3、103号室
103号室:住人、後北葉子(うしろきた・ようこ)、「マリア」の呼び名の占い師。商売は主に電話での占いなので気が向いた時にしか外へ出ないため、ノア・ハウスの他の住人からは占い師というのは嘘で、何かヤバイ商売をしているのではないか、と思われている。
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アタシは一応女だ。
そう宣言しなければ悩んでしまうくらいに、自分の性別を思い出すような出来事がなくなってしまって早数年。
とくにここ、ノア・ハウスにうつってきてからはそんな毎日が加速しているような気がする。
勿論、それは気のせいに違いないけど。
「止めたほうがいいですよ。その彼は」
アタシはタバコを口に咥えながら、肩で挟んだ電話に話しかける。手元のテーブルの上には並んだタロット。その結果はどんな素人が見たって「良くないんだな」と判るようなカードばかりだ。
『だって!だって・・・私には彼しかいないんです、彼しか!マリアさん!もう一度占って貰えませんか?!』
すすり泣く声が聞こえないように、パッと受話器を耳から離した。お陰で火をつけそこなったタバコが口から落ちてしまった。
舌打を堪えて体を屈め、床の上からタバコを拾う。
・・・鬱陶しい。だから、無理だっての。
マリアとは、アタシの名前だ。通り名というやつで、それはアタシの職業が占い師なんてものだからである。同僚は皆もっと凝った、バカみたいな・・・いや、失礼、えーっと、本気?と聞きたくなるようなちゃらちゃらした名前をつけている。
だけどアタシはマリアにした。もう呼び名なんて何だっていいのだ。本名である、「葉子」でなければ何でも。名前を決めなきゃならない時に、目の前に教会があったのだった。そこの入口に立つ聖母マリア像をみて、そのまま名づけたわけだ。
「あのね、何で占っても結果は一緒ですよ。いいえ、何ならただ単に第3者的な見解から言ってもいいです。常識的に見て、どの方向から見ても、彼とあなたは一緒になったって幸せにはなりません」
アタシがオブラートに包んで話してやってるうちに電話を切ってよ。こうしている間にも、占い館にこの人が払う料金は上がっていくばかりなのだ。
説得は得意じゃないのに。だけど、この子は常連さんだから―――――・・・
昔は、道に机を出して辻占いをしていた。田舎の高校を何とか卒業して、希望は多少もっていたけれど夢は持たないままで、都会に出てきたのだ。同じような考えを持ったバカな男と一緒に。
ありきたりなすったもんだがあって、アタシは一人になり、特に他に何かが出来るというわけではなかったので、占いを人にしてあげることにしたのだ。占いは小さな頃から興味があって色々調べたりしていたし、歳の離れた同じ興味を持つ姉に教えて貰っていたから表面的なことはやることが出来た。
それから知人の紹介で、占い村という、商店街に占い師ばかり集めた店の中で個人ブースを開いていたことがある。
その当時に一度、お忍びで来ていた芸能人の苦悩を言い当ててしまったことがあって、彼によってアタシは占い師としての格が上がってしまった。
その後暫く忙しい日々が続いたけど、雑誌やテレビやその他のイベントなどの嵐のような目まぐるしい生活に嫌気がきて逃亡。このノア・ハウスのオーナー兼管理人であるノアという男に、橋の下で拾われたのだ。
逃げ出した後のアタシは、橋の下の段ボールハウスで寝ていた。
以前の占い師友達がそこにいたからだった。彼女は肺炎をこじらせて死んでしまったから、アタシがその後に棲みついていたのだ。
そこをある時、ボロい外見をしただるそうな男がタバコを吸いながら歩いていて、アタシは寝転がって空を見上げながら通り過ぎる彼をちらりと見た。ついでだった。たまたま視界に入ったから見てしまった、というだけの。
だけどハッとした。
その時の前髪の下の男の表情が、何と言うか、やたらと厳しいものだったのだ。
浮浪者のようななりをしている人間は、アタシを含めて、覇気のない顔をしているものだ。ぼんやりとして諦めた雰囲気があり、光のない目。だけどこの男はそうではなかった。外見は酷いけれど、内側に、凄い力を秘めているような―――――・・・・
そこで、思わず声を掛けてしまったのだ。
ちょいと、固い顔したお兄さん、占ってやるよ────────────
それがノアだった。本名なのかは知らないし、苗字があるのかも知らない。男は「ノア」とだけ名乗ったから。
以来、ここに住んでいる。一時人気者になっていた時に作っていた貯金で、5年分の家賃を前払いした。ノアは橋の下の段ボールハウスで寝ていた女がお金を持っているとは思ってなかったようで、かなりの驚きようだった。
あんたの仕事は、占い師だけ?
そう聞いたんだった。あの時くらいだ、ノアが感情丸出しにした質問をしたのは。
まあとにかく、その家賃前払いでほとんど金がなくなったので、もう一度占い師の協会に登録して、電話による占いをして食い扶持を稼いでいる現在なのだ。
『そんな!マリアさんっ!』
電話の向こうでお客である女の子が喚き散らす。
「泣いたってダメだよ。その彼についていったらいずれ売春させられて病気になって捨てられるだけだね。それでもいいなら止めやしないけど、あんたは幸せになりたいんでしょ?いい?占いはアドバイスなんだよ。聞くもきかないもあんた次第。だけど、本気で幸せになりたいならその男はやめときなって」
アタシはもう一度タバコを咥えてからそう言う。
くすんくすんとすすり泣きが聞こえていたけど、やがてガチャンと音を立てて電話は切れた。
やれやれ・・・アタシは受話器を戻して肩をぐるぐると回す。あー、疲れるわ、あんな電話は。
何か、お腹すいたな。ちょっと食堂にでもいこうかな。誰かの何か、余ってるかも・・・。
立ち上がって鍵を持ち、部屋を出る。
6畳一間の103号室、アタシは大変気に入っている。入ったその日に壁も天井も濃い青色に塗ってやった。そこに万年床を作って、毎日茶色の毛布に包まって眠っている。あるのは、布団とストーブと扇風機、それに手相や星の辞典、資料だけ。ここはアタシの、アタシ一人だけの楽園だ。
手入れのされていない階段を慎重に上る。以前ここで足を踏み外した住人がいたのだった。確かその男は3階の住人で、その時彼が滑り落ちて腰を打ったときも、ノアは平然としていたな。管理人のくせに、管理をしないのだ。ふらっと現れるけど、いつもこの建物にいるわけではないみたいだし・・・ホント、謎だよ、あの男。
それ以来、アタシは暇なら階段にいる。誰かの事故を防げるかもしれないから。身を挺して庇うことなど出来ないけれど、声で注意を促すことは出来る。階段でタロットで遊び、通り過ぎる住人に声をかけたりしていた。
「あら、マリアさん。こんにちは」
談話室のドアを開けると303号室のお嬢さんがいた。今日もシルクのシャツをきっちりと着て、やたらといい姿勢でソファーに座って本を読んでいる。人形のような艶のある黒髪は、一筋たりとも乱れがなかった。
このお嬢さんも正体不明だよね。一体ここで、何してんだか。
アタシは軽く手を振って口を開いた。
「こんにちは。何か食べ物ないかと思って、上がってきたんだけど」
「あら。宜しければ、私の焼き菓子をお召し上がりになりますか?家のものが送ってきましたので」
お嬢さん、ええと・・・あ、そうだ、白石さんはそう言って微笑み、食堂へ通じるドアを開ける。アタシはフラフラとついて行った。
彼女が自分の棚をあけて白くて綺麗な箱を取り出し、その中からマドレーヌやフィナンシェを摘み上げるのを見ていた。
うひゃ、美味しそう・・・。
長テーブルに座って餌を与えられるペット宜しく待っていると、テーブルの端の方に何かがあるのを見つけた。
くるりと振り返ってじいっと見詰めると、それはハンカチのようだった。
「あら、誰かの忘れ物?」
基本的にはこの長テーブルは食事をするためのものなので、個人のものを置くのは禁止されていた。誰か、忘れて行ったのだろうか、そう思ったのだ。
するとお茶の用意をのんびりとしているお嬢さんが、顔を上げた。
「マリアさんのものではないのですか?あのハンカチ」
「へ?」
アタシは驚いて顔を上げる。そこには困惑した表情のお嬢さんが。
「違うわよ。大体、アタシがハンカチなんてもつと思う?」
そう言うと苦笑している。その口元に手を添える仕草までが、一々上品だった。
「皆様が、そう話してらっしゃったので。ではどなたのものでしょうか。昨日からずっとここにあるようですから」
「あら、そうなの?」
アタシは指で摘んでハンカチを引き寄せる。・・・これ、血のあとじゃあないのかしら。思わず眉間に皺が寄った。
今では汚いボロボロのハンカチだが、元はつくりは良かったらしい。赤い糸で小さな刺繍も入っている。
「脚本家さんあたりが連れ込んだ女のってことはないのー?」
アタシがそう言うと、お嬢さんは首を傾げる。
「それはどうでしょうか。ここ最近、どなた様もご友人をお連れしてらっしゃらないですから・・・」
お茶、出来ましたよ、そう言ってお嬢さんが目の前にお菓子と紅茶を出してくれる。紅くていい香りがする液体が入っているのは白いボーンチャイナ。アタシにはとんと縁のないものだ。
「ありがとねえ」
お礼を言って、口をつける。何の種類かは知らないが、それはとてもいい香りがした。
「どなたのでしょうかねえ・・・。お洗濯しても構わないのでしたら、私がするのですけれど」
お嬢さんが困った顔のままでハンカチを見詰めている。
アタシはヒラヒラと片手を振った。
「いいじゃないの、放っておきなさいよ。これ、何かちょっと悲しい感じのするハンカチだしさ。関わらないのが一番だよ」
横目でそっとそれを見た。アタシには霊感なんてもんはありゃしない。だけども、随分長い間人の悩みを聞き、顔を見て、その手を触ってきた経験から、禍々しいもの、何か暗いものには敏感になってきたようだった。
このハンカチは、そんな感じがする。
誰かが酷く悲しんで泣いた、その涙をすい、血を流した、その血を吸い取ったような感覚だ。
お嬢さんは、少しだけ考えたあと、静かに頷いた。
「そうしましょう」
しばらく二人で黙って茶菓子を食べていたら、そういえば、マリアさん、とお嬢さんが口を開く。
「失礼ですけれど、マリアさんはおいくつでいらっしゃるのですか?私は人様をそのご様子から判断するのがとても不得手なものですから」
その言い方に、アタシは苦笑した。
「いくつに見える?」
「・・・あら、困りました。ええと・・・そうですね」
本当に困っている様子のお嬢さんを見ていたら、アタシはふと正直に答えたくなった。煙に巻いて逃げようかって思っていたのだけれど、本当は。
「・・・実の所、自分でも覚えてないんだよ。そろそろ40代の後半・・・だとは思うんだけどさ」
「お誕生日を忘れてしまったのですか?」
不思議そうにそう聞くお嬢さんに、アタシは苦笑した。
「うーん、いやあ、誕生日ってーか・・・生年月日、だよね。もうずっとバタバタとその時限りの生き方をしてきて、毎日は同じことばかりで、気がついたらもうこんなに年月経ってるよ、みたいなね。季節だって気にしないし。変な話だよね、お客さんの生年月日は気にするのにねえ」
「ご両親は・・・あの、こんなこと本当に失礼ですけど、ご両親はまだお元気でいらっしゃるのでしょう?」
アタシは笑って視線を外した。
「知らないね。17の時に家を出てから会ってないし、それに・・・家へ帰る道すら、もう覚えてないんだよ」
お嬢さんはそうですか、と返事をして睫毛を伏せてお茶を飲む。その綺麗な俯いた顔をじっと見ていた。
・・・自分が、金持ちだったら・・・そう考えたことがない人はいないと思う。
自分が、綺麗だったら。もっと背が高かったら。もっと目が大きければ、口がうまければ。もっと、もっと、あそこが──────────。欲は限りなく、未来はいつでも果てしないほどに遠く感じていた。
だけど、今のこの道だって、結局はアタシが選んだ道なのだ。
一度有名になって人生はそっから上り坂になっていくかもしれなかったのに、そこから逃げ出したのはアタシ。
もう実家にも戻れなくなったアタシは、ここでまたタバコを吸って人の未来を占っていくんだろう。
たまに例外はあれど、基本的には明るいことしか言わない。正直に出た結果を伝えてりゃ商売になんかならない。目の前の椅子に座る人の手の平を読み、星を読む。そうして希望をもてるように伝えていく。その人の未来が繋がっていくように。
自分のことなんか、何一つ判らないままで。
「ご馳走様。こんな美味しいもの、久しぶりに食べたよ、ありがとね」
そう言うと、お嬢さんはニコニコと微笑んだ。
食堂にある大きな窓の向こうには、晴れ上がった青空が広がっている。
アタシはその空に浮かぶ一つだけの雲を目で追いながら、それもまあ、変わってていいかもね・・・などと思っ
ていた。
流れるように生きて、いつかそのまま消えていく。
そんな人生も、アタシらしいかって。
少しだけ、微笑んだ。
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