4、301号室



 301号室:住人、砥石マサル(職業バーテンダー)と平香子(ヒラ・コウコ、職業、歌手)どちらも35歳。


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「ココ、風呂空いてるって麻生さんが言ってたぞ」

 俺は部屋を開けるなりそう言った。彼女は丸まっていたベッドの上で、トロンとした目を開ける。

「・・・あ、はーい・・・。行くわ」

 猫みたいにくるんと丸めていた身をのばして大きく欠伸をする。まだ化粧されていない肌はツヤツヤと光り、夕日に産毛がキラキラと光っている。長くて細い茶色の髪の毛が、彼女の肩を滑った。

 ココと呼んでいる彼女の名前は平香子。香子と書いてこうこと読むのだ、と教えてくれた時に、店で呼ばれていたココという歌手名の意味が判った。

 こうこのあだ名がココだったってことなんだな、って。

 俺はてっきり、彼女が愛用している香水からきているのだと思っていた。彼女はココ・シャネルのNo.5を愛用している。だからココって名乗っているのかって。

 よいしょ、そう自分に掛け声をかけて、彼女はゆっくりとお風呂に入る支度をする。これから全身を洗い化粧をして、夜の女に変身するのだ。

 さっき俺が時間をかけて愛した後で、彼女の体は汗と体液でベタベタだ。それを引き摺って2階の風呂場まで下りて行く。ここの住人は他には誰もお風呂なんぞ使わない時間だから、今までは大丈夫だったのだ、それでも。

 しかし3ヶ月前に102号室に麻生さんてOLが入ってから、ちょっとばかり変わってしまった。

 お風呂が大好きと公言する麻生さんは、休日であれば朝だろうが昼だろうがお風呂を使うのだ。そして、たまに、ココと廊下ではち合うらしい。いかにも情事の後ですって体現した状態のココと最初に出会った時、彼女は口をぽかんとあけて凝視してきたわ、とココが笑っていた。

 でも顔も赤らめずに、すぐに言ったって。お風呂、お先です、いいお湯でしたよ、と。

 それ以来、ここノア・ハウスへの新入りである麻生さんに、俺達は一目置いている。

 恋愛を知っているって感じがするのだ。おお、格好いいじゃないか、そういう感じ。

 ココが部屋を出て行った。俺は窓を開け放って篭った空気を入れ替え、ベッドを整える。

 これから二人とも、出勤だ。俺はバーテンで、彼女は夜のラウンジで歌う歌手。それぞれ別の店で働いていて、一緒にここノア・ハウスの301号室に住んでいる。8畳の部屋、それが俺達の「愛の巣」ってわけだ。

 愛の巣・・・・なんとも陳腐だけど、そう表現するのが一番しっくりくる。紛れもなく、ここは俺達の愛の巣で、疲れた二人を包み込む繭の役割を果たしているのだから。


 彼女を初めて見たのは、悪友に連れられて行ったラウンジだった。俺には大学生の時以来の悪友がいる。名前は平林と高田という。奴らは実は幼馴染らしいが、俺は二人とは大学のクラブで一緒になった。二人とも、日本人男子にしては背がでかく、そして保険会社に勤務するサラリーマンとして、かーなり成功している。

 平林なんて金持ちのレベルに入ると思う。しっかりと財産の話をしたことなどないけれど、金融会社で成績がいいとくればその年収は同年代のサラリーマンより遥か雲の上のはずだ。その差を思って凹むときは、ヤツは俺の代わりにたっぷりと税金を納めてくれているのだ、と考えるようにしているんだけど。

 そして一つ年下の高田。こいつは愛想な良くないが、やたらと外見がいい。八頭身の人間なんて間近で初めてみたけれど、大学で最初に会った時、うわーと思ったものだった。こいつも平林と同じ保険会社に勤めていて、無口なのに営業職、しかも好成績ときた。おかしいだろー、おかしいよな、だってあいつは本当に喋らないのに。

 とにかく、奴らは外見がよく、頭もよく、社会的に大いに成功した男達なのだ。それだけでも十分腹立たしいのに、やたらと美形だけど超がつく無愛想で女にはとんと縁のなかった高田がこの前結婚したし、平林は再婚した(畜生)。これで大学生の時につるんでいたヤツらで独身なのは俺だけになってしまったのだ。なのに暇そうに、何かと言っては奴らは俺の店に飲みにくる。

 ・・・ムカつく。

 家庭持ちが飲み歩くなよ!そう言いたいが、強くは言えない。なぜなら、奴らが店で落としていく金は大きいし、何よりも、奴らがいたから俺はココに出会えたのだ。

 お前が好きそうな女の子発見したぞ、そう言って、平林が笑ったんだった。

 ふん、信用出来るかよ─────────そう言いながらも俺は二人の後について、路地裏のラウンジへと向かった。

 ココは、そこで歌っていた。その日はカントリーミュージックだった。日替わりでジャズにもシャンソンにもロックにもなるらしい。歌を聞かせて飲み食いできる、というのがその店のやり方で、歌の種類にこだわりはないらしかった。

 明るい声で陽気に歌う、その内容はともかく、俺は彼女に一目惚れした。平林と高田が俺がココに惚れるかで賭けをしていたとその時に気付いたけど(高田が勝ったらしい)、そんなことがムカつかないくらいに、どんぴしゃで、彼女が好きになった。

 細い瞳、肉厚の唇、白い肌、面長の美人。細くて長い髪の毛がライトに光って舞っていた。微笑めばその瞳は線のようになって、細く細く伸びる。

 ああ、見つけた────────────

 そう思った。

 だけど俺は、大した稼ぎもない夜の家業の男だ。安定などとは程遠いし、外見だって大していいものじゃない。彼女が相手をしてくれるかは判らなかったけど、それでも仕事がない日は連続でその店に通った。そして、半年かけて口説いたのだ。

 初めて一緒に寝た夜、実は同じ歳だと知って、二人とも驚いたものだ。俺達は、老けて見えるのも同じだった。

『最初に言っておくんだけれど』

 彼女はふんわりと微笑みながら俺に言った。

『私、結婚願望は少しもないの。それでもいいなら・・・』

『問題ない。俺だって、甲斐性があるとは言えない生活力だし。でも好きなことをしているこの人生が、気に入ってるんだ』

 彼女は、俺の返答が気に入ったらしかった。良かった、そう言って、俺へと手を伸ばしてくれたのだ。

 俺の大事な、ココ。

 彼女が住んでいる場所のことを話したのは付き合いだしてからしばらく経った頃だったけれど、ちょっと珍しい環境なんだな、と興味を持ったのを覚えている。何だかよく判らない男の持ちビルで、改造されたそこで色んな職業の男女が一緒に暮らしているらしい。他の男も一緒に?と俺は不満に思ったけれど、その時彼女は色っぽく微笑んでバカね、と言った。気になるなら、見にいらっしゃい、って。

 結局、俺はそのシェア・ハウスに転がりこむ形になった。その話を決めたあと、一度だけちゃんと管理人のノアって男と話したのだ。

 話した・・・とは言えないかもしれない。一階の廊下で出会った浮浪者のようなナリをしたノアは、驚く俺に一言、こう聞いただけだった。

『平さんと、住むのか?』

 まだ驚いていたけれど、隣でココがニコニコしているから、ああ、この男が例の、と判った俺はこう答えた。

『出来れば一緒に住みたいんですが』

 空いてる部屋があるんですか?そう聞こうとしたら、ノアは言ったのだ。

『じゃ、301へ二人でうつったらいい。あそこは8畳だから、二人でも平気だろ』

 そこでココが微笑みながら頷いた。

『ありがとう、ノア』

 それで話が決まってしまったのだ。その時ココが住んでいた102号室を出て、二人で301号室へうつった。え、いいの?そんな感じだったけど、ここの変わった他の住人も、アッサリ俺を受け入れてくれた。

 1階の住人、脚本家らしい兄とダンサーだとかの弟(彼の赤毛はどうかと思う。派手だろ、あれは)、その当時はいなかったけど、今は102号室の住人である麻生さん、そしていつからいるのか知らないが、結構長いこといそうな占い師(職業が本当かどうかは知らない)。それから3階の、俺達の隣の部屋に住んでいる飯田って男。えらく時間が不規則な業種のサラリーマンらしい。そして303号室に住む、皆がお嬢さんと呼ぶ白石という女。

 いきなり女性の住人の部屋に同棲しだした男を見ても、何も思わないらしかった。ノアが皆を集めて淡々と報告し、他の住人は頷いただけ。え、それでいいのか?って俺は驚いた。何だよ、えらく簡単だな、って。

 淡々と、ここでの毎日は過ぎていく。最初は勝手がわからなくて戸惑っていたけど、2年にもなった今、俺の家はここだ、とハッキリと言い切れる。

 いつまでもここにココと住んでいたい。それが、今の俺の望みだ。


「ねえ、ベージュのハンカチ、血がついてるのなんだけど、マー君落としてない?」

 風呂から戻るなり、ココが言った。俺は白いシャツをクリーニングの袋から出しながら振り返る。

「ハンカチ?知らないな」

「そう、やっぱり。・・・じゃあ、本当に誰のなのかしら」

 彼女は化粧ポーチを持って、鏡台の前に座った。これから、夜の女になる為の魔法をかけるのだ。

「ハンカチがどうかしたのか?」

 気になって聞くと、それがね、と話し出す。

「一昨日から、食堂にあるらしいの。皆が誰のだろうって言い合ってるけど、誰も自分のだって言わないらしいわ。それで、ハンカチは女性用らしいけど、一応男性にも聞くってなって・・・」

「血がついてるって言わなかったか?」

 顔に何かのクリームを塗りこみながら、彼女は頷く。

「そうなんだって。飯田さんが言ってたわ。血のあとがありますって」

「皆、自分のじゃないって?」

「そう」

 俺は知らないな、そう考えて興味をなくしかけたところで、ココが言った。

「マー君でもないなら、あとはノアしかいないわね」

 ノア?あの管理人が?

 俺はまた彼女を見た。

「あの人は関係ないんじゃないか?第一、あの男は食堂に顔出さないだろう」

 ここの持ち主で、とりあえず管理人だと名乗っている割りには、ノアはほとんど共有部分に顔を出さないのだ。たまーに、1階の建物入口横の小部屋から長い足がはみ出していて、何かと覗けば彼が寝転んでいる、という時はあるけど、基本的には住人達に任せている状態だ。掃除は各自だし、食べ物管理も各自。個人の部屋の備品が壊れた時にはノアに言うらしいが、そんなことは滅多にないときている。そして一番修理が必要と思われるビルそのものの補修は、ノアには言っても無駄らしいし。

 ここに長らくいる脚本家とダンサー、それと占い師が皆から何かの提案があった時に、住人を集めて会議みたいなことをやる。そうやって皆でルールを決めるのだ。

 決まったことを、一番暇そうなお嬢さんがノアに告げる。ノアが頷けば、それで決まりとなるらしい。

 だから管理人である彼がここ何日かで食堂へ行ったとは考えられない。少なくとも俺は2年住んで、そんな光景は見たことがない。新しい住人を引き合わせる時だけはノアは出てくるが、それも食堂ではなくて談話室だった。

 そう思っての発言。

 ココは肩をすくめる。だって、消去法ではそれしかないでしょう、そう言いながら。

「脚本家の友達とか・・・酔っ払って帰ってきた時に拾った、道に落ちてたハンカチとかじゃねーの?それか・・・飯田さんとか。何してる人かイマイチ判らないけど、あの人の知り合いの女だとかさ」

「皆、同じことを他の人に思ってるのよ。私の客かも、とか、あなたが店から持ち帰ったのかも、とかね」

 チラリとこっちをみたココの目が気になった。俺は何故かむきになって言い切る。

「俺は知らない」

「そう。じゃあ、やっぱりノアかもね」

 彼女は化粧の続きを始める。俺もここ2日食堂には顔を出してないから、そんなハンカチは見たことがない。何だろう、一体。

 ココには何も告げず、部屋を出て2階へ降りる。

 久しぶりに開けた食堂のドアの向こうには、占い師とお嬢さんがいた。

「───────あ、どうも」

 ちょっと驚いて俺はそう言った。占い師は軽く会釈をし、お嬢さんはこんにちは、と微笑む。彼女達の前にはお菓子の包み紙と綺麗なお茶のセット。二人で午後のお茶をしていたらしい。

 占い師の隣にあるのが、例のハンカチか。そう思って、俺は近づいた。

「これが、誰のか判らないハンカチですか?」

 誰ともになく聞くと、二人の女性から返事があった。はい、と聞こえる。

 薄汚れて皺皺のベージュ色のハンカチ。赤い文字で刺繍。R・・・・?思いつかないな。

 俺は微かに首を振った。

「知らない。やっぱり俺には関係ないな」

 手に顎を乗っけて、占い師がたら〜っと聞いた。

「あら、関係あるかもと思って見にきたの?」

 お嬢さんもこちらを見上げる。俺はハンカチを元の場所に落とし、首を振った。

「いえ、彼女が、あなたは知らない?ってさっき聞くものだから。大体そのハンカチを見てすらいないぞ、と思って」

 ふーん、と呟いて、占い師が言った。

「じゃあやっぱりノアのかしらねえ・・・。とりあえず、関係ないならそれ、あまり触らないほうがいいわよ。アンラッキーがひっついてくるかも」

 え。占い師がそれを言うなよ、マジで気持ち悪い。そう思って、俺は手を洗いに流しへ行く。

「ノアさんに、聞いてみるべきでしょうね。いつまでもここにあるとお食事の時に気になりますから」

 お嬢さんがそう言っているのが聞こえた。

 ノア・・・、本当、相当に変わってるここの住人の中でも、あの男が一番正体不明だな。年齢も何もかもが不詳だ。ただ、ここの管理人だって男。

「出勤なんで。失礼します」

 そう言うと、二人にいってらっしゃいと言われた。俺は暗くて色んなところにヒビがある鉄筋コンクリート打ちっぱなしの廊下を歩く。

 ズボンの後に突っ込んでいるケータイが振動したのに気付いて、足元に気をつけながら階段を上がった。

 開いたケータイにはメール着信の画面。

『今晩飲みに行くぞ〜。席、予約頼む。高田のとこも来るから、それぞれ妻帯で4人分ね』

 そうメールを寄越したのは悪友の平林。俺は一度舌打ちをして、それから思いなおして肩を竦めた。

 気持ち悪いハンカチについて考えるよりも、奴らと飲んで話している方が楽しいに決まってる。それに、あの無愛想男高田が惚れた奥さんって女性のことも、会うのを楽しみにしていたのだ。バツ1で年上って聞いた時にはぶっ飛んだ。大丈夫か、高田!?と心配したけど、平林がいつもの笑顔で言ったのだった。

 彼女は、素敵な女性だよ。アイツの相手がちゃんと出来るという特技をもってるし、って。

 そうなんだろうなと思ったのだ。その奥さんに、今晩やっと会えるのだ、やっぱり楽しみにしてしまう。

 年下の奥さんと再婚した平林がデレデレするのはいつものこととしても、少なくとも不快な光景ではないし。

 口元が緩むのを感じた。

 さて、あいつらをどうやってからかおうか──────────それを考えながら、俺は301号室のドアを開けた。




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