・彼は私のもの・



 部屋の中で、女二人がにらみ合っていた。

 30分前に一人の女がもう一人の女の部屋のインターフォンを押して訪ねてきたのだ。それから少しの自己紹介と、観察と判断、あざけり、駆け引きのような言葉があって、現在は冷蔵庫が開けっ放しなのかと思えるほどの冷気が部屋の中に漂っている。

 女の一人は伊川雅美、31歳のモデル。最近は若い子むけのファッション雑誌ではなく、主に通信販売の雑誌での仕事が多くなってきてはいるが、スラリとした長い足と細面の顔、ツヤツヤと輝く黒髪を胸下まで垂らした綺麗な女である。

 彼女は今、アイラインを丁寧にいれた切れ長の瞳をキッと吊り上げて、目の前の若い女を睨みつけていた。

 もう片方は山口類、25歳の企画営業。雅美よりも頭一個分低い身長、栗色に染めた髪はふんわりとパーマがあてられて、肩先でゆるやかに揺れて輝いている。雅美がもつアジアンビューティーな美しさとは違って、こちらは洋風な魅力を備えた「可愛い」女であった。大きな瞳は睫毛がたくさんはえていて、それは完璧な形で上をむいている。涙袋がぷっくりと膨らんでいて、そのピンク色の唇にはなめまかしい縦皺がいくつか入っていた。

「だから、何度もいいますが」

 類がはっきりとした発音で雅美に言った。

「祐司君は、私の彼です。付き合いだして半年になりますけど、あなたのことなんて一度も聞いたことがないわ」

 雅美はふんと顎を上げる。そうすれば心理的に優位に立てるだろうと思って。

 彼女はもっと若い頃から一人の男と付き合ってきて、ここ数ヶ月、彼の態度が変わってきだしたのを感じとっていたのだった。それはちょっと気が抜けたような感じ、ぼーっとすることが多くなったな、というレベルではあった。

 だけど女性ばかりの競争社会の中でもまれまくってきた雅美はピンときたのだった。

 ・・・あら、ユージったら、まさか。って。

 そう思ってからよくよく観察してみると、彼女の彼は色んなことに変化が出てきていた。物の選び方、雅美への口のききかた、歩くときにさっと車道側を歩くとか、そいう小さなことが。

 そんなわけで彼女は密かに探索を開始した。男に直接たずねるのではなく、男の行動を監視したりして。そうして、ようやく相手の女の家を発見し、今日ついさっき、とにかく男が誰のものなのかをハッキリさせるためにインターフォンを押したのだった。

 最初怪訝な顔をしていた類は、それでも自分が「浮気相手」なのだと気がついたとしても嘆き悲しむうような様子は見せなかったのだ。それは雅美の予想を裏切った態度だった。

 雅美は、この類という女の外見から、酷いショックをうけて泣き出すだろうと思っていたのだ。それを哀れんで自分は優雅に立ち去り、その後で男を呼び出してコンコンと叱り、猛省させるつもりで。

 多分、ちょっとしたツマミ食いがしたかったのだろう、彼女は鷹揚な気持ちで男に対してはそう思うことに決めていた。これが彼の初めての浮気だし、そんなことをしても切れない絆が二人の間にはあるのだから、と。それほどの自信が雅美にはあったし、それは相手の女を一目みた後も変わりはなかった。

 だけれども実際は、相手の女である類は浅く笑ったのみだった。そして言い放ったのだ。「あなたの言葉なんてどうでもいいの」と。

 雅美はかなり面食らった。

 長い間付き合ってきた自分と数ヶ月恋人ごっこをしただけの彼女だったなら、「本命の女」が訪ねてきた時点で負けを認めるだろうと思っていた。泣き崩れて、謝るだろうって。なのに物事はそうは進まなかったのだ。

 これってどういうこと?一体何が起きているの?

 雅美は混乱しつつあったけれども、この若い女の前ではそんな姿はみせられないと、最大限の緊張を自分に課していた。

 類はきゅっと唇を上げると、大きな瞳には挑戦的な光を浮かべて言った。

「例えあなたが祐司君と長い間付き合ってきたのだとしても、今は彼は私に夢中なわけでしょ?そうしたら身をひくのはあなたなんじゃないんですか?ようするに、あなたは古くなって飽きられているわけなんだから」

 雅美は怒りのあまり、眩暈がした。

 一体これはどういうこと?どうしてこんな攻撃を私がうけているの?それに今この小娘、何て言った?

「飽きられてるですって?この・・・この私が?」

 深呼吸が必要なようだった。雅美はつい拳を握り締めてそう思う。だけど出来ない。だってこの小娘に、そんな姿を見られたくないのだもの。取り乱している姿などは、決して!

 二人は類の小さな部屋の中で突っ立ったままで睨みあい、激しい言葉の応酬を繰り返す。

 あなたなんてツマミ食いよ。ちょっとした息抜き程度の女のくせに。

 それを日本語で負け犬の遠吠えって言うんですよ、知ってました?

 彼は私と旅行の予定があるのよ。

 私とだってありますよ。来月に、温泉に。それからテーマパークで遊ぼうって。

 それは中旬の話?出張だって言ってたのに・・・。それでもこっちは記念旅行なのよ。私から言い出したことではないし、ユージは私と別れる気はないはずよ。

 記念旅行?そんな・・・。そもそも長いことフリーなんだって、祐司君は言っていたのに!

 怒りが激しくて何かにあたりたい。だけど雅美はぐっと自分を抑えていた。だってここは初めて会った年下の女の部屋。そこで暴れることがどれだけ非難されるべきことなのかは、長い社会人の生活の中で痛いほどに判っていた。

 握り締めた手のひらに、長い付け爪が食い込んで血が滲んでいる。人差し指のチップは欠けてしまっているのだろう。昨日つけてもらったばかりだというのに!

 目の前の女もようやく激しい怒りの中でも少しばかり冷静に頭を動かしつつあるようだった。

 ふう、と息をはいて類は唐突に、一度ぐるんと両腕を回す。それから冷たい目でちらりと雅美を見上げ、言った。

「とにかくコーヒーでもどうですか?話は長引きそうだし、立ってるのも疲れたので」

「ありがとう、頂くわ。ええと・・・それに、予定は大丈夫なの?予告もなしにきたから、その、あなたの今日の予定は大丈夫?」

 ようやくそこに思い至ったのだ。初めは、この女の付き合う男には自分という存在がいることだけを告げて立ち去るつもりだったのだから。まさか部屋の中へと通されて、真正面から口喧嘩をするとは思ってなかった。

 さほど売れないモデルであっても、雅美は社会人の時間管理には煩い女だった。だから気になったのだ、自分は今、この年下の女の休日の予定を狂わせている、と。

 そのくらいの年はとっていた。

 類は小さなキッチンに入っていきながら、肩をすくめた。

「大丈夫です。あと30分は余裕があるので。今日はお昼を食べにいこうって予定があったから、早めに支度していたの。正解だった」

 雅美は用心深く繰り返す。昼食の予定が?と。

 類はやかんを火にかけながらあっさりと頷くと、軽く肩をすくめて言った。

「そうですよ、噂の祐司君と。今日は私は休みだし、滅多に会えないから休日はいつもランチからのデートなんです。お洒落な店でランチをして、映画でも観て、ホテルかこの部屋へ戻るコース」

 またくらりと眩暈に襲われて、雅美はそろそろとその場にしゃがみ込む。ふわふわのカーペットはこの部屋の持ち主である彼女の好みなのだろう、イメージを強調するかのような淡いベージュのふんわりとしたカーペットだった。

 雅美はそのふわふわな感触を手で確かめながら考えた。私なら、絶対に選ばないカーペットだわ、と。私ならゴブリン織りのエキゾチックな薄い敷物をしくわ。それから、テーブルも背の高い濃い茶色の物を。出来るだけアジアンなテイストで部屋の中をまとめる。だけど彼女は・・・。

 うつろな瞳になって雅美は類の部屋の中を見回した。営業職であるのだろうと推測させるものは黒いノートパソコンとそのそばの無機質なキャビネット一つだけ。あとはとにかくカラフルで優しい家具で埋められて、類の小さな部屋はふんわりと暖かい印象に包まれていた。ぬいぐるみや水玉のカーテン、赤い時計やピンク色でハート型をしたクッション。

 ・・・この子と私の違い、なんだわ。

「お待たせしました」

 その時、類がコーヒーをいれて運んできてくれた。雅美は機械的にありがとうと呟くと、一気に疲れた体をかき抱いた。

「・・・大丈夫ですか?」

 類が目を丸くして雅美を見る。さっきまで背後に炎を背負って睨みつけていた迫力のある美人はどこへいったのだろうか、彼女は驚いて、ついそういったのだ。

 雅美は顔をあげて静かに口元だけで微笑んだ。

「ええ、大丈夫」

 ・・・そうか、本当に終わりなのかも。私はこの若くて可愛い女の子に負けたのかも、って。

 だけどこの子の前で負けを認めるなんてプライドが許さなかった。ここへは勝つつもりで乗り込んできたのだ。そんなの、ダメよ。だからだからせめて、あいつなんか私から捨ててやらなくちゃ。

 今はここにいない男の、長く付き合ってきた間の笑顔や寝顔や喧嘩の時の膨れっ面などが目の前に浮かんでは落ちるように消えていく。雅美は一口コーヒーを飲むと、カップをテーブルに置きながら言った。

「冗談じゃないわ、って思ったの。カッとしてついここまで来てしまったけれど・・・私、ごめんなさい。とても迷惑で非常識な行動だったわよね。・・・どうやら本当にユージはあなたのことが好きなんでしょうね。ならもういいわ、私はあんな男いらない」

 類はじっと見ていた。雅美はもう一度コーヒーを飲む。今度は叫んで干からびた喉を潤すためではなく、ちゃんと味わうために。それは深煎りのコーヒーで、大変美味しかったのだ。

 これを淹れることが出来るのね、この子は。雅美はそう心の中で思う。こんな修羅場にいて、それでもこんなに美味しいコーヒーを淹れることが出来る。それって中々出来ることじゃあないわよ。少なくとも、私には出来ない───────────

 前で類が肩をすくめた。それはこの部屋に雅美が入ってから何度かみた仕草で、もしかしたら緊張をとくためなのかもしれないわと今の雅美は思う。

 類は類で考えていた。最初この人が玄関前に立っていたときは、まさかそんな話をされるとは思ってなかったのだ。丁度アパートの上の階が引越しをしているようだったから、その挨拶に現れた人なのだろうって思っていた。ところが、彼女はいきなり男の名前をあげて、言ったのだ。彼は、私の男なのよ、って。あなた、悪いけど騙されてるわよって。

 類は負けず嫌いだった。もしかしたら自分は二股をかけられているのかもしれない、なんてこと一度も考えたことがないくらいに、彼は慎重に嘘をついていたのだ。だからそれが判ったとき、この女は真実を告げているのだろうと思った時、その場で本当は別れを決めていた。

 だけどこの女にはそれを悟られたくない。そう思って、売られた喧嘩を買ったのだ。

 でも雲行きが変わってきている・・・。彼女は、この綺麗な人は、男を捨てようとしているらしい。

 疲れた顔。だけど、やっぱり魅力的なこの女の人。負けを認めるわけにはいかないってことなのかしら。だとしたら──────私たち、一緒なんだわ。

 類は真っ直ぐに雅美を見て口を開いた。

「いいえ、折角ですけど。私の方がやめさせてもらいます。大体祐司君は嘘をついたってことになるんだし。付き合ってる人などいないと私にハッキリ言ったのですから」

 それなのに。目に不快感を浮かべて類は言い捨てた。

「それなのに、こんな大人な素敵な人がいたなんて・・・。バカにしてる」

 雅美はちょっと慌てて腰をあげる。

「あら、そんな、いいのよ。私が付き合いをやめるから。よく考えたら長く付き合いすぎてお互いに飽き飽きしてたのよきっと!」

「いえいえ、私はもういいです。悪い夢をみたと思って忘れます。二股かけられたのなんて初めて」

 悔しそうに唇を噛んでそういってから、類はちょっと苦笑した。

「・・・さっきまでは取り合ってたのに、今では押し付け合いになってますね」

「・・・そうね」

 何となしに、二人は見つめあった。そしてゆっくりと、顔をほころばせる。

 ふふふ、と笑いが零れだすのはそれからすぐのことだった。

 一人の男を巡って争ってみて、話してみると何とまさかのお互いが気に入ってしまったようだった。

「信じられないわ、私、ユージのどこが良かったのかしら」

「本当。そんな嘘つきにはみえなかったんだけどな〜」

 クスクスと笑いながら、二人は冷めてしまったコーヒーを飲む。雅美がここへきてから、そろそろ30分が立とうとしていた。



 男は一人で玄関の前に立った。

 彼はここ数ヶ月、二人の女の間を行き来していて、自分がうまく嘘をつけていることや立ち回れていることに深く満足していたのだ。やれば出来るじゃないか、俺だって。そういう気分だった。友達にも話してはいない。自分がしていることが一般的には浮気と呼ばれる褒められたことでないと知っている。だけど、どうしてもやめられないのだった。

 二人の女は共に美しく魅力的だった。

 それは磁石のS極とN極のようで、完全に違う種類の女たちだったのだ。

 一人はスパイシーで一人はスウィーティー。それを一度に味わうことが出来るなんて、自分は何て幸せなんだろうと男は思っていた。

 勿論これをずっと続けるつもりはない。

 いつかは、ちゃんと片方へと決めてもう片方とは別れるつもりだった。だけど一人とはすでに長く付き合っていて、そのためにある種の居心地の良さもある。新しい女とは付き合いたてで何をしても楽しい時期にいたから、二人のうちどちらにするかを決断するのはまだ先のことだと考えていた。

 それまでは絶対にバレないようにしなければ、男はそう思って、全てのことを慎重に行っていた。

 そして今日は新しい彼女の方とランチデートなのだ。

 いつもふんわりと可愛らしい服に身をつつみ、とろけるような笑顔で迎えてくれる類を想像して、男は口元の緩みを抑えられない。明るい声と女の子らしい部屋、それから抱き心地のよい小柄な体も。

 弾むような指先でインターフォンを押した。

 パタパタと足音が近づいてくる。

 男はにっこりと笑顔をはりつけて、目の前の鉄のドアがあくのを待った。ほら、彼女のスリッパの音だ───────長く付き合っているほうは家の中でスリッパははかない。いつでも裸足で猫のようにしなやかに緩やかに歩いてくるので独特の音がする。

 裸足は色気がある、だけど、スリッパもいいな、と男は思っていた。何だかかわいらしいじゃないか?って。

 ドアが開く。音をたてて開いたその先の空間へ向かって、男は微笑みを投げかけた。

「お待たせ、迎えにきたよ」

 いつものようにふんわりしたパステルカラーの服に身を包んだ類が、にっこりと笑ってそこに立っていた。

「ごめんなさい、祐司君。それが今日は用事が出来ちゃって」

「え、用事?」

 男はパッと笑顔を消して顔を顰める。何だって?用事?だって今日は約束してたじゃないか。だからあっちにも都合が悪いと仕事の言い訳をしてきたのに──────

 すると類は更に大きくドアを開けた。その時、その隙間から、別の美しい顔が覗く。

「ユージ、悪いわね。彼女は今日私とランチに行く事にしたようよ」

 男は仰天して、目も口もぱかっと開けた。

「ま、雅──────」

「さよなら、バカ男」

 雅美がそう優雅かつ冷たい声で言い、隣で類がにっこりと微笑んで指先だけをヒラヒラと振る。

「バイバイ、祐司君。あなたって最低だったのね」

「あの───」

 バタン!

 強烈な音をたてて、ドアは男の鼻先で閉まった。




・「彼は私のもの」終わり。

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