・プラットフォームの恋・1



 あの人を初めて見たのは、久しぶりに上がったプラットホームだった。

 いつもは原チャリで仕事へ行っている僕が、電車を使うときは滅多にない。台風で天気が荒れまくってるときとか、原チャリが故障中とか、そんなどうしようもない時くらい。

 その日、電車で仕事へいく羽目になったのは、タイヤのパンクだった。道路に投げ捨ててあった曲がった釘が、信号でとまった僕の原チャリのタイヤを直撃したのだ。全く忌々しい。

 だけど会社から支給されている交通費は定期券代だし、交通事故を考慮して原チャリでの出勤は認められていない。それを承知のうえでコソコソと原チャリ通勤をしていたのだから、この状況について僕が文句を言うのは間違っていた。

 僕が電車をいやがるのは判ってもらえると思う。だって、ホラ。あの混雑。原チャリで一人で快適に風を切りながら進むのとはえらい違いな、あの混雑。都会の電車の乗車率は200パーセントが当たり前、そんなのが常識。電車にはそれがあるから、僕は若干イライラしていたのだ。

 そんな時に、後ろ側のホームで電車を待っていた列の最後の女性と、鞄がぶつかってしまった。

 こっちはこっちでずらっとホームに並んだ人の列の最後だったから、どちらが悪いわけでもない。だけど丁度イライラしていた時だったから、僕はちょっとむっとして肩越しに振り返りかけた。

 するとふわりと爽やかな香りがして、僕はハッとした。

「すみません。大丈夫ですか?」

 相手の女性はすでにこっちを向いていて、申し訳ないという顔で先に謝ってくる。僕は咄嗟に帽子に手をやって、小さな声ですみませんと謝った。

 イライラしていた気分が、吹っ飛んだ。

 あの人がまとう香りと、その声と、細められた瞳に。

「あの・・・大丈夫です。こちらこそ、鞄があたってしまって」

 普段なら言わないそんな言葉もつけたのは、彼女がきっちりとこちらに体をむけてみていたからだ。

 あ、すみませーん、のような謝罪でももらえればラッキーと思える状況で、僕はえらく素敵な言葉を貰ってしまったらしい。

 緩くウェーブを描いた茶色の髪の毛がふわりと揺れる。その度にあの柑橘系のいい香りがして、僕はちょっと夢心地だった。

 彼女はもう一度頭を下げると自分の列へと視線を戻す。僕ものろのろと前に向き直った。

 お互いが待つ電車が、それぞれにホームに滑り込んできた。


 電車の中で揺られながら、さっきぶつかった人を思って僕はボーっとしていた。

 顔・・・はイマイチ覚えてないけれど、全体像と、あの目は覚えている。すっと上に切れ上がった瞳に長い睫毛、その黒目がキラキラしていたように思う。

 惹かれたのは香りか、瞳か、それとも雰囲気か。あの透き通るような高い声か。

 僕はぼーっとしたままで出勤し、その日一日、その人のことが頭から離れなかった。

 原チャリのタイヤを直すには、次の給料日を待つ必要がある。

 というわけで、翌日も僕はいそいそとプラットホームに上がっていく。混雑するホームにざわざわと忙しない空気、それも昨日とは違って新鮮で刺激的に感じるようだった。

 あの人はいるだろうか。

 出勤電車なのだとしたら、普通は同じ電車の同じ車両に乗るよな。そう考えて、僕も昨日と同じ電車を使うことにしたのだ。

 ドキドキしていた。あの人はいるかな、そう思うだけで、体温が上がるようだった。

 まさかまさか、これって一目ぼれってやつなのだろうか?そんなことを考えて自分であわあわする。

 目をあちこちに動かしてあの人を捜す。茶色の髪、それからあの香り・・・。

 ふと、鼻先を何かがくすぐった。

 僕はハッとして振り返る。

 目の前に、昨日のあの人がいた。

 今日もまっすぐに姿勢を正して歩いていく。混雑したホームで人をよけて歩くために僕の後ろを通り過ぎ、そのために香りが僕に届いたようだった。思わず鼻孔を全開にして香りを吸い込む。格好悪い顔だったと自分でも思うけど、仕方がない。僕はそれほどに一瞬で「もったいない」と思ってしまったからなのだ。

 あの人の、素敵なふんわりした香りが消えてしまうのを。

 僕の毎日が、変わりつつあった。

 周囲が、主に家族が「どうしたの?」と口に出して言うくらい、とにかく原チャリボーイだった僕はひたすら電車を使うようになり(会社に原チャリ通勤がバレてヤバイって言い訳した)、駅まで歩く上に階段の上り下りで鍛えられた足腰が丈夫な体を作ってくれた。

 シュッと痩せた体。それから、ホームで見詰めるあの人と目があった時用にとそれなりに頑張って洒落た格好。会社で制服がある僕は、今までは快適性重視のパーカーにジーンズ、キャップといういでたちだったのだ。それがジャケットを羽織ったりスラックスになったりもしたし、ジーンズをはくのでも上等のものに変えたりもした。腕時計を嵌めてみたり、鞄を新品にしてみたり。

 あの人から香るのが何の匂いが知りたくて、妹の誕生日プレゼントを選ぶという理由をこしらえて香水売り場にまで行ってみたりした。アレコレ嗅いで、鼻がもげそうになったりもしたのにあの香りは見つけられない。僕はかなりガッカリして香水店をあとにしたのだ。

 そんな日々が3ヶ月は続いた。

 今ではあの人だけではなく、毎日僕が乗る電車の「いつものメンバー」の顔すらも覚えている。

 ちょっと不思議な感覚だった。こんなことでも一人じゃないんだ、って気がついたというか。ホームにくれば会える数々の人々。自分がその一員になっているってことがえらく不思議だった。目と目で確認しあう。いつもの時間でいつもの電車だと。あ、あの男の人今日は機嫌良さそうだな、とか、いつもは新聞なのに今日は携帯を見ている、とか、そういうことが。

 そして、同じ一日が始まる。

 あの人の顔はバッチリ覚えてる。もう香りだけでなく、後姿、首筋にあるホクロ、その白い肌やいつも右手首につけている金の細いブレスレットも覚えている。

 僕は出来るだけ彼女と話をするために、最初の偶然を自分のものにしたくて、いつでも混雑する電車の列の最後尾に並んでいる。だけど彼女はその時々によって列の前にいたりとか真ん中だったりするので、鞄がぶつかるというハッピーな偶然は滅多に生まれなかった。

 イライラして焦るような、不思議な感覚。自分でもどうしたいかが判らなかった。声をかけよう、と考えることもあったけれど、一体何ていえばいいんだ?と悩んでは寸前で上げかけた手を下ろしてしまう。

 恋をしたことはある。

 だけど、こんなのは初めてだった。

 こんな、最初の会話のきっかけですら困ってしまう、そんな淡い恋は。


 季節が変わって、秋になっていた。

 僕は今日もホームへ足取り軽く上がっていく。

 僕の毎日は、この朝の一瞬のためにあるようなものなのだ。この朝の混雑するホームであの人を見る楽しみが終わってしまうと、あとはただの日常がだらだら〜っと続くだけなのだから。帰りの電車でも探してはみたけれど、一度も会えたことはないから退勤時間が違うのだろうって思っていた。だから朝が勝負なのだ。

 今日も目で彼女を探す。いつもの車両、いつもの立ち位置。・・・あ、いた。

 つい口元がゆるむのを感じながら僕は緊張して歩いていく。今日はあの人は、列の最後に並んでいる。もしかしたらあの偶然がきたのかも。もしかしたら────────

 ふ、と、あの人が顔を上げて僕を見た。

 バッチリと目が会う。

 え?僕は一瞬驚いてしまう。

 だって、あの人が、ふんわりと微笑んで会釈してくれたからだ。

 思わず振り返って、自分の後ろに誰か他の人がいるのかと確認する。自分だと思って手をあげてみたら違う人に対する挨拶だった、なんてことになったら恥かしくて死ねる。そんなことになったら悲惨以外の何者でもないぞ、そう思って。

 だけど、そこには僕の方向を見ていると確信できる人はいなかった。

 くるりとまた前を向く。まだあの人は僕を見ている。

 ・・・・あれ?もしかして・・・。

 歩いて近づき、間抜けな声で自分を指差した。

「あの、僕ですか?」

 あの人が、くすりと笑った。

「そうです。よく目が会うから・・・挨拶なしだと気まずいな、と思っていて。急にすみません」

 ぼっと顔に血がのぼるのが判った。

 僕にだったんだ!挨拶してくれたんだ!!

 それは強烈な快感となって僕の体を駆け巡る。ちょっとかすれてしまった声で、それでも急いで挨拶を返した。

「いえ、あの・・・ありがとうございます。お、おはようございます」

「おはようございます。毎日混んでますね、電車」

 彼女がもっとしっかりと笑った。

 急に汗をかいてきて、無意識に両手を握り締める。うわ〜!と思った。何故かどうしてか、僕はあの人と話している!!

「大変ですよね、ラッシュだから」

「ええ」

 憧れて、数ヶ月見ているだけだった人と会話をしているのが信じられなかった。ざわざわと騒がしい周囲の騒音が、どこかへ消えてしまったみたいだった。



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