・ミッドナイトコール・


 突然の電話だったけど、わけを聞かないでくれてありがとう。今晩は‘戦友’の声を聞いてから眠りたかったの。


 何か心の中がざわざわしてね、いても立ってもいられなくなることってあるでしょう?自分の部屋がどこか知らない場所みたいに思えて、足許がぐらぐら揺れだして。

 あたし、不安だったのね、多分。

 気がついたら電話をとって、あなたにかけてしまっていた。

 ごめんなさい、もし眠ろうとしていたなら言ってね。大丈夫?ああ、良かった。ありがとう。

 ねえそっちの空も晴れている?月が細く細くなって、雲にかろうじて引っかかっているように見える。あれって何て言うんだっけ?下弦の月?それとも上弦の月?

 綺麗だけど、それってきっとあの儚さがあるからよね。だって今にも折れそうだもの。齧ってみたい?あははは、そんな、ダメよ、細すぎて口の中が切れちゃうかもよ。どんな味がするのかしらね・・・金平糖みたいな、あんな感じだったら嬉しいかも。ちょっと甘くてカリカリして。金平糖ってね、シャンパンにいれてみると美味しいんだって。それに可愛いよね。シュワシュワの金色の液体の中に、ころころの金平糖が入っていたら、確かに。ちょっと甘くなるんだろうし。一度ね、テレビでそんなことを言っていたの。フランス人に日本のお菓子を紹介するとかなんとかで。

 好きだった、金平糖?かりん糖の方がいい?ふふ、男の子ってそうかもね。

 最近はどうなの。何か話したいことはない?プライベートも少し知っていて、でも知らないことも沢山ある私にだったら、話せることだってあるでしょう。出会って・・・ようやく半年だね。普段家族や恋人には言えないことを話してみて。あたしは飲み物も用意してあるし、音楽だってボリュームを下げた。だから、いつでも大丈夫だよ。

 仕事はうまくいってるの?残業が多いらしいって前に誰かからか聞いたけれど、健康を過信しないでね。まだ若い?そりゃあそうだろうけれど、急にがくってくることだってあるでしょう。日本人って仕事を優先して栄養ドリンクで頑張るみたいなところがあるでしょう、あれって良くないことだって思うの。

 ・・・ちょっとうまくいってないんだね。うん。そうなんだ。年下の同僚って確かに微妙な位置にいるよね。うん。もういっそのこと、生物が違うって思って接すると楽になるかも。だってたまに、たまにだけど、日本語が通じてないんじゃないかって思うこともあるものね。そうそう、え、聞いてた?みたいなね。


 最初は温めていたワインは少しずつ冷えて、今ではひんやりと冷たくなっている。あたしは窓際の椅子に楽な格好で腰掛けて、大切な彼に電話をする。

 寒い夜はどうしても、声が聞きたくなることがあった。

 つい半年前に出会った男性で、仕事関係のパーティーで会ったのが初めましての時。一緒にいた上司と名刺交換をしていた彼の出身大学が同じだと判り、その上に卒業年数が一緒だったと判明して、一気に仲良くなったのだった。マンモス大学だったからお互いのことは知らない。だけど、教授や同級生の名前などで盛り上がって親近感がわき、営業成果を求める上司が後ろからつつくので、パーティーではずっと話していた相手だった。

 気が利く男性で、よく周囲を見ていた。

 仕事上での付き合いが増えるにつれ、あたしは彼に惹かれていく。最初は何とも思わなかった彼の外見もどんどん好きな箇所が増えていき、今では瞼を閉じればハッキリと思い浮かべることが出来るほどだ。

 一緒にしていた仕事が終わってしまって、最後に飲みにいくことになった。それは皆でだったけれど、あたしはドキドキして呼吸が止まるかと思っていたものだった。プライベートなことも聞けるんじゃないか、って。仕事の付き合いがなくなれば、もっと親密になることだって可能になるのだからって。

 だけどその飲み会で判ったのは、彼には既に大切な人がいて、その彼女のことを深く好きでいる、ということだった。

 いつも彼がつけていた腕時計も彼女から贈られたもので、それを大切にしていることも。

 飲み会が終わったら、彼女の部屋へと帰ることも、判ってしまったのだ。

 だからあたしは日本酒と一緒に気持ちを飲み込んだ。こればかりは仕方がない。だって彼とその彼女の仲を壊したいと思うような、暴力的な欲望はないのだから。

 好きな人の幸せを願う、それは素晴らしいことのはず、そう自分に言い聞かせて、3本のお銚子で流し込んだ。

 それからは少し距離を置いていたけれど、仕事先の紹介依頼の電話がかかってきてから、こうやって、たまの夜には電話をするようになったのだ。

 彼からの電話は仕事のことのみ。こっちからの電話は世間話。まずいかも、彼はこれで困ったことになるかも、そう思ったけれど、一度もそういう苦情を言われたことがなかった。だからずるずると続けてしまったのだ。

 声が聞きたくて。思いは胸に閉じ込めたはずだったから、言葉は慎重に選んでいた。もし何かの拍子に彼女がそばにいて聴かれてしまっても、大丈夫なように、って。

 だけど本当は、こんな世間話でも問題は問題なのだろう。

 知っているけれど、彼が何も言わないことに甘えてあたしは、やっぱり電話をする。

 疲れた夜、不安な夜、嫌なことがあった夜も。

 ハロー、戦友。そう呼んで、彼に電話をする。そして声を聞いてほっとするのだ。もう大丈夫、また頑張れるって。

 自分に課しているのは、寂しい夜や嬉しいことがあった夜は電話はしないってこと。だって、ぽろりと言ってしまいそうだから。

 あなたが好きだと、言ってしまいそうだから。


 え?ごめんなさい、ちょっと聞こえなかった。何て言ったの?・・・あ、誰か来たみたい?そう。・・・じゃあありがとう、切るね、夜分にごめんなさい。え、大丈夫?だって――――――・・・

 うわ、早かったね戻ってくるの。ああ、メール便だったんだ。彼女さんが来たのかと思って慌てちゃった。邪魔になったらすぐに言ってよね、一瞬で消えるから、あたし。


 胸が痛い。ぐっとしめつけるような感覚に、あたしは目を閉じる。泣いたらダメよ、声になって伝わるから。そうだ、ワインを飲まなきゃ。酔っ払って、何でもないことのように笑うのよ。そろそろ切るべきなのかもしれない。彼に気づかれちゃったら――――――・・・

 あたしは一人、受話器を耳から遠ざけて深呼吸をする。ゆっくり、ゆっくり。そう、大丈夫よ。自分の言った言葉に取り乱したりしない。ワインを飲んで、落ち着くの。


 ごめんね、ちょっとワインを飲んでて。そうそう、酒飲みなのよ、ふふふ、知ってるでしょう?ねえ、そういえば――――――・・・え?うん、はい、どうしたの?急にそんなハイテンションで。

 え?

 ・・・そう、なんだ。一体いつの間に?でも・・・うん、それは素敵ね、おめでとう。きっと皆喜ぶわね。うちの会社でも拍手が起きると思うよ。だってあなたは評判もよかったから。だから他の会社も紹介したんだし。・・・ええ、はい、判りました。とにかく、おめでとうよね。あたしも・・・嬉しい。


 弾んだ彼の声が受話器から聞こえる。何てことない世間話、それをするつもりで電話をかけて、だけど今日はタイミングが悪かったらしい。

 さっき届いたメール便の中身は、彼が請求した戸籍謄本。彼は彼女との結婚を決めて、つい先日にプロポーズを受けてもらえたと嬉しいそうに話す。謄本が届いたことで、話が現実味を帯びたようだった。まるで部屋中を飛び回っているかのような、はしゃいだ声で彼は話す。彼の幸福感が上がるのに反比例して、私の体温はどんどん下がっていった。

 私は唇をかみ締める。おめでとうと何回か繰り返して、あら、もうこんな時間、と呟いた。


 いつもありがとう。今晩も、あなたのお陰で胸がすっきりした・・・。はい、お休みなさい。ゆっくり寝てね。結婚式?あ、そうよね・・・招待状をくれるの?ありがとう、予定を調整するね。ええ、彼女にも・・・宜しく伝えて下さい。

 じゃあ、ね。

 そう言って、電話を切った。

 同じタイミングで涙が落ちる。あたしはそれをそのままにしてふき取りもせずに、ぼんやりと月を眺める。

 細くて細くて、今にも雲に突き刺さりそうなあの月。キラキラと光って暗い夜の空に浮かんでいる。

 彼は齧ってみたいって言っていた。

 ・・・そう、あたしも、齧ってみたい。

 バリバリと噛み砕けば、この悲しみだってなくなってしまうだろう、そんな気がした。

 涙がひとつぶ、ワイングラスに落ちて表面を揺らす。あたしはグラスを手に取って、涙のとけた赤い液体をぐぐっと飲み干した。


 電話のわけを、聞かないでくれて、ありがとう。

 聞かれてしまったら・・・言ってしまったかもしれない。


 『あなたが好きです。だから、声が聞きたくて』。




・「ミッドナイトコール」終わり。

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