・通勤電車の恋・1


 郊外から都会へ出る電車ではなくて、あくまでも郊外の中を行き来する単線が、私の通勤電車なのだ。

 始発の駅から終点まで乗る。つまり、山の裾から都会への入口までを電車で運んで貰う。毎日、平日は朝も晩も、それに休日は、その終点まで出ないと大きなショッピングモールさえないのでやっぱり乗る。

 一年で何回乗るのだと数えてみれば、乗ってない日を数えるのが楽だってくらいにいつも使う私鉄なのだった。

 朝は混んでいる。

 都会のように駅員さんが乗客の背中をぐいぐい押して突っ込まないと乗れないってほどの乗車率ではないが、まあ満員にはなる。椅子はぎっちりと詰まって、その前にもずらーっと通勤客が並ぶ。途中で降りたければ「すみません」を繰り返さねばならないし、自分の鞄が迷子にならないようにしっかりもってなきゃならない。

 だから、私はいつも電車を一本見送るのだ。

 そして必ず座るようにしている。だって始発駅から終点駅まで乗ることの最大のメリットは、誰もいない車内に乗り込めるってことなのだ。

 だから混みあった前の電車の最後に飛び乗るのではなく、一本見送って、いつも同じ場所に座る。先頭車両の一番前、運転席や前に進んで行く景色が見える端っこ。

 ここが、私の指定席なのだ。

 毎日乗るのも同じメンバーなので、暗黙の了解みたいに同じメンバーが同じ席に座る。たまに知らない人がイレギュラーに乗っていて、ちょっと椅子が狂うこともあるけれど、私はいつでも最初に待っているので窓際一番前の席を確保していたのだ。

 朝の混む電車の中では、いつでも私は外を眺めて、通り過ぎていく景色や吸い込まれていく駅、そこで待っていて電車をじっと見ている人々なんかを眺めている。耳には突っ込んだウォークマン。学生の頃から使っているそれを、未だに通勤のお供にしていた。

 景色や動く空、それに運転席の車掌さんの手を見るのが好きだ。

 白い手袋をして、時刻表を立てておいて、時々声を出しながら指差し確認で電車を進めていくのを見るのが、好きだった。

 だからその日も、見ていた。いつも通りに。

 今日の運転係は新人さんなのか、声も大きくて動作も大仰、指導担当と思われる別の車掌さんが一緒に乗っていた。

 運転者の動きをチェックして、たまに何かを話している。

 たくさんの命を預かるという意味では、この職業も大変な仕事だ。新人教育もどうしたって力が入るに違いないよね、そう思って、私はこっそりと先輩の車掌さんを見上げる。

 あら、この人見覚えがある。

 高めの鼻、深く被った帽子の下には真面目な瞳。短い髪と広い肩幅。顎にほくろがあって、それを覚えていた。

 私鉄の単線なのだ。そりゃあ大きな確率で同じ人が運転する電車にのるはずだ。私は一人でそう納得する。

 行きも帰りも私はこの席に座る。

 行きは先頭車両の更に一番前の席。帰りは後ろの車両のこれまた一番後ろの席ってことだ。

 だから、朝は運転する人の背中を眺めている。

 そして帰りはドアを開け閉めする人に見られる格好になっている。だから、帰りは車掌さんを眺めることは少ない。だってあっちが完全にこっちをむいて、車両の中を眺めているんだもの。

 でもそのいずれかで、何度か見たことがある人なのだ。覚えていた。その、顎のほくろや真面目な瞳を。実は、あら、ちょっと格好いいなあ、この人、そう思っていた車掌さんだった。年齢は私よりちょっと上・・・だと思う。当たり前かもだけどいつでも真面目な顔をしていて、笑ったところを見たことがないし、制服マジックで老けて見えるだけかもしれないけど。

 今朝も混んだ電車の中、いつもの席にゆったりとおさまって、私はその新人教育を眺めていた。

 先輩であるほくろの男性は静に話すので何を言っているのかは判らない。だけど、新人君は大きな声で返事をしていて、それが微笑ましかった。

 踏み切りを一つ越えたとき、もうすぐ終点って位置で、先輩の方が屈みこんで新人に何かを伝える。

「あ」

 私は思わず声を零してしまった。

 先輩の肘が当たって、彼の鞄の中から黒い小さな手帳らしきものが落ちるのを見てしまった。

 彼は気付いていないようだった。新人さんに指導をすると、また身を起こして前を見詰める。

 ・・・ああ、気付いてないんだろうな、手帳落ちたの。

 私はそれをじっとみていたけど、でも降りるときには気付くはずよね、そう思った。だってもう終点だし。ここで客も車掌も皆降りるのだ。その時に、きっと、そう思って。

 電車は時間きっかりに終点のそこそこ大きな駅に滑り込んでいく。ここから多くの乗客は都会へ行く線に乗り換えなのだ。まだまだ彼らの職場は遠い。

 ざわざわと皆が降りる準備を始める。どうせすぐには降りられない私は、まだその落ちた手帳を見ていた。

 窓ガラス、叩いてみる?でも指導中だしな・・・。コンコン程度じゃ気付かないかも。ううーん。

 悩んでいる間に客が降りて、私も降りる時間になってしまった。先輩と新人の車掌コンビも運転席のドアを開けて、降りようとしている。ホームには交代の車掌さん。その中年のおじさんが笑顔で新人君に話しかけていた。

 私は急いで立ち上がって走り、電車のドアをくぐると、ホームで話す3人の車掌に駆け寄った。

「あの!」

「え?」

 込み合ってざわめくホームで、私の声は目的の先輩車掌さんに届く。

 彼が振り返った。

 初めてバッチリと目があって、私は一瞬止まってしまった。帽子の下から覗く瞳が、私を真っ直ぐに見る。・・・うわ、何か、ドキっとしてしまったわ・・・。

 咄嗟に言葉を出せずに固まってしまった私に、彼は笑いかけた。

「どうしました?」

 乗り換えを聞く客だと思ったのだろうか、その営業スマイルを見て、私はチラリとそんなことを思う。と、同時に化石化から復活した。

 お客さんにだと、やっぱり笑うのか。そんなことを考えながら、私は指で運転席の床を指差して言った。

「手帳が、落ちましたよ」

 彼は私の指差した方向を見た。そして、あ、と呟く。私はそれで安心した。あ、良かった、やっぱり彼のものだったんだ、と思って。

 満足した私はそのままで3人の車掌さんに背中を向けて、いつものように人波の流れにのった。

 朝から一ついい事をしちゃった、そう思って、気分が良かった。

 改札を抜けて会社に向かうまで、鼻歌が出るほどに、テンションも上がっていた。



 その日は、帰りに飲みに誘われた。

 珍しく後輩の女の子からだった。

「奢らなくていいです!先輩、是非飲みに付き合って下さい〜!!」

 私は苦笑を浮かべて一度頷いた。だって、彼女の可愛い顔は崩れた化粧でめちゃめちゃだったのだ。どうやら就業と共に彼氏とメールで喧嘩をしたらしい。

 ビールに焼き鳥のコンビで後輩と11時まで飲んだ。11時22分の終電を逃すと、私は家に戻れなくなる。

 そう途中で気付いて、パッパと帰り支度をする。

 ありがとうございました!と、たっぷり自分の不毛な恋愛話を語りつくした後輩が頭を下げるのに手を振って、私はホームの上をダッシュする。

 もう季節はしっかりと冬で、口から吐く息が白かった。

 体にはしっかりとアルコールが入ってるはずだけど、面白くもない恋愛話(しかも、微妙な不幸度合いでオカズにもならなかった)ばかり聞いていたので、頭が妙に冴えている。

 カツカツとヒール音を響かせて、ホームに止まっていて既に発車ベルが鳴っている終電へ、飛び乗った。

「あ、間に合った・・・」

 ヤレヤレ、と私は一息つく。

 こういう時はいつもの車両〜などと言ってられないから、階段に一番近い車両に乗ったのだ。だけど、もう電車に乗ったら自動的にいつもの車両に動くように、頭の中でセットされているらしい。

 動き出した電車の中で危なげにフラフラしながら、誰も乗っていない車両を一つ通り抜けて、私は最後尾の車両までをのんびりと歩いた。

 誰もいないし、酔っ払ってるし、終着駅まで乗る私は寝過ごすことだってない。必ず起こして貰える立場の特権で、眠り込むことだって出来るのだ。・・・しないけど。

 とにかくユラユラと電車の揺れに抵抗もしないままで、私は一番最後の車両の一番奥の席目掛けて歩いた。

 そこにも誰も居なかった。終電は確かに閑散としてはいるけど、誰もいないってのは珍しいな〜・・・そうぼんやりと考えながら、いつもの定位置に腰を下ろす。

「はあ〜・・・」

 一人しかいない気軽さで、ため息をつきながら座席にもたれた。

 ごとんごとん。電車は夜の中を走る。

 窓から見える街のあかりがどんどん遠ざかっていき、小さな煌きとなって瞼の裏に残像を置いていく。

 この単線の私鉄は、途中に無人駅もあるほどの山の中を通っていくのだ。山中にある無人駅には電球二つだけの明りが灯り、普段は何とも思わないけどたまにぞくりとするものを感じる。

 誰もいないホームに向かってドアは開く。

 そして、やっぱり誰も降りない。ここら辺では周囲2キロくらい、このホームの明りしかないのではないだろうか、と思うような暗闇と静寂。うっすらと空との境に山の稜線が浮かび上がるだけなのだ。

 今晩も電動のドアが音を立てながら開いて、外の冷たい空気を入れた。私はぼんやりと椅子にもたれて、その冷たい空気を見えないと判りながらも目で探す。

『扉、閉まります』

 車掌さんの低い声がマイクから響いて、ドアが閉まった。

 私は何気なく、ふと運転席の方を向いた。

 そうか、と思ったのだ。この車両には確かに乗客は私一人だけど、隣の小さな運転席、今は一番後ろの小部屋には、アナウンスやドアの開け閉めをする車掌さんがいるじゃないの、そう思って。

 そういえば、この席はドアの開閉を担当する車掌さんと一番近いのだ。そう思って。

 いつもは見ないのだ。だって、車掌さんは車内が見えるようにこっちを向いて立っているから。だけど、その時には見てしまった。

 というか、見たかったのだ。

 山の中の無人駅のホームが私にもたらしたちょっとした不気味さを、吹き飛ばして欲しかったから。

 私は一人じゃないって思いたかったから。

 で、見上げた私は思わず声を上げてしまった。

「あ」

 って。

 だってそこには、今朝手帳を落としていたあの車掌さんが。

 私を驚かせないようにだろう、ギリギリまで奥に下がって壁にもたれ、いつもの真面目な顔でこっちを見てた。

 朝の女性客だって判っていたようだった。

 まあ、あれは今朝の話で私の服装だって変わってない。だから判ってもいいんだし、単線だから同じ車掌さんに当たることも多い。だけどこれって凄い偶然だよねえ!

 え、あなたの勤務拘束時間は何時間ですか?そんなことまで考えた。

 私は驚きのあまり、つい彼を凝視する。

 私の視線に驚きを感じ取ったらしく、彼は少し笑った。

 そして、ポケットからあの黒い小さな手帳を取り出してみせ、それから白い手袋を嵌めた手で、帽子をちょっとあげる。

 ────────これ、ありがとう。

 そう聞こえた気がした。

 私は驚いて口をあけたままでいたけれど、そこでやっとハッとして、慌てて会釈を返す。




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