・告白をもう一度・


 唯子が私の部屋へと転がり込んできたのは、夜も10時をすぎてからだった。

 直前に『いってもいい?』とメールがあってから、わずか10分でチャイムが押されて、お風呂上りだった私はまだ頭にバスタオルをまいていた状態で驚いた。

 早っ!!と思って。え、何何?どこでもドアでも使ったか?って。・・・まあ、どこでもドアで10分かかっていたらそれは不良商品になるのだろうけれど。

 とにかく慌てた私が玄関へ走って行ってドアを開けると、そこには冬の空気の中で上気した顔の唯子の姿。

「ごめんね、朝美!こんな時間に!」

 ・・・テンションも高いらしい。

 ちょっと乱れた髪は後ろでまとめてあって、細身の黒いパンツに女らしい白いスマートなダウンコート。それは前があいていて、綺麗なデコルテが見えるVネックの緑色のセーターがのぞいている。ナチュラルに見えるけれどしっかりと作りこまれたアイメイク。先月一緒に買いに行った「落ちない」口紅で彩られた唇。今晩の唯子はえらく気合も入っているらしい。

 私は曖昧な顔で笑って、とにかく入って、と通す。

 私が住むのは都会の中心から徒歩圏内のオフィス街にあるマンションの8階。分譲マンションの2LDKだけど、4つ年上の兄が結婚してから住む予定でここを買ったあとに海外勤務が決まってしまったので、仕方なく妹である私に使わせてくれている。家賃はローン代と同額。それでも立地や間取りや広さや設備を考えたら賃貸の相場よりははるかに安く済み、兄のお陰で私はシティライフをエンジョイしている。

 私は29歳。ネットで子供服を販売する会社で事務員として働いていて、ほどほどに忙しい仕事には満足している。最もやりたかったことではないかもしれないが、今の私が上手に出来ることで、対価としては十分なお給料を貰っているからだ。

 そして、2年付き合っている彼氏がいる。だけど今は、冷戦中。それも10日前の喧嘩をひきずって口も聞かない状態になってしまっているのだ。

 そんなわけで、元々デートの約束があった今日の一日、当然のように連絡もなくキャンセルになった私には何の予定もなかった。

 スマホを握り締めたままで腹立ち紛れにショッピングへいき、大して似合いもしない服を試着もせずに買ってきて、それは居間のソファーの後ろでショップバッグに入ったままで放置されている。きっとこれからずっとそのままで数ヶ月は置いておかれるはず。ああ、全く!

 鳴りもしないスマホなどには用はない。だけど、彼から連絡が入るかもしれないと思うから、この10日間はずっと握り締めたままだった。真っ黒な画面を握りつぶしたくなったけれど、物理的に無理だからと自分を宥める。そんな日々だったのだ。

 そんなイライラした日の夜に、少しでも気分を静めようと思って半身浴をしていたのだった。スマホをビニールケースにいれて持ち込んだお風呂場で唯子のメールを受けてあがってきたら、本人がすぐにきたから驚いた。

「もしかしてお風呂入ってた?うわ、ごめんね!」

 私の全身をぱっとみて、唯子は口元に手をあてる。そうだよ、このどスッピンによれよれの部屋着を見て判るでしょ?私はそう心の中で思いながら、キッチンに入って冷蔵庫からビールを取り出し、いやいやと手を振った。

「全然問題なし。長ブロを切り上げるきっかけになってよかったよ。それに今日は暇だから急な訪問もウェルカムだけどさ、唯子えらく顔が赤いよ?」

「ああ、そう?まだ赤い?走ってきたからってのもあると思うけど」

「走って?どこから?」

 彼女が口にしたのはここからほんの数分でいける、繁華街。どうやら今晩はそこで飲み会があったらしい。

「ちょっと待って、飲んだあとに全力ダッシュしたの?大丈夫?」

 私は呆れてそう聞く。この年齢になって、しかもヒールで全力ダッシュなんて、私には無理だ。食べたばかりのお腹も邪魔だし。すごいな、君は。

 唯子は簡単に手を振って大丈夫大丈夫と繰り返す。

 まだテンションが高いままだわ。

 私はぐぐーっとビールを飲み干すと、よし、と腹をくくってソファーに座った。

「それでどうしたの?一体何に興奮してるの、唯子」

 彼女の目がきらりと光った。待ってましたとばかりに凄い速さで私の座るソファーまでやってきて、ドスンと隣にしずみこんだ。

「朝美、聞いてくれる!?」

「・・・だから来たんでしょうが」

「うん、まあそうなんだけど!ええとね・・・どこから話せばいい?」

「どこからって・・・。ちょっと」

 思わず眉間に皺を寄せそうになってしまった。そういえば、私ったらまだ化粧水も塗りこんでない。うわー、ダメよ、このまま皺になるなんて!最近は彼のせいで、ずっと仏頂面なんだから!

 突然立ち上がって洗面所へ飛んでいく私の背中に、唯子の声が追いかけてきた。

「話きいてくれるんじゃないのー!?」

「聞くわよ!だから話しなさいって言ってるのに!いいから先に結論を言ってー!」

 棚から化粧水を取り出して手の平に出しながらそう叫んだ私の耳に、唯子の話す‘結論’が飛び込んできた。

「結婚相手が見付かったのー!」

 鏡の中の私の両目と口が、ガッと開かれた。

 何だってーっ!?

「一体どういうことよ!?」
 
 私は洗面所から顔だけ突き出して、居間にむかって叫んだ。

 だって唯子はただ今独身なはずなのだ。そんでもって、私が知っている限りでは付き合っている男もいないはず。そもそも元は同じ会社の同僚だったのが、バイヤーに憧れて会社を辞め、今は独立して自分の店をもつまでになった彼女に、誰かとの関係を構築している時間はなかったはずだ。店を軌道にのせるまでがあまりにも多忙で、その間私も何度も悩みにくれる彼女の自棄酒につきあったものだった。

 だから、つい先月も飲みに行ったわけで――――――――

 その時には男の話は欠片もなかったはず。

 どっから男が出てきた!?

 後で考えたら信じられないくらい適当に化粧水を塗りたくり、私はダッシュで居間へと戻る。そして決して写真にとることなど出来ないような変顔で、彼女に噛み付いた。

「結論すぎるでしょ!!一体どこから男が出てきたのよ!?」

 口角をにいーっと上げて、唯子が笑う。それはそれは嬉しそうな笑顔で、私は一瞬はっとしてしまったほどだった。

 あのね、と唯子が話し出す。私も彼女の隣に改めて座り、話を聞いた。それによると、その相手の男とは出会ったのはつい2週間前ほどらしい。買い付けにいったロンドンのパブで、日本人会なるものが開かれると聞いて、大して興味はなかったけれど外国で知己でも出来ると嬉しいと思って参加してみたら、そこには日本の様々な場所からロンドンに来て様々なことをしている人が集まっていたらしい。

 最初はとまどったけれど、ハーフパイントのエールビールを飲みながら談笑するうちに、唯子は楽しくなったそうだ。

 色んな業界の話、ロンドンで苦労したこと、それからイギリスでの風習などについて、話題は事欠かずえらく盛り上がった。その中に、出身地が同じ男性がいたらしい。

「すごい偶然でしょ?だって私は地方出身で、それも決して大きな街じゃないのに。日本ではなくて外国だからこそ出会えたのかもしれないけど、とにかく興奮したのよ!」

 彼女の興奮が私にも伝染し、知らないうちに両手を握り締めつつ聞いていた。

 彼は4つ上の男の人で、証券会社に勤務している。そしてその場での会話や間の取り方などの相性がえらくよかったので、日本でも会いましょう、と連絡先を交換したらしい。

「その時はね、まだ彼のことは全然知らなかったし、よかった、いい知り合いが出来た、ってくらいだったの」

 だけど、と唯子は目に喜色を浮かべる。

 日本に戻ってきたら、先に戻っていた彼から連絡があったこと。彼のお姉さんも自分の店を経営しているからと引き合わせてくれて、仕事上の悩み相談にのってくれたこと、その関係で食事をするうちに惹かれていったこと、を唯子は頬を赤らめながら話す。

「この2週間で、6回も食事をしたの!」

 彼女の白い肌はうっすらと上気して、崩れかけた化粧を目立たなくしている。綺麗だわ、私はそう思って、隣で喋る女友達の姿をぼおっと見詰めていた。

 彼の言葉遣い、指の長さ、さり気なく車道側を歩いてくれることや、他人に対する優しい態度。唯子が話すそれらの言葉で、好きになっていった彼の全部がありありとイメージできた。

 恋に落ちた女が、そこにいた。

 全身がバラ色一色で満たされているような、幸福度200パーセントの女が。

「それでね、今日、ついさっきまで!」

 夢心地でどこかに向かって滔々と喋っていた唯子が私の方を見る。

「うん」

「他にも数人と飲んでたの、ワインバーで。早い時間から。仕事の話も絡んでいて、紹介しあったりして。でもその人達が帰ったあとにね、改まって、彼が言ったの。結婚を前提に、付き合いませんかって!」

「わお」

「本当にそうよね?!わお!それよ!そう思ったもの、私も!」

 私ははしゃいで手を叩く彼女を見ながら頷いた。そうか、だから、結婚相手が見付かったって結論なわけね。

「と、いうことは、付き合ってみてそのままいけば―――――」

 私の言葉に、彼女は大きく頷く。

「来年には結婚するかもってことなのよ!」

 しかも、話からすれば既に相手の家族には紹介済みらしい(まあ姉だけだけど)。

 私は言葉を出すことが出来ずに、目を見開いて女友達を眺めていた。

 ・・・それは、興奮するわけよね!

「すごいでしょ!?」
 
 そう言って私を見る彼女は、スポットライトを浴びて輝いているようだった。今がまさに、主役の瞬間。

「おめでとう、唯子。本当によかったわね」

 ようやく混乱がおさまって、私はそう言って微笑む。

「ありがとう〜!」

 キラキラと光をまとった瞳で、唯子は笑う。あまりにも嬉しくて誰かに話したくなったのだろう。それって判る。だって・・・。

 私はまた話し始めた彼女の声をぼんやりと聞きながら、カーテンを引いた窓を見詰めた。

 あのカーテンの向こう、2重ガラスの窓の外には暗い夜の空が広がっている。ここは繁華街も近いから、夜とはいえど真っ暗ではない。だけどその空を越えて、山の方へいけば・・・彼が住む町がある。

 もう寝てしまっただろうか。

 いつものパジャマをきて、テレビでも観ているんだろうか。

 デートの約束を放置した今日、一体彼は何をしているのだろう――――――――


 心が、飛んでいく。


 ほんの小さな喧嘩だった。

 付き合いが長くなるにつれ、段々少しずつ出てきた甘えと遠慮のなさが重なった結果の、どうでもいいことが大きくなってしまった喧嘩。

 たくさんの車のテールライトが連なって輝く道路で、渋滞の中、口喧嘩をした挙句、私は怒って彼の車から降りたのだ。

 追いかけてきてくれると思ってた。

 ごめん、って。焦った顔でいつものように謝ってくれて、手を引いて車へ戻れると。

 だけど彼は追いかけてはこず、私は険しい顔をしたままで長時間歩くには適さないピンヒールをはいて歩いて家まで戻ってきた。

 一度あった電話は無視した。

 次にかかってきたら、許して出ようと思って。

 だけどそれからは電話はなく、約束していた今日になっても何の音沙汰もなかった。

 彼の―――――――おおらかな笑顔を、好きになったのだった。

 いつだって笑って許してくれたから、私は安心してワガママを言えたのだ。

 目の前ではしゃぐ唯子みたいに、彼に恋をして、それだけでも楽しかった時期が、私達にもちゃんとあったのに。

 ・・・私はいつの間に、それを忘れていたんだろう?

 ぼけっとしてしまっていた。唯子が気がついて私を呼んでいるのにも反応出来なかったので、彼女は私の頭にまいたバスタオルを引っ張る。

「うわっ!」

「もう、朝美ってば!」

 バラバラと落ちてきた髪の間から見えるのは、怪訝そうな唯子の顔。

「どうしたの?眠くなった?それとも体調が悪いの?」

 そう聞いてくる彼女に、私は頭がぼさぼさのままで首を振る。そして、きっぱりと言った。

「唯子、本当におめでとう。だけどお祝いはまた改めてにさせてくれる?飲みに行こうよ、それで、たっぷりノロケ話も聞くからさ。私は悪いけど、今からちょっと出かけるから」

 え?と唯子の声が上がる。

「今から?どこへ?」

 私はゆっくりと笑った。

「彼氏のとこ」

 喧嘩してたの。もう二人は終わりかと思ってしまってた。だけど今、唯子の話を聞いて思い出したから。そう言いながらバタバタと外出準備をする私にむかって、コートを着ながら唯子が聞く。

「思い出した?何を?」

 髪に櫛を通して形だけは整える。普段はコンタクトだけど、今はメガネでいいや。それから財布とスマホと・・・。立ち止まらずに準備をしながら、私は唯子にむかって答えた。

「最初の魔法よ!」

 視界の端で、彼女が首を傾げるのが見えた。だけど手を止めずに私は準備を続ける。そして、追い立てるようにした唯子と一緒にマンションを飛び出した。

「何だかよくわからないけれど」

 冬の夜の町を早足で歩く私にあわせながら、唯子が言った。

「でも朝美、なんかいつもより綺麗な気がする。化粧もしてないし、髪だって洗いたてそのままなのにどうしてかしらね」

 私は笑って、彼女に手を振った。タクシーを捕まえて座席に体を滑り込ませる。彼の部屋の住所を告げて、見送る唯子に窓から笑顔を見せる。

 ありがと、唯子。

 君のお陰で、ちゃんと思い出したよ私。彼への気持ちも、あの幸福感も。

 これから彼の部屋にいって、謝ろう。そして、ここ最近はしてなかった告白ってやつをしなくっちゃ。

 あまりにも気持ちにのっかって飛び出してきたので、そもそも彼は部屋にいるのだろうかということは考えもしていなかった。

 それに気がついたのは彼の住むアパートに着いて階段を上がっているときだったけれど、ここまで来てしまったのだから今さら電話をするのは何か悔しい。いなくても、ちょっとくらいは待っていよう。それだって小さくても意味のある努力だよね。そんなわけで、私は弾む呼吸を整えながらインターフォンを押す。

 いますように。

 どうか神様。

 彼が在宅してますように――――――――

 足音がして少し間があいた。それから、鍵が開く音が聞こえて、現れたのは驚いた顔の彼。

 いつも部屋できている着古したゆるいシャツに、スウェットパンツ。私と同じくらい垢抜けないゆるゆるの彼の姿を見て、笑いがこみ上げてきた。

「朝美」

 ほお、とため息が漏れる。

 この声が久しぶりすぎて。あれだけ腹が立っていたし拗ねていたのに、そんなぐちゃぐちゃの黒い思いは一瞬で霧散する。彼の声を聞いただけで。

 驚いた表情のままの彼に向かって、私は言った。

「やっぱりどうしても、あなたが好きなの。私はもう遅かった?」

 見開いていた彼の瞳が、ゆっくりと三日月型に細められていく。片手で顔をごしごし擦ったあとで、優しい声で彼が言った。

「・・・いや、遅くないよ」

 それから手を出して、私を部屋へと引き入れてくれる。

「俺も、やっぱり明日には迎えにいこうって思ってたから」


 頭の先から爪先まで、一瞬で全身が温かくなったのが、はっきりと判った。

 冬の夜、彼の部屋の、玄関先で、私は大きな笑顔になる。




・「告白をもう一度」おわり。

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