私は手にもったパンプスをぶらぶらと揺らしながらそう聞く。だって君は今、ここにいるではないの。もう誰もいないだろうって思っていたのは私も同じだ。まさかまだ人がいるなんて。

 エレベーターがすぐ上の階で停まったらしい。チンと軽い音がここまで届いてくる。私はそれに気がついて、一瞬躊躇した。

 ・・・帰る、べき?帰るべきよね、私?今、ボタンを押せばエレベーターはこの階でも停まってくれる―――――・・・

 でも。

 そう頭の中で声が聞こえた。

 でも・・・まだちょっと、牧野さんの声を聞いていたいかも、って。

 この心地よい声を。

 そう思った。

 だけど私の指は、エレベーターのボタンを目掛けてのばしつつあった。

 私はそれを認識して、軽く失望する。

 ここで帰るべき。それって正しい社会人の行動。心の声に従って、ここに残ることすら出来ない、それが私――――――・・・

「あの、良かったら」

 柔らかい声が耳の中に入ってきて、つ、と、ボタンを押す寸前で指が止まった。

「え?」

 牧野さんを見ると、彼はあぐらをかいたままで上半身をひねって、こちらを見ている。そして、あの声で言った。

「・・・良かったら、もう少し話しませんか。あんまりこんな機会ないし」

 ボタンに手を伸ばしたままの格好で私は彼を見る。その横を、エレベーターの箱がおりていく音がしていた。

「よくこうやってるの?」

「うーん、たま〜に、ですかね。最後まで残ってしまって一人になった時だけ、なんで」

「今日はたまたま私がいたけど」

「そう、もう帰ったと思ってたんで、本当にびっくりしました」

「10時には出ないとね。お金も出ないでしょ。課長に叱られるのも鬱陶しいし」

「そうですね、だからここに座るときは、いつも夜の10時です」

 へえ、そうなんだ。

 私は口に出さずに心の中で思った。

 夜の10時には、牧野さんはここに座っていることがあるのか、って。

「ここに座って景色を見てるの?」

 私がそう聞くと、彼はちょっと黙ったあとに、前を見たままで言った。

「・・・はい。田舎から出てきてて、疲れた時や遅くなった時にここから景色を見てます。都会だって光景でしょ、ここの眺めって。一人で座ってぼーっと見ていると、その内気分が良くなってくるんです」

「あー、それは、何かわかるかも・・・」

 パンプスは放り出したままで、私も絨毯に座っていた。

 目の前には都会の夜景が広がっている。車のライトが動く下の世界を見下ろせば、ビル風で街路樹が大きく揺れているのも見えるかもしれない。だけどここは地上から22階分高い場所で、目の前の光景だけでは風の強さなどは判らなかった。

 まだ明りが残る同じような高層ビルがいくつもある。その中の人の動きまで見えるほどの距離なので、気にしたことなどなかったのだ。いつもはこの風景の中で、どれだけの人が働いているのだろう。どれだけの感情が表れては消えていくのだろう。普段は考えないそんなことを思って、私はただぼーっと夜景を見ていた。

「古内さん」

 牧野さんの声が聞こえて、ハッとする。

「え?」

 慌てて隣を見ると、苦笑したような彼がいた。

「ぼーっと見てますね。夜景、確かに綺麗ですけど、そんなに見惚れるほどですか?それともすごく疲れてます?」

「ああ、いや、その・・・」

 ちょっと恥かしくなって私は口ごもる。外の明りで牧野さんの顔がぼんやりと浮かび上がっている。いつもはきっちりと後へ梳かしてある前髪が、一房落ちて額にかかっている。ちょっと垂れ気味の二重の瞳。大きな口元。顎の形から見て、頑固者かもしれない。私は目を瞬いた。急に気がついたのだ。この人よく見れば、結構いい男じゃないの、って。イケメンっていっていいと思うよ、うん。一本芯がありそうな顔をしている。

 こんなにマジマジと彼の顔を見たのは初めてかもしれない。そう思うと同時に、自分が同僚の顔を遠慮なしにじいっと見ていることに気がついた。

「あ、御免なさい。つい凝視してしまって」

 目をそらしてそういうと、いいですよ、とあっさりした返事がかえってきた。

「こんな顔してるんだーとか、思ってたんでしょう。よく言われるんです。声ばかり気になって、牧野の顔はよくみてなかった、とかね。酷いときには、お前と話すのは電話の時だけでいい、とか言われます」

「う」

 あまりにも図星で喉がなるかと思ってしまった。そんなことないよ、と言うのも今更すぎる気がして、私は仕方なく正直に言うことにする。

「ほんと、ごめんね。まさしくそう思ってたの。よく考えたらどんなお顔してたかなって。だって普段会うことってないし、牧野さん本当にいい声だから。電話で聞いたら確かに嬉しいかもね。うわ〜ってなるかも」

 言い出したらつい前のめりになって、一生懸命喋っていた。

「どうも」

「でも声だけじゃないよ、勿論。目の形も綺麗だし、整ってるというか何と言うか、ほら、男っぽいんだよね」

「・・・どうも」

「それに」

 そこで彼が、ぱっと手をあげた。

「古内さん、もういいです。照れるから、やめてください」

 何と本当に照れているようだった。薄明かりの中で彼は口元を片手で覆って顔をそらしている。ハッキリと明りがついていたならば、赤面しているのが見えたかもしれない。

 へえ〜!私は驚いて、つい顔がほころんだ。・・・照れたり、するんだ。この人ってもっとドライな感じだと思っていた。

 ちょっと意外で面白くて、私は更に前のめりになって距離をつめる。普段そんなに会話することのない他部署の男の人に俄然興味を持ってしまった。こんなこと珍しい。

「牧野さんて、純粋なんだね〜!うわー、ちょっと驚いてしまった!」

「そりゃ照れますよ。褒められ慣れてませんから。今は彼女なんて存在もないし、女性にダイレクトに褒められることなんてありませんもん」

 え、そうなんだ。それは心の中で呟いた。

 容姿も並以上、仕事も出来る上に神の声(それは言いすぎかな)を持っているこの人には、当然彼女がいるんだろうって思っていた。独身なのは知っていたけれど、年齢から考えて結婚を約束している人はいるんだろうなって、私は勝手に思っていたのだけれど、どうやら違ったらしい。

「へえ、これまた意外ー!牧野さんてもてそうなのに。もしかして何か理由があって彼女を作らないとか?」

 ついそう聞くと、彼はちらりとこっちを見た。

「理由?」

「そうそう。ほら、今は仕事に集中したい、とかさ。あるでしょ?多分男性はそういうのが多いと思うんだよね。彼女がいたら面倒くさい時期とかさ」

「・・・古内さんは?」

「え?」

 彼は口元から手をおろして、真っ直ぐに体を私へ向けた。

「私・・・俺は、たまたまです。そこまで好きになる人がいなかっただけ。付き合った人はいますけど、タイミングが色々と悪くてうまくいきませんでした。でも古内さんは?古内さんは独身ですよね?理由があってそうなんですか?」

 昼間に聞いたら怒ったかもしれない。そんな不躾な、前に褒め言葉すらなしの遠慮ない質問だった。だけど今は誰も人がいない電気の消えた会社のエレベーターホール前の、それも床の上。パンプスもそばに転がして絨毯の上に座り込んでいる私は、やたらと静かな、穏やかな気持ちだったのだ。

 もの凄く、牧野さんと気持ち近かったのかもしれない。

 この空間を共有しているという意識というか、そういうものが確かに存在したのだ。

 だから私は正直に答えた。ちっともイライラせずに。

「仕事が楽しかったの。一生懸命目の前の仕事を片付けているうちに・・・この歳になっちゃって」

 牧野さんが頷く。

「男性に興味がないってわけではないから、仕事も落ち着いた最近は、やっぱりちょっと寂しいって思うこともある。だけど、仕方ないわよね。もう一人の生活が出来上がってるし、大体恋愛のやり方も忘れちゃってるし・・・たまに、このままではいけないかもとか思うけど」

 目をそらして、窓の外の夜景に向けた。真っ直ぐに見る牧野さんの目に負けてしまいそうだったから。

「・・・でもこればっかりはね。またいい出会いがあるかも、そう思っていこうって考えてるけど」

 同情されるのは嫌だった。だって私は、別に不幸なわけでもないんだし。

 というか、何もこんなに正直に言うことなかったかも。さらけだしすぎだったかも――――――そんな考えが頭に思い浮かぶくらいに空白があった。無意識に拳を握りしめる。

 ああ、私は一体ここで何してるんだろう。ってか今は一体何時?もう帰らないと、明日の仕事に響く――――――――

「さて、と」

 何となしに気まずさを感じて、私は帰ろうと鞄を探して振り返る。すると耳の中に、静かなのにハッキリとした牧野さんの声が飛び込んできた。

「良かったら今度は」

 え?

 振り返った。

 さっきまでと同じように大きなガラス窓の近くにあぐらをくんで座って、牧野さんがこっちを見ていた。

「今度は、俺と食事にいきませんか。座って話すのはもう経験したから」

「――――――」

 私と、食事に?

 ぼうっと見詰めるだけの私に向かって、薄明かりの中、気恥ずかしそうに口元を歪めて彼は言う。

「俺の声だけでも、気に入ってくれたなら。・・・たくさん話すようにしますから。他のところにも興味を持ってくれませんか」

 心地よい声が耳の中で反響する。

 それは私の心臓へむかって、真っ直ぐ落ちていくようだった。

 夜の10時過ぎ、電気の消えた会社のエレベーターホールで。

 床に座ったまま、私は頷いた。


 この手の平の中に、今。

 恋の欠片が落ちてきた―――――――――




「10:00P.M.」おわり。


[ 5/7 ]



[しおりを挟む]

[ 表紙へ ]


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -