・すれ違いの夏

 困難な出来事にぶち当たったとき、人によってどうするかは違ってくる。つまり、結果的にすることは同じになったとしても、それに行き着くまでの思考回路が違うってことなのだ。

 そして、春先に第一子を産み、それから産後期をつつがなく過ごしてお宮参りも済んだ後で我が家に来た「ダンナが気持ち悪くて鬱陶しくて到底触る気にはならないし、勿論相手からも触られたくない」って状況を打開するために、私、新米の母親である漆原都がしたことと言えば!

・既婚者で出産経験者の友人一同に聞きまくる
・とりあえず神仏にお願いをしまくってみる
・元々あまり会話も接触もない夫婦であることをいいことにして、無視する
・自分を激しく責めて責めて責めまくり、罪悪感を生んだパワーであえてこちらから触ってみる

 ・・・の、どれでしょうか!などと大きな白い紙に書いて壁にはってやろうかと企むくらいには悩み悩んで、勿論そんなバカ丸出しのことはせず、一番上からやってみることにしたのだ。3番目はやめといて。だってそれでは好転しないことは間違いないし。

 愛も関心もない家族になりたいわけではない。折角微か〜な恋愛状態に陥ることが出来て、この2年足らず、私は幸せだったのだから!

 私に今のこの地位をくれたのは、紛れもなく世紀のダレ男であるうちの夫なのだ。それを忘れてはならないし、今はホルモンの海に浸かりまくっているのだと自覚はあるから抜け出すまで待てばいいのだろうけれど、それがいつになるのか判らないのは恐怖ですらあったのだ。

 だって、下手したらこのままかもしれないし。ずっと、ずーっと。・・・とすると、元々女を抱くもの面倒臭いって公言していたヤツとは私はまた同居人に戻る可能性が大なのだ。そんな、まだ32歳なのに!あーりーえーねえええええ〜。

 あの緊張した夜、つまり、ヤツの手に嫌悪感を抱いて拒否反応が出たあの夜から、私はヤツとほとんどまともな会話をしていないのだった。

 またあの反応をしてしまうと、もう申し訳なさすぎて泣けてくる、と思った私は、無理してヤツの帰りに起きているのをやめることにした。だけど、うつらうつらしていても、あの夜以前は感じたヤツの私達の確認を、感じなくなってしまったのだった。

 帰宅したヤツは、私達が寝ている部屋を覗くことがなくなってしまったらしい。

 それは十分私を慌てさせた。

 え、え!?嘘嘘、興味がなくなった!?って。

 休日はヤツは桜を足元で遊ばせて相変わらず本を読んでいる。誘えば買い物も一緒にきてくれはするが、結局ベビーカーに寝かせた桜をヤツが店の外で見てくれている間に私が急いで買い物を済ませる、という状態で、夫婦の会話としてはほとんどないと言っていいくらいなのだ。

 触れ合い?勿論、ない!今はベビーカーを押している私はヤツと手を繋ぐことなどないし、実際のところ繋げるかは判らない。

 ヤツはいつでも淡々と前を見て歩いていて、私を含め、物事の全てに興味関心がなさそうだった。

 ごめんね、と改めて謝ることも出来ず、傷付いている?との確認も出来ない。


 現在乳児と家にこもりきりの私には家族のほかにちゃんとした会話をする相手もなく、ただひたすらに悶々と過ごす羽目になった。こういう時、普段は大変だと判っている勤めに出るということに、強烈な憧れを抱くものなのだなあ!と思う。全然関係ない人と仕事やその他の話をするということ、それは案外毎日を普通に過ごす為の円滑油になっているものだ。

 出るのは重いため息ばかり。娘と向き合っている時だけが、話せない夫のことを忘れられる時間だった。

 それはそれは息のつまる初夏で、私は玄関前の鉢植達に水をやりながら情けなさから涙ぐんだりしていたのだ。

 大切なサルビアも苺も黄色のヒヤシンスも。キラキラと光を弾いて笑っているように見えていたそれらも、何だかくすんで見える。・・・ああ、皆、ごめんねって。

 そんなわけで、私はこれではいけないと拳を握り、先に出した案を決行すべく立ち上がったわけなのだ。主に桜の昼寝タイムをついては友人知人に電話しまくった。初夏にかけて、ひたすらそうやって情報収集に努めた結果──────────

「ああ、どこも一度はそんなのになるのよ。それでもダンナが性欲を抑えきれずに襲ってくるから、その時だけ両目瞑って呪文唱えて股だけ開いて相手してやりゃあいいのよ!」

 と笑う友人Aを代表とする、相手に欲しがられたときだけ相手にせよ派と、

「いや〜・・・だってほら、嫌なものは嫌だから、私だってあっちいけ!って叫んだわよ。仕方ないでしょ、それどころじゃないんだっつーのよ女性はさ」

 と豪快に笑う友人Bを代表とする、自分にはあくまでも正直でいよう派と、

「しばらく逃げてれば、母乳が終わる頃には生理も始まってこっちもエッチしたくなるから大丈夫よ」

 と優しく慰めてくれる友人Cを代表とする、焦らずにその時を待とう派がいることが判った。

 公平なわけでは絶対ないが、ただ単に面白いからって理由だけで経験者ではないが自分の意見を持っている友人の代表として、親友の位置をしめている榊奈緒にも聞こうかな、と思ったのは、私が暇だったからというのもあるだろう。

 デザイナーの奈緒は、今では日本で結構な事務所を開いてバリバリとキャリアを驀進中の女だ。うちの夫である漆原大地とは学生時代に何度かクラスメイトとして過ごしたことがあるので、夫婦ともに知っている知人でもあった。

 いつかけても忙しい奈緒には遠慮などせずに、こっちの都合のいい時間に電話すると決めている。そんなわけでまた娘の昼寝タイムに電話をかけたのだ。すると、彼女は一言目でおっも〜いため息を吐きながらこういい捨てた。

『人妻になってしかも分身まで産んだ女が、忙しくて睡眠時間もない独身貴族の私に電話するってことは、それだけ面白い話なんでしょうね?』

 って。

 正直な私は電話の前でしばらく悩んだ。・・・・・面白い?・・・いや、きっと全然面白くないだろうしな、って。そこで忙しい彼女には為にならないどころかストレスの原因になるかもしれない、と考えて、受話器を置こうとしたのだ。ところがそこで、奈緒の罵声が聞こえた。

『こら、都っ!!用事も言わないで切るバカがどこにいるのよ!あんたマジで私に喧嘩売ってんの!?』

 どうやら余計にイライラさせたらしい。

「──────あ、ごめん。いや、でも面白くない話だろうなあと思ってしまったから。いいのよ、忙しい時に邪魔してごめんね。睡眠不足の辛さだけは物凄く判るから、そっちも体には気をつけてよね」

 私は急いでだだ〜っとそれだけを喋る。すると受話器の向こうでは、ぶっすーとした声で奈緒が言った。

『これだけは聞くわ。それは漆原に関係がある?』

「え?───────うーん、まあ・・・そう、ね。あるといえばある」

 受話器の向こう側からはこれまたため息。それからブツブツと何かを呟く声。そして、都、と聞こえた。

「はい?」

『漆原が関わってるなら私にとっては面白い話に違いないわ。なんせあの男が結婚しているという事実ですら未だに私に爆笑をくれるんだから!と、いう訳で、今晩のスケジュール開けるからそっちにいくわね。姫の顔もついでに拝む。絶対ダメ、今だけは来るな!って時間帯があれば言って』

 きっと今頃凄い勢いで手帳をめくっているのだろう。私は苦笑して、来る前にメールをくれたらいつでもオッケーだと伝えて電話を切った。

 それにしても・・・ダレ男が関わってれば絶対に面白い話って・・・。奈緒ったら!


 夜の9時。

 今日はうちのダレ男は終電で帰ってくる日で、娘は一回目の睡眠モードに入っているその時間に来てもらうことにした。

 奈緒はいつも通りに実に華やかな格好と化粧と雰囲気でババーン!と登場したのだ。そしてしずか〜に桜によっていき、じい〜っと寝顔を覗き込んでいた。・・・・うん、何だかこの光景は見覚えがあるぞ、と思ったら、桜を産んだ日に夫である大地が同じようにしていたのだった。

 観察、だ。あははは、観察してら。

 私はニヤニヤと笑って、ちょっとは大きくなったでしょ?と言う。彼女はにんまりと笑って頷いた。

「お仕事お疲れ様。コーヒーでいいの?」

 私がそう聞くと、うん、砂糖なしでね、と言いながら奈緒がダイニングテーブルにつく。ゆっくりと吐き出したため息は重く、外見ではそうは見えないが相当疲れているようだった。

 申し訳なく感じた。私ったら、一体何悩んでんだっけ?状態よ、本当に。

「忙しいのよね、ごめんね疲れてるときに」

 そう言うと、奈緒はちらりと私を見てふん、と首を振った。そしておもむろに口を開く。

「で?一体今度は何事なの?娘が生まれると同時に起こることといえば、普通は浮気よね。まさかあの超淡白男が不倫でもしてるってーの?」

 それなら間違いなく面白い!そう断言する奈緒を、私は呆れて振り返る。・・・面白いって。いや、面白くねーでしょ、それ。

「残念ながら違います。ヤツはあくまでもヤツで何も変わらないのよ。そうでなくて、問題は私よ!」

「あん?」

 器用に片眉だけをあげて奈緒が聞き返す。だから私はコーヒーを彼女の前にずずーっと置いて、話し出した。

「ホルモンの砂嵐の中にいるの。すごい暴風雨で、私はヤツに嫌悪感をもってしまっているの。何かイライラして、顔みたらムカつくし、触られたくない。話したくないし、そばに寄らないで欲しい!この前、私の頬についたゴミをとってくれようとしたヤツに対して、超オーバーリアクションした挙句に触らないで!って言ってしまって、ちょっとヤバイのよ」

 ドドーンと落ち込んでいるのだ、を表現するためにテーブルに頬をつけてグダグダといって見せた。

 すると上からは、実に平然とした奈緒の声。

「ふーん、それで?」

 え?私はパッと顔をあげる。彼女はそれの何が問題なのか、ちーっとも判らないって顔をして私を見ていた。

「いや・・・それでって。問題でしょ?夫に嫌悪感もってしまってるのよ、私」

「だってそんなの普通でしょ?よく聞くわよ、子供産んだらセックスレスなんて。妻は慣れない育児で余裕がなくて、女でなくなっている状態ってやつでしょ。つまり女でなくて、あんたは今、母の時代なわけよね」

「・・・」

「男が邪魔になるのは当たり前よね。実際だいたいの男は出産に関して役には立たないし。その内落ち着くんじゃないの?大体漆原は、女抱くのも面倒臭いって男じゃなかったっけ?ヤツにとってもこの状態って悪くなくて、むしろ丁度いいんじゃないの?」

「・・・」

 奈緒は、うん?と覗き込んでくる。その顔はペコちゃん人形なみに悪意はカケラもなく、いたって普通の表情だった。

「家には帰ってくるんでしょ?あの男は」

 私はぽかんとしたままで頷く。すると奈緒は、片手をヒラヒラと頭の上で軽やかに振って言った。

「じゃあ何も問題ないじゃないの。野郎は元気で遠くがいいのよ。そして、金さえ運んでくれるなら全然問題ない。大体あんた達、結婚当時はただの同居人だったんでしょうが。娘も出来て、それよりはマシなんでしょう?」

 私は言葉を失って黙り込む。何か言わねばと思うけれど、言葉が中々出てこないのだ。・・・まさか、まさかそーんなに一般的な意見を奈緒から言われるとは思ってなくて。勝手に期待していたのだ、このドライな女友達なら、ビックリするような意見で現状打破するような魔法をかけてくれるに違いないって────────────

「・・・そ・・・そう、よね・・・」

 呟いた声はあからさまに覇気がなく、奈緒が目の前で顔をしかめる。

 そしてもう一度ゆっくりと手をヒラヒラさせながら言った。

「ああ、全く。なあーによその顔!ほんと、何が同居人よ、あんたが結局これほどベタ惚れになるなんざ、神様でも思わなかったに違いないわ!」

「す、すみません」

 思わず謝ってしまう。そりゃあ神様も思わなかっただろうけれど、私だって思わなかったさ!ちょっとだけだけど心の中でそう叫んでみた。まさかまさか、私がこんな状態などにって。

 グダグダとテーブルの上で干からびていたら、奈緒が上から指先でつんつんと頭をつついた。

「抱いて欲しいわけ?ならいつかのオモチャを使ったらいいんじゃないの〜?ほら、渡瀬さんが送ってくれたやつよ。あるんでしょ、この家に?」

 ぶぶーっと私は唾を吹き飛ばしてしまった。汚いわねえ!何するのよ!って奈緒が前で叫ぶ。ああ、お茶を飲んでなくてよかった。部屋中に撒き散らしてしまうところだった!激しくなる鼓動を抑えようと、私は必死で呼吸をする。

 高校生の時の同級生に、渡瀬百合という色んな意味で凄い女性がいるのだ。彼女は現在、大人のオモチャと呼ばれるアダルトグッズの制作会社の社長様なのである。そして去年、なぜか我が家にその「大人のオモチャ──渡瀬百合企画商品──」の団体さんが段ボールで送られてきたのだった。

 箱を開けてビックリ仰天した私と、超淡白にそれを眺めていたダレ男。ピンクやブルーのつぶつぶのついた何とも形容のしようがない物体や、怪しげに輝く小瓶。手錠や鞭。それにやたらとカラフルな色んな箱。恐ろしくて開けられなかった。

 前のアパートからこの家に引っ越してくるときに、それをどうするかで私達夫婦は悩んだ(いや、訂正。悩んだのは私だけだ。ヤツは淡々と、捨てれば?とのたもうた)。それで引越しを手伝うと張り切る両家の母親に気付かれないように、ガムテープでぐるぐる巻きにして「危険物在中」とシールまで貼り、持ってきたのだった。

 すぐにそれは床下収納に仕舞ってその上にダイニングテーブルを置いた私だった。

 ヤツは、何で捨てなかったの、とボソッと聞いた。そこでまだ産前の私はガルルルと噛み付いたのだ。どうやって捨てるのよ!?って。一般ゴミか!?それとも不燃物か!?ぜひオメーが捨ててくれ。私は恥かしくて手に取ることすら出来ないのに!

 そんなことがあったのだ。

 そして今、ダンナに抱いて貰いたいなら(そして自力で濡れないならば)それを使え、そう言っているのだ!目の前に立つこの女は!

「そういうことじゃないのよおおお〜っ!!さ、さ、触られたくないのよ、あいつに!まずそこよ〜!!」

 私が驚きのあまりに過呼吸になりかけながらそう叫ぶと、奈緒は前でニヤニヤと笑っている。それからまた品なくフンと鼻で笑って言った。

「─────要するに、キッカケが必要なだけでしょうが」

「き、きっかけ?」

 よく判らなくて首を捻る。すると奈緒は、にやけ顔をパッとやめて真面目な顔で言った。

「あんたに余裕がないのよ。恋愛感情を忘れてしまってるの。それは普通で仕方ないことだと思うけど、それが嫌なのであればホルモンバランスを凌駕する勢いでヤツに惚れ直すしかない!何か────────何か、そうね、男っぽい、これが女と違うわ〜ってところをヤツに見つけることが出来れば、あんたが惚れなおして、一件落着なんじゃあないの?」

「──────────」

 ・・・・おおおー!!って思った。おおおおおお〜!!って。さすが奈緒だわ!鮮やかな分析!そう思って、拍手までした。

 嫌悪感をなくすためには脳内を恋愛モードにすればいい。そのためには、相手の男に惚れ直せばいい!成る程!

 ぱんぱかぱーん!と頭の中でファンファーレが鳴ったほどだった。超理論的だわ、奈緒様!

 ・・・だーがしかし、駄菓子菓子。私は一瞬で現実に戻り、真顔で停止した。

 どうやってそんな要素を見つければいいのだろうか。・・・惚れ直す?あの世紀のダレ男に??

 私が新たに頭を抱えだすと、前から奈緒が身を乗り出して私の頭を人差し指でつんつんとつついた。それから、実に嬉しそうな声で言う。

「ねえ、都が触らないでって言った時、あいつは傷付いたの?」

 へ?私は怪訝な表情を作って顔を上げる。

 何なのだ、この嬉しそうな顔は?頭の上にハテナマークを浮かべたままで、とりあえず私は質問に答える。

「え?───────えーっと・・・うん、そう思ったのよ、私は。だからヤバイって思って・・・」

「呆然としたってこと?」

「は?そ、そうね。目を見開いてたわ」

 ゲラゲラゲラと、いきなり奈緒が笑い出す。頭の中では呆然とした漆原大地、を思い描いているようだった。あはははは!あの男が呆然だって〜!!何て唾まで飛ばして笑っている。

 ・・・煩いぜ。娘が起きてしまうではないの。私は前でむすっとしたままで爆笑する女を眺める。ちょっと私、それどころじゃないんだけど。そんな心境で。たったいま、新たな悩みが立ちふさがったのだから。

 すると更に楽しそうな、嬉しそうな顔になって、奈緒が言った。

「都〜!そこのとこ、もうーちょっと詳しく」

 漆原が目を見開いて〜!!ゲラゲラゲラ。話しなさいよと言いながらも笑いが止まらないらしい奈緒を見て、私は多分初めて夫に対して同情心を持った。

 ・・・ああ、全く。

 私はため息をついて、床の上に転がった。






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