2、102号室



 102号室:住人、麻生マナミ、中小企業の総務に勤めるOL。ノア・ハウス歴は3ヶ月。ここ数年いなかった新入り。



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 ここ、奇妙なシェア・ハウスを教えてくれたのは、もと絵描きだったハトコだった。

『行くとこないなら、あそこはお勧めだよ』

 そう言って彼は笑う。俺の先輩が住んでたんだけど、結婚で出て行った彼が使っていた部屋が、まだ空いてるはずだから、そう言って。

『何度か遊びにいったけど、色々面白いところだった。でも居心地が妙にいいんだよな』

「シェア・ハウス?それって何?」

 今ではあまり珍しくないらしいそんな横文字も、当時の私には聞き慣れない単語だったのだ。ハトコは電話の向こうで、ちょっと考えながら答える。


『・・・まあ、寮みたいな感じだよ。台所とか洗面とかは共有で、各自には部屋がある。寂しいときには談話室で誰かと話せばいいし、一人がよければ部屋に引っ込んでればいいんだ』

 ふーん、と思った。ちょっと面白そう、そういう感じだった。

 少し前の私だったら、そんな不特定多数の知らない人たちと一緒に住むなんて勘弁〜!って思っただろう。ルールとかがたくさんあって、昨日まで知らなかった人達と一つ屋根の下なんて、最悪って。

 まだ、彼とうまくいっていた頃の私なら。

 だけど、世紀の大恋愛をしたはずがお互いを見えないものにまでしてしまった6年間を過ごして、誰かと一緒に部屋にいるのに会話のない生活に、私は心底疲れていたのだ。

 話したい、私は。そう思っていた。

 遠い上に同棲を始めるときに親と喧嘩して以来の実家には帰れないからまだこの町にいる。彼との部屋からある日いきなり出てきて、その後彼がどうしたかは知らないけど、とりあえず私は暫くは安宿にいたのだ。荷物は全部貸倉庫に突っ込んで、鞄一つで路地裏の主に外国人のバックパッカーを相手にしているような宿にいた。

 そこから会社に通っていた。

 だけどやっぱり住むところを探さなきゃ、そう思って、色々情報を集めていたのだった。

「そこ、どの不動産屋に行けば話できるかな?」

 そう聞くと、3つ年上のハトコはにやりと笑って、電話番号を教えてくれたのだ。

 そこに電話しな、って。ノアって男に繋がるから、部屋空いてるか?って聞けばいいんだ。

「ノア?」

 私は顔を顰めて聞き返す。何だその名前は。もしかして、その人は外国の人なの?そう思って。

『本名は知らないよ。でも皆がそう呼んでる。そこは、ノア・ハウスっていうんだぜ』

「ふーん・・・」

 その電話番号を書いた紙を、私は一日手のひらで転がしていた。だけど、安宿に戻った時、隣の部屋のカップルの激しいアレの音や声を聞くのに心底嫌気がさして(だって暇さえあればやってるんだよ!盛りのついた動物みたいよ、ほんと)、衝動的に電話を掛けたのだ。

 一日2000円のその安宿は壁が薄すぎて、隣のカップルの立てる音が電話の向こうにも聞こえたらしい。

 自己紹介を省いてノアとかいうその男が言った最初の一言が、これだ。

『うーん、あのさあ、最中なんだったらせめて終わってから電話してくんない?』

 って。私は電話口に噛み付いた。

「この音は隣の部屋なんです!!ここからさっさと出たいんですよ、あの、そちらの部屋は空いてますかっ!?」

 電話の向こうで、ノアという人は低く笑った。で、最新の住人として住むことになったのだ。


 引越し当日、建物の前に立った私は激しく後悔した。

 だってあまりにボロで・・・。これだったら今出てきたばっかの安宿の方がマシなんじゃない?そう思うほどに。

 苔むした、蔦まではっているコンクリートの壁は薄暗く変色している。それに手を触れながら、ため息をついた。

 ・・・まあでも、音漏れはなさそうだけど、って。

 でも中に入って驚いたのだ。廊下や階段や入り口なんかは外見の通りに見事にボロボロで笑っちゃうくらいだったし、廊下は入り組んでいてまるで迷路みたいだった。極端にドアが見当たらないけれど、入口はたくさんあるこの不思議。だけど、案内された個人の部屋は普通だった。

 元カレと住んでいた2LDKの部屋くらいには、綺麗だった。

「あ・・・良かった」

 私は安心して肩の力を抜く。トイレ、簡単な洗面台、それから6畳ほどの正方形の部屋。その全てが清潔で明るく、整っていた。

 私を案内してきた管理人のノアさんは、入口で軽く笑った。

「外見でたっぷり心配した後だと、すごく綺麗に思えるでしょ?」

「わざとなんですか?外のボロボロさ加減は」

 私は振り返って聞く。すると彼は長い前髪の下で、にやりと笑った。の、だと思う。なんせ前髪が邪魔で目元がちっとも見えないから、口元でしか表情が伺えないのだ。

「まあね。外側で判断して踵を返すような‘マトモ’な人は、おもしろくないからさ。中まで入らなきゃ詳細は判らないんだ。だってほら、寝起きする場所は快適に越したことないでしょ」

 鍵、置いとくね〜、そう言ってドア横の棚にチャリンと音をたててこの部屋の鍵を置く。

「こっちが玄関の鍵ね。オートロックだから気をつけて。一応俺は管理人でもあるけれど、管理人室にいることは少ないから締め出されても苦情は受け付けない。これが部屋の鍵。家具の運びいれ、日が決まったら言ってくれる?内装は自由にどうぞ」

 簡単だった。

 私は頷いて、それで終了した。

 翌日の休日に、ノアさんに教えて貰った近場のショッピングモールへと出かけていって、一日かけて部屋を作った。彼との部屋から出た時に預けていた倉庫の自分の荷物を引き取り、ベッドだけを買ったのだ。

 各自の部屋にはベッドと机があればそれで事足りる。お風呂や台所は別にあるのだから。出費も少なくて済んで、とても助かった。

 ラグや鏡なんかを選びながら、久しぶりにワクワクした。

 そして、私はここの住人になったのだ。ノア・ハウス、102号室。

 新しい、アドレスだった。覚えるべく、私はそれを手帳に書き込む。職場にも報告しないといけない。私には新しい住所が出来たのだから。


 建物の外見で判断しないらしい、管理人曰く‘マトモ’でない住人達とはその夜に顔合わせをした。

 確かに、変わっていた。

 今まで私の周りにはいなかったような職業ばかりだった。

 隣の部屋が脚本家とミュージカルダンサーの兄弟、反対側の隣の部屋は占い師をしているらしい女性、それから3階の住人達。バーテンと歌手のカップル、サラリーマンをしているらしい男性、そしてお嬢様。お嬢様というのが職業のわけはないと思うのだが、ノアさんはさらっとそう言っただけだった。

 お嬢様と呼ばれた白石さんて女性は、市松人形みたいな、ちょっと怖いくらい整った外見の、落ち着いた女の人だった。そして超丁寧な物言い。・・・お嬢様、なのね、ハイ了解。この人が、ここでは一番の年下なのかもしれない。あとは恐らく私よりも年上の人達だ。

 そして管理人のノアさん。この人は、何と屋上に住んでいるらしい。この鉄筋コンクリート3階建ての建物の屋上に、掘っ立て小屋を建てて。

 推定年齢は30代前半の男性で、前髪で目元を隠しているから表情がよく判らない。後ろの毛も伸ばしていて、灰色のパーカーと赤いTシャツを着ている。ジーンズは裾が破れて黒ずんでいた。はいている靴はもしかして、腐っているのかもしれない。

 この人は持ち主で管理人・・・・それ以外に情報がない、一番変わった男だった。

 集まった談話室で紹介するだけ紹介して、さっさと消えてしまう。

 皆もそのままあっさりと解散したので、私に台所の決まりなどを教えてくれたのは、3階に住んでいるらしいカップルの彼女さんの方だった。平といいます、と再び名乗ってくれる。

「夜、店で歌ってるの」

 そう言って微笑む彼女が2階の共有スペースを案内してくれた。

 お風呂場、それとシャワー室。最初は迷うかもね、結構入り組んでるから。使っている時は鍵をしめて札をひっくり返してね。でないと他の人と鉢合わせするかもよ。それから洗濯室。あっちが談話室で、お嬢さんがいつでもいるわ。たまに、羽さんも・・・あ、脚本家の人よ。

 そこの階段、途中でてすりが取れてるから気をつけてね。あそこは雨漏りしてるから近づいちゃダメよ。雨の日に滑った人がいて、頭を打ったとか聞いているの。

 これが個人の棚、買い物はここへどうぞ。冷蔵庫は1階メンバーと3階メンバーで分かれてる。こっちが1階の住人用よ。出来るだけ名前を書くのをおすすめするわ。人によっては気がつかなかった〜とか言って、人のものを食べちゃうのもいるから。台所を使ったらあとは掃除すること、お風呂場もね。使ったら掃除が鉄則よ。お友達を呼ぶのは構わないわ。男でも女でも。でも、入れる前にノアにだけは伝えてね。

「ありがとうございました」

 私は彼女に頭を下げる。

 うふふ、と笑って平さんは手を振った。

「いえいえ。女性が増えて嬉しいの、ノア・ハウスへようこそ。住めば都よ、ゆっくりと人生を楽しんで」

 私は頷いた。

 人生を楽しむ。・・・そうよね、だって、その為に彼との部屋を出たのだから。

 会社を出て、私はノア・ハウスへと帰る。

 そう、帰るというのがぴったりくるような感じだった。

 あの変な人達は、家族ではない。住んで3ヶ月になるけれど、それぞれについてはまだ何も知らないのと同じだし、会話だってたくさんするわけではない。

 だけど、私は笑顔が増えていた。

 夜、暇な時は談話室へいく。そこにはお嬢さんがいて、二人でテレビを観るときがある。彼女は結構世間を知らなくて、テレビで司会が言うことがわからなくて私に質問してきたりする。それが面白かった。

 それに飽きたら食堂へ。そこでは暇な脚本家がコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいて、たまに色んなことを話す。まだ会ったことはないが、弟さんと部屋を一緒に使ってるらしい。俺達の部屋は8畳あるんだよ、と言っていた。この脚本家はちゃんとすればそれなりに格好いいと思うのに、全身に漂う倦怠感みたいなもので生まれ持った外見を台無しにしている。

 たまに、サラリーマン風の飯田さんて人とも話す。

 いつも無表情だけど、私が何かに困っている時最初に気付いてくれるのはこの人なのだ。よく周りを見ているのだろう。

 誰にでも敬語で話し、不規則な勤務時間らしい。昨日は泊まりでした・・・などと言いながらヨレヨレで帰ってきて、食堂で寝てしまっていることもある。一度起こしたら、やたらと恐縮していた。

 階段に住んでいるのかと思うくらい頻繁に階段に寝そべっている占い師の女性は、通りすがるたびに何かを言ってくる。

 だけど、その言葉はいつも優しくて、時間がある夜なんかはタロットカードを教えてくれたりする。

 私は楽しんでいた。

 外見ぼろい、このノア・ハウスを。破局して部屋を出て、世間の荒波にのまれていた私を拾い上げてくれた。

 まるでノアの箱舟みたいだ、そう思って笑えた。

 だって管理人のノアさんは、人助けが趣味には全然見えない。だけど、この鉄筋コンクリート3階建ての建物に宿るとろんとした安心感みたいな空気は、紛れもなく彼が作り出しているものに違いない。住人のほとんどから、年齢に関係なくノアと呼び捨てにされる、ここの持ち主。とても不思議な男性だ。生い立ちも、家族構成も、ここの管理以外に何をしている人なのかも判らない。だけど多分、ここの住人は全員が彼のことを気に入っている。

 今晩も、ノア・ハウスに戻ってきた。

 オートロックの玄関を開けて、私はそのままで2階の共有スペースに直行する。誰かにただいまって言いたい気分だったのだ。

「あ、麻生さん。今帰りですか?」

 台所には飯田さんがいた。同じく帰ってきたばかりらしく、ネクタイを緩めたスーツ姿だった。

 私はにっこりと笑う。

「ただ今です。晩ご飯ですか?」

「あ、はい、まあそんな感じです。今日は昼ご飯も抜きだったので」

 飯田さんはすっと視線を反らして電子レンジにお弁当らしきものを突っ込んだ。

 この人は、こうやって壁を作り出すことがよくある・・・そう思って私も距離をあける。あまり誰かと親しくなるのが苦手なタイプなのかも・・・・。だったら、ぐいぐいいっては失礼だろう。

「あら?」

 つい、声が漏れてしまった。飯田さんが、え?と振り返る。仕方なく、私は声の原因を指差した。

「飯田さんのですか?ハンカチ」

 テーブルの上、一番端っこには何てこと無いみたいにベージュの古そうなハンカチが置かれていた。実際、ちょっと不潔っぽくて嫌だったのだ。だけどこれが飯田さんのなら、申し訳ない――――――――――そう思ってたら、彼はアッサリと首を振る。

「私のではないです。女性用ですよ、あれは」

「あ、そうですか」

 まあとにかく、私には関係ないんだけど。そう思って、私は鞄を椅子の一つにおき、お湯を沸かして紅茶を淹れた。

 ティーバックを揺らしながら、何となしにハンカチを見詰める。

 ・・・何か、結構な汚さ・・・。古いのかな。ぐちゃぐちゃに置いちゃって。誰だろ。・・・占い師の人、かな?平さんは持ちそうにないし、私のじゃないし。占いのお客さんのとか?占いの結果が嫌で、ハンカチに顔押し付けて泣いたからぐしゃぐしゃなのかも―――――――――

 椅子に座り、飯田さんが黙々と晩ご飯を食べだした。

「飯田さんは、お酒などは飲まないんですか?」

 同棲していた彼は毎晩晩酌をする人だった。だから男性はすべからくお酒を飲むってイメージがあったのだ。だけど飯田さんは、ご飯に視線を落としたままで言う。

「飲みません。昔は飲んでましたけど、今は」

「あ、嫌な思い出があるとかですか?」

 ついそう出てしまった言葉だけど、すぐに私は後悔した。だって、もしかしたらアル中とかで苦労した人かもしれない。もしかしたら結婚や離婚経験もあるかもしれない。だって40代くらいなのだろうし。そしてあるかもしれないそんな黒い過去、人には、特に新参者の私には言いたくないだろうって。

 謝ろうと口を開きかけた時、相変わらず視線を落としたままで、飯田さんが呟くようにいった。

「まあ・・・そうとも言えますか」

 私はちょっと言葉に詰まって、それから鞄を持ち直す。淹れたばかりの紅茶のカップを慎重に持って、飯田さんに挨拶をする。

「・・・じゃあ、お休みなさい」

「はい、お休みなさい。今お風呂空いてるみたいですよ」

「ありがとうございます」

 にっこりと笑ったら、顔を上げた彼も少しだけ口元を緩めた。・・・あら、笑うんだ。無表情に慣れていて、いきなり笑顔を見たらキュンとするじゃあないの。

 一人でそんなことを考えながら食堂のドアを閉める。

 さあ、部屋でゆっくりしようっと。


 穴だらけでガタガタの階段を気をつけて降りていった。





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