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自分がそんなにショックを受けているってことが、一番ショックだったようだ。
私は初めてその本屋のカフェ機能を使わせてもらうことにした。お金を払ってカップを受け取る。そしてサーバーでコーヒーを入れて、一番奥の椅子に座った。
・・・落ち着きなさい、全くもう。
自分にそう言い聞かせた。この時間にたまたま来てなかったって可能性の方が、会える可能性より何倍だってあるのだ。それにもしかしたら、ここら辺に住んでいない人なのかもしれない。偶然ここの本屋に来ていての出会いだったのかもしれない。
そうだったとしたら、私は二度と彼に会えない可能性の方が高いのだ。
ゆっくりと息を吸い込んで吐き出した。
周りは皆それぞれに寛いで、コーヒーと本を楽しんでいる。私は自分の席に座ってぼーっとそれを眺めていた。
静で、落ち着く光景だった。
今も鞄の中にあるあの本を思い浮かべる。
いい本との出会いを貰った、私はそれで満足するべきなんだわ、そう思った。
もう会えなくても・・・いつか、もしも彼に会えるときがあったら、その時にはちゃんとお礼を言えるように、心の準備をしておこう、そう思うだけでいいんじゃない?って。
それまで、あの赤毛でグレイの目をした男性を忘れないように何とか頑張ってみれば、それで──────・・・
少し温くなったコーヒーに砂糖とミルクを入れる。3回ほどマドラーでかき混ぜて、ゆっくりと口に運んだ。
あら、美味しい。
ちょっと驚いた。だって印象としては、何もありませんけどコーヒーでもどうぞ、みたいなレベルのサービスだと思っていたのだ。
でもこれ、ちゃんと美味しいわ。私は嬉しくなってニッコリと笑う。
美味しいコーヒーと素敵な本、面白い本、綺麗な写真の本・・・それは確かにハッピーな組み合わせだわね、と思った。
彼には会えなかった。だけど、また別の素敵なことを発見できたわ、そう考えて私は一人で頷いた。
まだ、本棚に輝きは戻らないけど。
それでも私は、また今日も素敵な本を探して買って帰ろうって。そう思ってコーヒーを飲み干す。
「ご馳走様でした」
係りの人にそう告げると笑顔まで貰えた。うんうん、何だかいいじゃないの、これも。
私は気を取り直して、自分のいつものペースで本屋を回ることにした。雑誌をチェック、新刊をチェック、お気に入りの作家のところで読んだけどまだ買ってはいない本をパラパラとめくって、科学雑誌も立ち読みをする。
気が済むまでそうして本屋を楽しんで、家に帰った。
ちょっとガッカリはしていたけれど、まあいいか、そう思えるくらいには立ち直っていた。
行けば出会えると思い込んでいたのがおかしいのだ。あそこで働いているならともかく、そうでもないのに頻繁に本屋に出入りする暇な人はそんなにいないだろう。私だってそうなのだから。
そう思って、私は自分の日常に戻る。
いつものように、朝起きてテレビを観ながら支度をし、会社に出勤して、上司にうんざりしたり新人さんを可愛がったりして帰宅時間を迎える。
そしてちょっと期待しながら駅前の本屋に寄る。そのドキドキは結局1ヶ月ほど持続した。
彼にすすめて貰った本は、私の鞄の中からは出されたけど、部屋の真ん中においてある本棚の一番目立つところに飾られている。たまに家族が何か読むものない?ってくるのには勧めたりして、私だけでなく、家族までその本のとりこになったのだった。
そんなある日。
「ねえ、あんたが好きだって勧めてくれた本、この人のインタビューにも載ってるよ〜」
そう言いながら、二人いる姉の下の方が、テーブル挟んで向かい側に座る私に女性誌を渡してきた。
「何?ちょっと待って」
テーブルで化粧をしていた私は、右側の睫毛にマスカラを塗りたくって答える。
今日は友達と久しぶりにテーマパークへ遊びに行く日だった。失敗してはみ出たマスカラをティッシュオフしてから、姉から雑誌を受け取った。
そこには各界の著名人が薦める「私の人生を変えた本」特集が載っていた。ほら、ここよって姉が長い爪で指す場所に目をやって、私はハッと息をのむ。
そこには、いつかのあの人が。
見覚えある赤毛にグレイの瞳。笑わずにカメラを見据えていて、その顔は真面目そのものだった。
ミュージカルダンサー、羽 修(ハネ・シュウ)さん 27歳
「えーっ!!」
私は雑誌を握り締めて顔にぐーんと寄せた。ミュージカルダンサー!へええええ〜!そうだったのか、あの人!
あの本屋にいる間、私を見下ろす瞳は笑っていたから、真面目な顔だと雰囲気がえらく違った。だけど、あの人だ。ケタケタと笑っていたあの人だ!
彼の写真の下には、あの本の写真と粗筋が。そして彼のコメント。「大好きな本ですね。この本を初めて読んだのはニューヨークから戻る飛行機の中で、僕泣いてしまったんですよ。何かを読んで泣いたのは初めてだったので、自分でもびっくりしました。悲しい話というわけではないのですが、勇気を貰えましたね。僕は僕でそれ以外ではなくて、これでいいんだ、っていう」
ダンサーとして異国へ行っていて、ミュージカルへの転向をするかで悩んでいる時期に出会って、背中を押して貰えた、という内容が淡々とつづられていた。そして、最後の文に、私は思わずあ、っと言いそうになる。
そこにはこんな言葉が。
「以前オフで立ち寄った町の本屋さんで、ちょっとした出会いがあったんです。見ず知らずの女性にこの本を薦めました。それをあの人がどうしたかは知らないんですけど、読んでくれてたら嬉しいなと思いますね。感想を聞いてみたいです。もうあの町へ行く予定はないので、そんな願いは叶いそうにありませんけどね」
「どうしたー?」
姉が前で目を丸くしている。
私は片方のマスカラをしただけのマヌケな顔で、しばらく口をあけっぱなしでいて、それから勢いこんで、姉に説明した。
「こ、ここここれ私だよ〜、お姉ちゃん!」
あの出会いを絡まる舌で懸命に話す私に頷きながら、姉は雑誌を取り返し、黙って読んで顔を上げる。そしてニヤリと笑った。
「やったね、感想返せるじゃん」
って。
私はえ?と問い返す。
「だってどうやって?もうここには来ないって書いてるし、それに・・・」
「あんたバカ?」
混乱する私に姉はバッサリとそう言った。
「名前も職業も判ったんだから、彼に手紙を書くことは簡単でしょう?ネットで調べれば個人のサイトも持ってるかもしれないよ。自己紹介して、コメントで感想を書けばいいじゃないの」
おおおおお〜っ!!
私は興奮した。そしてうんうんと力強く頷く。一度は諦めた御礼を言いたい熱が再び湧き上がってきたのを感じた。
まだメイクは半分なのに、早速私はメイクボックスを脇へ押しやってノートパソコンをバタバタと開ける。
緊張して汗ばむ手をぶらぶら振って落ち着かせ、それからキーボードを叩いて彼の名前を入れた。
出てきたのは色んな情報の渦。
出演作品、その評価、ミュージカルの案内、それに関する個人ブログ等々。その中で、本人が発信しているフェイスブックを発見した。
「おおおお〜っ!!」
つながれる!そう思ってまたもや興奮し、奇声を上げる私を、前から姉が落ち着きなさい〜!って叫ぶ。
これが落ち着いてられますか!だって、彼に直接コメントできるじゃないですかーっ!!
私は弾む気持ちでキーボードを打った。
あの日のこと、本屋で他人にぶつかった私達を見て笑い、その後で本を薦められたこと。その本は私の中で大切なものになり、今や家族中で愛読しているってことも。雑誌を見て、名前を知ったこと、一言お礼が言いたくて、あれから本屋をウロウロしたこと。
長くなってしまって一度じゃ読み辛かった。だから2度に分けて書き、送信する。
・・・ああ、ちゃんと届くかな。私だって判ってくれるかな。判るは判るにしても、実際のところ迷惑に感じられちゃったらどうしよう。送ってしまった後でそんな心配が湧き出てきて、私はガックリと肩を落とす。
そんな私を見て姉は笑った。
「送っちゃったんだから、もう仕方ないでしょ。いいじゃないの、後は野となれ山となれよ〜」
「そ、そうよね」
「とりあえず、その片目だけメイク済みのビフォーアフターみたいな不気味な顔を何とかしなさい。約束に遅れないの?」
「あっ!!」
遅れるとかでなく、忘れてました〜!私は焦って半分の顔のメイクも済ませる。そして、鞄を引っつかんで家を飛び出した。
心が弾んでいた。あの出会いを彼が覚えてくれていたこと、それに偶然それを発見できて、メールを送れたことが、私の中でふつふつと発酵して喜びメーターを押し上げていく。
あの人に、お礼を伝えたかった。それは一方通行かもしれなくてもちゃんとやり遂げることが出来たのだ。私はそれだけで、既に笑顔になっていた。
友達ともテーマパークも、思いっきり楽しんだのだ。
人生秋晴れ!そんな状態だった。
夜は友達とそのままワインバーまで流れ、しこたま飲んで笑い、終電での帰宅となった。
空きまくった電車の中で、私は今日一日見ないようにしていたスマートフォンを鞄から取り出す。
酔っ払っていることで、理性が弱くなっている今しかないって思っていた。反応がなくてもこの酔いなら笑えるかもって思って。
フェイスブックを開ける。アルコールの影響で若干霞んだ視界の中には、メッセージ有り、の文字。
途端に背筋が伸びた。
ほとんど人のいない車両の中で、やたらとキッチリ座った状態で、私は画面を指で触る。
出てきた文字の羅列を目で追った。
『まさかの、パントマイムの人?結局買ってくれたんだね、ありがとう。気に入ってくれたようで僕も嬉しいです』
うっきゃああああああ〜っ!!
まさか叫べないから慌てて片手で口元を押さえた。・・・返事、来てた。しかも、彼もやっぱり覚えてくれてたみたい、そして迷惑ではなかったみたい・・・。
「・・・やった」
小声で呟いた。そして一度画面を伏せて深呼吸をし、その続きを読む。
『言ってみるもんだね。万が一もあるからとインタビューで言ってみて、ちょっと期待してるからここは編集しないで下さいってお願いしたんだよ。そのかいがあった。 羽と言います。実は、本名です。そちらは上條さんて言うんだね。よかったら、次は君のおススメを教えてくれない?』
ドキドキした。
頬や体の温度が上がったのはお酒だけのせいではない。私は片手で頬を押さえて、うふふと小さく漏らしてしまう。
今はどこか遠いところにいる、あの人と、繋がれたことが嬉しかった。
まだ相手のことも全然知らない状態だけど、でもこんな出会いをありがとうございます、そう、普段は信じていない神様にまでお祈りしそうになった。
ゆっくりと文字を打ち込んでいく。
深夜の町を走る電車の中、私の周りには誰もいない。涼しい風が時折入る、その座席に深く腰掛けて、私はニコニコとスマホを触っていた。
今度は私の好きな本をあの人に伝える。
そしたらまた違う本を、教えてくれるかもしれない。
そんなことを繰り返して、いつか私の本棚には、彼専用の場所が出来ていたら嬉しいな。
そう思いながら、文字を打っていた。
「ブックストア」終わり。
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