしたら高い社会的地位を手に入れることも出来ている。だけど、34歳の女性という意味での私生活の潤いというのは、ほとんど砂漠化している状態なのだった。
右左どっちをむいても、一人。咳をしようが面白いテレビをみて笑おうが一人。
賃貸の小さな家は帰って寝るだけ。
ペットも飼ってないし、同居人もいないから、部屋に帰って明りをつけるのも私の役目。
残業が禁止されてからはあまりまくった夜の時間をなんとかしようとジムにいってみたりしたけれど、いまいち熱中できなくてそれもやめてしまった。会社を離れてまで愛想笑いをするのが嫌だったのだ。時間はある。だけど友人は皆結婚して子供がいるから飲みに付き合わせることなど出来ないし、部下だって家庭もちばかりだ。それだったら家で一人でぼけっとしている方がマシ。だから仕事から帰ったら、お酒を片手にDVDを観る日々なのだった。
今年で34歳。そろそろ実家の両親も将来のことに口を出してきそうな雰囲気で、それが鬱陶しくて、正月も多忙を理由に帰省しなかった。
整理の手をとめて、ほっと息をついた。
仕事の充実の代わりに、私が手放したものは――――――――・・・
その時、広い企画部の入口近くにつけられた壁時計が、カチリと音をたてる。
私はハッとして振り返って時計を見上げる。
10時だ。
これ以上は、残業代が出ないばかりか叱責の対象になる。明日出勤してきたら、朝日の中で総務の子に叱られるなんて御免だ。
「帰りましょ、っと・・・」
止めてしまった手を慌てて動かして、私はざっと周囲を綺麗にする。それから机の下の暗がりで迷子になっていたパンプスをひっつかむと、もうエレベーターまでは履かずに歩いてやれ、と鞄と一緒に持って歩き出した。
私のデスクランプを消して非常灯だけになった部屋のドアをしめて、ロックする。それからタイムレコーダーを雑に押して、絨毯の感触に足を喜ばせながら、エレベーターホールに向かって歩いていく。
ああ、足の裏が気持ちいい〜。そういえばマッサージもずっといってないかも。今度の休みには、足裏のマッサージにでも行こうかな・・・。
そんなことを考えながら、角を曲がった。
そこにはビルの共有エレベーターが6基並ぶホールと、都会の夜景を見渡せる一面の窓―――――――――――それと、人影。
え?
私はつい立ち止まる。
もう4基しか動いていないエレベーターの低い振動音が聞こえる。そこの暗いホールの中、壁一面の窓際で床に座り込む人影を発見したのだ。
・・・あれは――――・・・
「牧野、さん?」
私の声が届いたらしい、シルエットがヒョイと振り向いた。
「あー・・・、古内さん?」
私が影で見えないらしい、そう気がついて、ダウンライトが光るエレベーターの前まで進み出た。牧野さんは床に敷き詰められた絨毯の上にあぐらをかいて座り、窓から夜景を見ていたようだった。驚いた顔をしている。
急いで立とうとするのを、私は慌てて手で制した。
「あ、そのままで。ごめんね、驚かせてしまって」
「本当にびっくりしました。もう誰もいないと思ってて・・・。それに、足音が」
「ああ、聞こえないでしょ。だって」
私はあははと笑ってから、手にもったパンプスを持ち上げてみせる。
「足が痛くてね、もうむくんじゃって。残業中脱いでたからそのままで来ちゃって」
ああ、と柔らかく言って、彼は少し笑う。
「女性は大変ですよね。でもうちの会社、この絨毯が廊下にまであるからつい座りたくなるんですよ」
「判るわー、部屋だとそんなこと思わないけど、そこなんて綺麗だろうし、誰にも踏まれてないからふかふかよね、多分」
そうよね、私は言いながら考える。窓際ってもしかしたら特等席なんじゃないだろうか、って。特に、このエレベーターホールの窓際は。ほとんど人が留まることのない空間で、ふかふかの絨毯。座りたくなる気持ちも判るってものだ。
「今まで仕事してたんですか?」
「そうだよー。って、牧野さんもでしょ?」
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