5、302号室

 302号室:住人、飯田史人(イイダ・フミト)職業、調査会社の調査員。ノア・ハウス歴は4年。彼の職業を知っているのは管理人のノアだけで、他の住人にはサラリーマンです、と答えるか、聞こえなかったふりをしている。


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 ため息を吐いて、閉めたドアにもたれて座り込んだ。

 ・・・ああ、疲れた。

 もうその言葉しか出てこない。

 ここ2ヶ月ほど膠着状態だった案件が、今晩ようやく決着がついたのだ。これほどまでに疲れたのは、上司で雇い主の調査会社の所長である滝本さんが行方不明になった時以来だ。

 思い出すのも嫌だが、あの事件は酷かった・・・。あの時はほとんど寝ずに、滝本所長の産みの母親を車でつけまわしていたのだった。疲れて死ぬかと真剣に思ったのはあの時が初めてだ。過労死って突然死だったっけ?などと考えてしまうほどに。

 だけど、今晩のこの疲れも・・・半端がないな。

 俺は何とかジャケットをぬいで、そのままベッドまで這いずっていく。

 泥のような睡魔が怪物みたいに両手を広げてこっちに向かって押し寄せてくるのが判った。

 今は眠りたい。ただひたすら、眠りたかった。

 さっき部屋に引き上げてくる前に食堂で会った、102号室の新住人麻生さんが言っていたことが、一瞬頭を掠めた。

 血痕が見られる薄汚れたくしゃくしゃのハンカチだ。食堂の長テーブルの端に丸めて置いてあったのに気づいたのは朝の事。

 だけど、結局誰も回収しなかったのか、そう思っただけだった。

 眠りに引きずり込まれる瞬間、瞼の裏をちらついたのは、そのハンカチに施された赤い刺繍の文字だった。

 Rって─────────誰だ・・・・・?



 
 カーテンも閉めずに寝ていた。

 眩しい朝日が直接顔の上に振ってきて、その眩しさから両手で顔を覆う。思わずうめき声が出た。

 朝・・・?朝なのか、何か、損した気分だ。さっき寝たところのような気がするが・・・。

 腕を枕の下に突っ込んで、目覚まし時計代わりにしている古いケータイを引っ張り出した。

 デジタルの文字は6時40分を指している。

 ─────────くそ、起床時間だ。

 ゆっくりと起き上がった。

 背広とネクタイを脱いだだけの格好で寝てしまったし、夕べも風呂には入れてない。出勤前に入っておきたかったから、今朝は早目に起きるつもりだったのだ。

 額を片手で押さえて深いため息をつく。

 まだまだまだ睡眠は足りてない気がする。実際睡眠不足に違いない。疲れも簡単には取れない年齢になっているわけだし。瞼を一度強く押さえて頭を振る。ほら、ベッドから降りて・・・風呂の準備だ。急がないと、遅刻する。

 午前9時に会社に行かずとも、滝本所長は怒ったりはしない。あまりにも時間に不規則な仕事なので、その点はかなり自由が利くのだ。しかし、会社である以上は朝始まる時間があるはずで、それは誰も言わなかったけど、従業員は皆同じことを思っているようだった。

 就業規則にはないのだが、うちの調査会社の事務員、湯浅さんが9時に事務所を開ける。だから自分やもう一人の調査員、誉田も、9時目指して出勤するようにしている。

 滝本所長はその日によって違うが、概ね10時前には会社に出てくる。それまでには自分や誉田はすでに動いているのがベターだろう。

 鍵と風呂の準備を持って部屋を出る。コンクリート打ちっぱなしのこのノア・ハウスの廊下にはj細長い大きな窓があって、そこから朝の光がいつもは薄暗い廊下一杯に差し込んでいる。

 今日は、いい天気だ。この廊下がちょっとはいいところに見えるのは、こんな晴天の朝しかないのだから。

 札をひっくり返して使用中にし、浴室の一つに入る。さあ、体も頭も目覚めさせるぞ───────────


 怪しげな管理人、ノアさんが経営しているここの部屋を俺に紹介してくれたのは、滝本所長だ。調査会社を経営している、冷静で恵まれた外見をしている30代の男性。

 そして、その所長に出会わせてくれたのは、桑谷さんという男。今は違う職業に就いているその人は当時、滝本所長の経営パートナーで、若い二人は調査会社を設立したばかりだった。

 桑谷さんに出会った時、俺は場末のバーや飲み屋がひしめき合う路地裏で、最後の一本になったタバコを吸おうとしていた。34歳の時だった。

 大学を卒業して社会人になり、銀行に勤めていた。上司の権力争いに巻き込まれ、色んな事情を知る立場にあったこと、無口で同僚とさほど仲良くなかったことが災いして罠に嵌められた果ての、路上生活者だった。

 頼る実家はすでになく、兄弟姉妹もおらずで天涯孤独の身だったから、仕事も信用も失ってからは落ちるのが早かった。公園の隅っこのベンチで寝泊りしていたけれど、その時は食べ物を探して路地裏に入り込んでいたのだ。

 その路地裏に飛び込んできた一人の男に、その最後の貴重な一本のタバコを叩き落とされてしまったのだ。その男は俺が憎くてそんなことをしたわけではなく、ただ、走ってきて、その腕が俺の顔面をかすっただけだったのだけれど。

 男は、何か、いや、誰かから逃げているかのようだった。

 だけど俺にはそんなことは関係ないし、そいつのせいで最後のタバコがダメになってしまったのだ。だから、腹を立てた。

 走っていく男を背中から捕まえて、壁に向かって一気に投げ飛ばした。高校卒業まで習っていた拳法の稽古のお陰で、体が勝手に動いたのだ。そのくらいの体力だけは残っていた。

 もう人生が終わりかも、いや、終わらせた方がいいんじゃないかってくらい暗くて巨大な穴の淵にいて、希望の光みたいに感じていたタバコの一本を叩かれたことで、俺は完全にキレていた。だから投げ飛ばしたのだ。

 その男は汚い壁にぶつかって、呻いた後で失神した。ぐったりとなった顔を見ている限り、善人には見えなかった。それはまだ若干残っていた俺の罪悪感を慰めた。

『おやおや〜』

 声がして、俺は座り込みながら横目で通りの方を見た。

 そこに現れた細身だけどガッチリしていて大きな男性。俺は彼が笑う声を、肩で息をしながらぼんやりと聞いたのだ。

『やりますねぇ』

 そう言って低い声で笑った背の高い男性は、俺と倒れた男の方へゆっくりと歩いてくる。それを俺は壁に背中を預けた状態で見上げたんだった。最後の力は男を投げ飛ばしたときに消えていたから、追っ手か新手かわからないこの男をどうにかすることは出来そうもなかった。

 腹が減って、疲れきっていたから。

 ・・・まあ、もう一緒だ。どうにでもなれ。そんなことを考えて。

 その男、まだ当時は26歳だった桑谷さんは、一重の瞳を細めて、大きな笑顔をしていた。悪戯が成功した子供みたいな笑顔だな、と思った記憶がある。何だろう、この人。若いのかそうでないのか判らないな、って。彼は両手をポケットに突っ込んで、ぶらぶらと俺に近づいて、言ったのだ。

 なあ、腹、減ってない?って。だから俺は暫く動かずにいた後、黙って頷いた。実際のところ、その頃の俺は食べ物を口に入れることが出来てないままで30時間ほど経っていた時だったから。

 それから、彼に連れて行かれた定食屋で、ご飯を食べている時に色々な質問を受けた。気にせずにありのままを伝える。目の前にある出来立ての丼の方が、俺にとっては大切だったから見栄もプライドもあったものじゃなかったのだ。その時に現れたのが滝本所長で、ガツガツと丼を掻き込んでる俺を顎で指し示して桑谷さんが言った。

『調査員だ、彼は使える』

 俺には何の話か、正直判らなかったのだ。耳の中には彼らの会話は入っていたけど、目の前の久しぶりのまともなご飯を掻き込むことに集中していた。だけど、翌日から俺は彼らの会社で働くことになっていて、暫くは桑谷さんが手配してくれたアパートで寝起きしていた。

 荷物はほとんどなかったから身一つの入居で、生活用品は桑谷さんがどこからか持ってきてくれた。

 与えられた仕事は嫌なものではなかったし、調査会社の居心地も悪くなかった。元々細かい性格や寡黙なところが、俺が調査員として成功した理由かもしれない。調査会社に雇って貰って3カ月が経つ頃には俺はちゃんとした社会人に復活していて、生活は完全に立ち直っていた。

 調査員になって仕事を覚えたと言える頃から、自分を路上生活者にまで追い込んだ、銀行の裏側を調べ上げて証拠を集めた。それを、当時俺を罠に嵌めた上司の上の人間に送りつけてやった。俺の人生を変えた上司の転落を見届けて、感情が戻ってきたように思う。そうやって個人的復讐を果たし、漸く本当の意味で、過去を捨てることが出来たのだ。それに関しては、桑谷さんも滝本所長も何も言わなかった。口も出さない代わりに手も貸さないのスタンスで、後ろで見守ってくれていた。

 有難かった。

 それに、俺は救われた。

 その桑谷さんが諸事情あって調査会社を辞めた頃、滝本所長が住まいを移らないか、と言ってきた。

『飯田、住んで欲しいところがあるんだ』

 って。住居にこだわりなどなかったから、すぐに承諾した。そして紹介された所がここ、ノア・ハウス。

 連れてこられた下見の時、滝本所長がノアと名乗った男に言った。うちの調査員だよ、宜しくって。するとその男が頷いた。以来、俺はここの302号室で生活している。

 ノアという男が言った言葉は二つだけ。

 1、調査員が本業だって言わないこと

 2、俺のことを調べようとしないこと

『これを守ってくれれば、こっちも干渉しないから』

 判りました、そう言って俺は住みだした。だけど、彼は俺を連れて住人を呼んだ最初の紹介で「こちら探偵みたいな仕事をしている会社員」と普通に言ったから、ずっこけそうになった。あれ?そういう類のことは言わないことって、さっき言ってなかったか?と思って。・・・よく判らない男だ、このノアって人。

 まあとにかく、俺自身は調査員ですとは言わないようにしている。

 他の住人達も皆それなりに変わった人間ばかりだと、すぐに判った。第一ここの一番いいところは、皆他人に興味がなさそうなところだ。適度に話相手がいて、それでも基本的には一人暮らし。確かに、古いアパートで一人暮らしをするよりは気も紛れたし、気分も良かった。大体ここは、驚くほど設備がいい。水周りは最新で、居住空間は新築の分譲マンションのようだった。

 ここに住んで4年、俺は、この暮らしが気に入っている。


「おはようございます、飯田さん」

 風呂から上がり、生き返った気分になって出勤準備を済ませ、食堂に下りていくと麻生さんが振り返った。

「おはようございます」

 俺は呟くように答える。

 ここの一番新しい住人である102号室の麻生というOLは、ここの住人にしてはマトモな部類に入る。一般的な仕事で生活をしている若い女性。本当に仕事をしているのか不思議な占い師や脚本家や無職の白石さんとは違うし、夜の仕事である301号室カップルより健全な雰囲気。大体朝から活動しているのは、OLの彼女と会社員(一応は)の俺だけなのだ。だから必然的によく話す。

 彼女はトースターに食パンを突っ込みながら、喋った。

「皆さんがハンカチの持ち主を探したらしいんですけど、管理人さん以外は知らないってことが判ったんですって。だから、今日、お嬢さんがノアさんにハンカチのこと聞くそうですよ〜」

 俺はコーヒーを作りながら、え、と声を出す。

「・・・あ、他の方のじゃなかったんですか」

「はい。皆違うって言ったそうです。バーテンダーさんはわざわざ見にきたらしいですけど、知らないって。で、まだ聞いてないのはノアさんだけ」

 ふーん・・・。ちょっと意外だった。あのハンカチ、どうせ誰かの忘れ物で、すぐに回収されると思っていたのだ。女性物だけど、ここの女性住人の中にいるとは思えなかったので(皆Rじゃないし)、てっきり脚本家かバーテンの知り合いの女の人だろうって思ってたのだ。

 301号室に歌手と住むバーテンの、浮気の証拠かと考えてしまった俺は、仕事に毒されていると言える。自分
でそう思って苦笑した。

 でも違ったんだな。なら、謎だけが残るわけだ。ここの食堂に用がある人間なんて、住人以外いないのに─────


 いただきまーす、と元気よく言って、彼女は朝食にかぶりつく。俺は自分の分の朝食を作って、長テーブルまで運んだ。

「眠れましたか?すごく疲れてそうでしたよね、昨日」

 麻生さんが話しかけてくるのに、適当に頷く。この人がきてから、ノア・ハウスはかなり明るくなったように思う。何せ、会話がある。

「ちょっと忙しかったんです。でも・・・今晩は早目に戻れそうです」

 俺はぼそぼそと話す。別に聞いてはいないかもしれないが、何故か会話をすべきだと思ったのだ。

 彼女がコーヒーカップ越しにハンカチを見て言った。

「あーあ、ノアさんに聞く時、私も居たかったなあ〜・・・。管理人さんて得体が知れないから、何て言うのか興味ある〜」

 俺もちらりとハンカチを見る。・・・確かに。あの管理人は、何て答えるだろうか。知りませんとか?いやいや、それ、何ですか?とか言うかも・・・。

 滝本所長には色んな知り合いがいるから、一々気にしていても仕方がない。それでもここの管理人ほど秘密主義の男も珍しいな、と思った。どういう知り合いでどういう人間なのかを所長に聞いても笑ってはぐらかされるような気がするし。何故俺がここに入居する必要があったのか、それすらも未だにわからない。

 さて、と言って麻生さんが立ち上がる。

「じゃあお先に行ってきます。今日も頑張りましょうね、飯田さん!」

「あ、はい。・・・行ってらっしゃい」

 釣られて言葉を返す。麻生さんはにっこりと笑って、手を振って出て行った。

 カップやお皿を片付けた。

 さて、俺も出勤だ。今日は所長が来る前に昨日の案件を書類にまとめて、それから依頼者に連絡を入れて、湯浅さんに請求書の作成も頼まないと───────────

 仕事の段取りを考えながら、ドアを開けた。





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