6、303号室


 303号室:住人、白石秋穂(通称、お嬢さん)、職業、無職。父親、母親ともに大地主の家の、4姉妹の末っ子。政略結婚から逃げる為に家出をし、そのままノア・ハウスにいついている。ノア・ハウスでも最年少ではあるが、住人歴は一番長いのでノアへの連絡係をしている。


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 今日も私は談話室の白いソファーの上で寛いで、ぼんやりと色々なことを考えています。ここは、大変落ち着く場所。そして、色んなことが勉強出来る部屋。この部屋の本棚には色んな言語の辞書や本もありますし、経済書や漢文など、多岐にわたる書物があるのです。行ったことなどありませんが、大学の図書館と言う場所はこんなところなのではないか、と思っているのです。しかし残念なことに、この場所を愛用しているのは住人の中でも私だけかもしれません。

 自分に与えられた303号室の小さな部屋も嫌いではありませんが、あの小部屋にいると自分がとても小さくなって、そのままで消えてしまうかもしれないと思うことがよくあるのです。

 ここに住んで長いことになりますが、それでもまだ、そのような感覚に陥ることが。

 だから、私は今日もここに。

 誰が来ても、会話の相手となれるように。

「お」

 ドアが開いて、入ってきたのは101号室にお住まいの、脚本家の羽さん。私は頭を下げます。

「羽さん、お早う御座います」

 羽さんはいつものように片手を上げて、食堂のドアを開けて入って行きました。いつもクタクタのTシャツを
着てらっしゃるこの脚本家さんが、朝食をこの時間に召し上がるのはちょっと珍しいことです。いつも、この時間に食堂にいるのは、一般企業に勤めてらっしゃる麻生さんと飯田さんですから。

 食堂から話し声が聞こえてきて、テレビもつけずに静かにしている私の耳にも届きます。

 羽さんは少し声が大きい・・・。嗜めるようなことは勿論いたしませんが。第一、私が嗜めたところであの方はお聞きにならないでしょうし。

 自由に生きている方なのでしょう。私は、それが少し羨ましい。

 もれ聞こえる会話からは、羽さんは朝食用の食べ物がなく、それを見かねた麻生さんがご自分の物を渡しているみたいです。ちゃんとした大人のはずですのに、羽さんは。お仕事もしてらっしゃる方が、どうしてそうなるのでしょうか。買い物にいく時間だってあの方はたくさん持ってらっしゃると思うのですが。

 ここ、ノア・ハウスへ来たのは、私が21歳のころ、5年前のこと。

 家出をしたばかりの私を、管理人で経営者であるノアさんが、導いてくれたのでした。思い出しても不思議な出会い。あの時、ノアさんに出会わなければ、私はとっくに当時40代前半の証券会社役員の妻になっていたのでしょう。

 家系を辿れば明治時代には華族、そしてその前は藩主であった私の生家は、脈々と続く大きな家でございます。

 その白石家の現当主の、4姉妹の末娘である私に、父はある日、結婚を言い渡しました。

 姉達はとうに良家に嫁ぎ、それぞれが仕事の面でも成功を収めてましたから、父は私には職業をもてとは言わず、ただ、ある人の妻になれ、と申したのです。

 嫌でした。

 見目麗しい殿方とは到底言えない年上の男性の写真を見て、私は絶句、父の妻ではありますが、姉妹の生母ではない母に泣き付いたところでどうにもならず、それならば、と世間知らずが先行しての家出をしたのです。

 5月のある夜中に、とぼとぼと歩いてました。

 どこまでいけばいいか判らず、とにかく家にはいたくないというそれだけを繰り返し思いながら、ひたすら歩いてたんですね。

 お手洗いにいくのを装ってそのまま裏口から出たので、カメラにはうつっているでしょうし、ガードにも気付かれているでしょう。ですから早ければ朝になる前に家のものに見付かって、そのまま花嫁支度に入るだろうことは判っていました。

 だけど一度くらいは、反抗をしてみたかったのです。

 生きているのだという実感が、欲しかったのです。

 一度もお話したことさえない男性に嫁ぐのは、悲しいことだと思ったのです。

『今まで何の苦労もなく育てて頂いたのですから、お父様が決めた通りに嫁ぐのが娘の努めでしょう』と薄い笑顔を浮かべたお母様の目が頭の中でぐるぐる回っておりました。泣き付いたその時に、気付いたのです。

 ああ、私はずっとこの方に嫌われていたのだな、と。

 幼少時に父と再婚された時より、母と敬い、懐こうと私なりに頑張っておりましたけど、それはどうやら無駄な行いのようでした。姉達に話せば慰めてはくれるでしょうけれど、他家に嫁いだ身分ではどうしようもないと言われるだろうことが予想できました。結婚も、そうそう悪いことばかりではないのですから、と諭されることも。

 だけど追っ手はこずに、とうとう夜明けがきて遠く太陽の光が見え、街のシルエットが輝き出しました。私は大変疲れてしまって、丁度通りかかった公園に入り、人気のない奥のベンチに座ろうとしました。

 歩き慣れない足はパンパンにむくみ、もう後一歩でも難しく感じるほどでしたから、ここで、捕まるのを待とうって思ったのです。するとそのベンチには先客がいました。それが、ノアさん。

 ベンチに寝そべっていたノアさんに気がつかず、ぼーっとしたままの私は腰を下ろしてしまいました。当然、下敷きになったノアさんはうめき声をあげ、私は漸く人の上に乗ってしまったことに気付いて、慌てました。

 長い前髪をかき上げて、寝そべったままで、ノアさんは私を見ました。

 その細めた瞳に、私は怯えました。父以外の男性とこれほど近くにいるのも初めてだったのです。だからすぐに立ち上がって謝罪いたしました。

『ごめんなさい。気がつかずに、大変失礼しました』

 するとパッと髪から手を離してまた目元を隠し、ノアさんは起き上がりました。別にいいよ、そう仰って、疲れてるんだろう、座ったら?と場所をあけて下さったのです。

 その声が、優しかった・・・。私はそれだけで安心してしまって、ノアさんの隣に座りました。

『ここにはすごく似合わないお嬢さんだな・・・』

 そう言われましたので、私は何かお話しなければ、と思い、あなた様は、と言いかけたのです。すると大きな手で振り払われてしまいました。

『やめてくれ、俺は、ノアと言うんだ』

 静かな方でした。最初に受けた怖い印象はすぐになくなり、穏やかな気配が漂います。だから私は、つい、しばらくお話をしたのです。生い立ちや、どうして早朝に公園に一人でいるのか、などの理由を。低くて小さな声で訊ねられると、自分でも驚くほど素直に話してしまったのでした。

 だけど暫くして、普段は喋ることなど有り得ない自分の正体を、名も知らぬ男性に人気のない場所で話すなんて危ないことをしたと気付いて、私は一人で青くなりました。

 誘拐が日常茶飯事である身分であることを、漸く思い出したのです。

 ベンチに座ったままで体を固くしていると、ノアさんがのんびりと聞きました。

『家に帰りたくないの?』

 私は躊躇しましたけれど、ここまで話してしまえばもう同じだと思い、頷きました。

『じゃあ、俺のところに来る?』

 驚きました。そして、それは出来ません、とお断りしたんですね。だって、見ず知らずの男性の家へついて行くなんて、さすがにそれは、と思って。するとノアさんは笑われて、説明して下さいました。

『俺はこんなナリだけど、アパートを経営してるんだよ。そこにくるかって聞いてるんだ』

 部屋を提供するよ。そこで住んで、自分で世界を探したらいい。そう仰って。

 私は無理だ、と答えました。もうすぐ見付かるはずの私、うちの父が、そんなことを許すはずがありません。私は管理された生活に慣れていて自分のお金も持っておりませんでしたから、心が惹かれるお話に悲しくなりました。

 するとノアさんが、ゆっくり言いました。大丈夫だ、って。うまくいくから、そう仰って。

 そして信じられないことに──────────うまくいったのです。しばらくして家の者にみつかり、ノアさんも一緒に連れて帰られました。扱いはかなり乱暴で、私は抗議いたしましたけれど、家の者は誰も聞いてくれず、掴まれた腕が痛くなったほどです。だけどノアさんは平然としてらっしゃいました。

 そこで父と面会したノアさんが話をして下さったのです。別室で母からの叱責を受けていた私には全然聞こえなかったので内容は判りませんが、話が終わったあとでやってきたノアさんに、父が納得したと告げられました。

 まさか。私はそう思いました。母も非常に驚いていらっしゃった。失礼ながら、ノアさんの外見は父のような人間が信用をする類のものではありませんでした。面会できたというだけでも驚いておりましたが、父を説得できたというのですから、私の驚きは相当なものでした。

 この方は一体、どういう人なのだろう、そう思って。

 父に呼ばれて、私は部屋へと参りました。

『あの人の世話になりなさい。お前に10年やろう。何が出来るか、見ていてみよう』

 父がそう言って、私は呆然としてしまいました。・・・まさか、そう思ったのです。質問をする時間などは父は与えてはくれませんでした。ただ、今日中にお前のものをあちらに送る、と言われたのです。そして言葉通り、ノアさんが連れて来てくれたここの場所に、家から私の道具が届きました。

 その中には、今までみたことすらなかった私名義の通帳と印鑑なども。

 恥かしいことに、お金の支払い方や公共機関の乗り物の乗り方など、私は何もしりませんでした。習い事も家の中でやり、学校へは車での送迎が普通の生活でした。初めてするそれらの色々なやり方は、ノアさんが私に教えて下さったのです。私は喜んで、新しい生活に慣れようと努力しました。

 今では外での仕事こそしてはおりませんが、電車にも乗れますし、一人で買い物にもいくことが出来るのです。

 とにかく、それ以来私はここでお世話になり、既に5年が経ちました。住人はゆっくりですが入れ替わったりもし、私はそれを見てきました。そして変わらず、いつでも談話室のソファーに座っています。ノアさんが私に言ったのは、それだけですから。

 ここに居て、住人の話し相手になってくれ。何が出来るか、自分で考えてごらん。ここにあるものは自由にみていいよ、と、それだけを仰ったのですから。


「ハンカチ?」

 食堂からの声が大きくなりました。

 皆さんで、昨日から置いてあった、酷く汚れたハンカチの話をしているようです。あれがどなたのものなのかと皆さん思ってらっしゃるのですね。

 だけど、そのままでハンカチは置かれていました。

 その後一日かけて、住人全員が、これは自分のではないし、知らないと確認したのです。

 思ってもないことでした。すぐに持ち主が見付かると思っていたのです。301号室にお住まいの平さんがやってきて、ノアさんに渡してくれないか、と仰いました。

 私は、はい、と言いました。何かの決め事を住人達でする時、その結果を伝えにいくのはいつでも私の役目でした。だからハンカチを受け取り、そのままで屋上へ上がるために階段へと出たのです。

 ノアさんは、ここの屋上に小屋を建てて寝てらっしゃるようです。談話室の隣のちゃんとした小部屋や、1階にある管理人室をどうして使わないのか、と聞いたことがあるのですが、ノアさんは笑っただけでした。

 私は屋上のドアを開けて、風に目を細めます。端っこの方に建つ、あまり居心地がよくなさそうな小屋へ向かって行きました。

「ノアさん、お早う御座います」

 私はそう言いながら、板を打ちつけただけのドアをノックいたしました。

「・・・うーん?」

 中から声が聞こえました。ノアさんはいらっしゃるようです。

「白石です、朝早くに申し訳ないです、伺いたいことが出来まして」

 そう言いますと、ドアが開きました。目の前にぬっと立っているのはノアさん。相変わらず長い前髪で目元を覆っていらっしゃるので、今どんな表情をしているのかがよく判りません。どうか不機嫌ではありませんように、そう祈って、私はハンカチを差し出しました。

「こちらは、ノアさんの物ではありませんか?」

「・・・」

 じっと私の手元を見たようでした。それから大きなシャツの間から指先だけを出して、ハンカチを摘み取りました。

「・・・これは、どこに?」

 あら。私は驚いてノアさんをじっと見てしまいました。ではこのハンカチを、ノアさんは知ってらっしゃるのですね、そう思ったのです。

「一昨日から食堂のテーブルにおいてありました。それで皆さんが一体どなたのものであるかで話してらっしゃったのです」

 私がそう言うと、ノアさんは黙って俯きました。

「・・・ありがと。これは預かる」

「はい」

 それは一体どういうものですか、とは聞けませんでした。いきなり目の前に壁が出来たかのような威圧感を感じてしまったのです。実をいうと、私は怯えました。

 ノアさんの影が大きく膨れ上がって、こちらに襲い掛かってきそう・・・そんな感じを受けたのです。

 私は一つ深呼吸をしたあとで、回れ右をしました。

「では、失礼します」

 うん、と呟くような声が聞こえて、ドアが閉まったのが判りました。私は屋上から下へ戻ります。そしてまた、談話室のソファーへ座りました。

 ドキドキしていました。何だったのだろう、そう考えて、一人で座り、少しばかり呆然としてしまったのです。

 その夜、珍しく皆さんが食堂に集まりました。まだお仕事中のバーテンダーさんと歌手の平さんカップルはおりませんでしたけど、その他の方は全員が。

 皆さん、ノアさんがどういう反応をされたのかが気になるようでした。私が話し終えると、皆さんほおっと体の力を抜いています。

「じゃあ、ノアのだったんだな、やっぱり」

 羽さんがそう仰って、占い師のマリアさんが不思議そうな顔をしました。麻生さんが言います。

「でも預かるっていったんでしょう?ってことは、ノアさん本人のじゃないんですよね、多分。知り合いの方のかなあ」

 隣から飯田さんが言いました。

「一体どこから来たのでしょうね。気がついたらここにありましたけど、管理人はここへ来てないでしょう」

「そーんなに不思議に思うことなんですか?ただのハンカチでしょ?」

 久しぶりに、羽さんの弟さんもいらっしゃいました。公演から戻られたのですね、私は今さらながら挨拶をします。羽さんの弟さんは見事な赤毛をしてらして、私に会釈を下さるときにそれが光に反射してキラキラと光っていました。

 戻ってきたばかりの羽さんの弟さんの言葉に、何となく全員が顔を見合わせます。

「・・・ただの・・・ハンカチ、と言えば、まあそうなんですが」

 飯田さんがゆっくりと言いました。麻生さんが続けます。

「血がついていたり、やたらとボロボロだったり・・・何だか気になるハンカチだったんですよ」

 ふーん?まだよく判らないってお顔で、弟さんが首を捻ります。

「ここには鍵をもつ住人しか入れないはずなのに、皆の持ち物でなかったってことだけで、既に不思議ですよね」

 麻生さんがそうおっしゃって、食堂は一瞬静まり返りました。

「───────ま、考えても仕方ないよな。ノアが説明してくれるとは思えないし。忘れるか。おい、修、どっか食いに行こうぜ。食い物何もないんだ」

 羽さんのお兄さんが明るくそう言って、その場の雰囲気が変わりました。そうしようと返事をした弟さんの肩を叩き、二人は出て行きます。麻生さんが、私もご飯たべよ〜っと、と仰って、台所へ入っていき、飯田さんは、失礼します、と会釈をなさってご自分の部屋に戻られます。

 マリアさんがまだ納得いかない顔で椅子に座ってらっしゃいましたけど、やがてため息をついて、立ち上がりました。

「・・・じゃ、アタシもご飯の調達に行こうかな。お嬢さんは晩ご飯食べたのー?」

「はい、6時に」

 私の返事に、そう、と頷いて、マリアさんも台所へ。私はいつもの場所へと戻ります。

 談話室の白くて大きなソファー、そこに座って、読みかけの本を開きました。

 だけど一向に集中出来ませんでした。

 なぜか、胸のあたりがざわざわしていたのです。

 何も、起きませんように──────────本を閉じて、そうお祈りしました。


 
 ここがいつもと変わらない夜を迎えられますように。





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