ウェルカム・ノア・ハウス


 東京のある下町のごちゃごちゃした住宅街の奥に、蔦の絡まる古びた外見の3階建てのビルが立っている。

 装飾もなくそっけない入口横には深緑のプレートに、黒いインクの文字で「ノア・ハウス」と書いてあるのが見えた。

 インターフォンでオートロックを解除してもらい、両開きのドアを開けて入る。すぐの右手には管理人室。その小さな白い小箱のような部屋のドアはいつでもあいていて、足がにゅーっと2本、廊下へ突き出ている。

 ここにいるのは101号室の住人でもある羽 学。本業は脚本家だが、本業よりも副業の官能小説書きで生活している独身男だ。

 最近、前は一緒に住んでいた彼の弟である羽 修が、結婚してここから出、別の街へ引っ越した。

 羽は大体ここで、眼鏡をかけて本を読んでいる。今では8畳ある101号の自分の部屋よりは、ここが落ち着くらしい。住民が帰ってきたら、そこの部屋の小窓から手をヒラヒラと振って「お帰り〜」と笑う。

 弟が出て行くにあたって家賃が払えない〜と喚いていたが、それは管理人を引き受けるという条件で半額にしてもらい、今は安泰らしい。そこそこ儲かっていた副業も最近はあまりやってないようだ。彼は気楽〜に小さな管理人室でいつでもカウチ・ポテト状態。

 以前はコンクリートの打ちっぱなし風の薄暗くてあちこちボロボロだった廊下は、今は白く塗り替えられて明るく清潔で、楽しげな廊下に変わっている。

 以前の管理人が仕掛けていた水漏れやボロボロの窓枠がなくなったことで、迷路のような廊下にも住民達が好き勝手に色んなものを飾りだしていて、今ではそれぞれの部屋の前は個性を発揮する場となっている。

 例えば、101号室前には「ご意見箱」と書かれた段ボールの箱が置いてあって、それは一応管理人である羽が、住民の意見を聞こうと置いてあるらしい。だけれども、その隣に「募金箱」と書いた箱も一緒に置いてあるのだ。ちなみに、使用目的を書いていないその中に小銭が投入されたことは一度もないらしいし、ご意見箱の方には募金箱に関する質問や苦情の紙を見つけることが出来る。羽はそれを無視することに決めているようだ。

 ぐるっと角を曲がってある102号室。ドアには可愛い表札がかけられ、それにはローマ字でASOUと銀色の文字プレートが貼られている。その下には「ノックして下さい。応えるかはわかりませんが。くっくっく(笑)」との文字も見える。welcom!とかかれたドアマットの上に立つと丁度目の高さに入る場所には、「立ち入り禁止」のプレートがはってあって、用があってここにきた他の住人を戸惑わせたりしている。

 更に廊下を曲がり、103号室。ドアの前には観葉植物の鉢や室内洗濯物干しが置かれて、いつでも数枚のスポーツタオルやブラジャーなどがかけられている。管理人の羽が、ここはすぐ階段の横で住民全員が通るし、下着を干すな、景観が悪いという理由で文句をつけたところ、あんたの意味不明な募金箱よりはマシでしょ、と言い返されて完封負けしたそうだ。

 もうすぐ夜の7時で、102号室に入っている麻生マナミ、中小企業に勤める28歳独身のOLが帰ってくる。いつも近所のコンビニの袋をぶら下げていて、中身をきくと大体晩ご飯ですよ〜と笑う。ここの一番新しい住民だが、彼女がいるお陰で住民同士の交流が増えてきつつある。

 最近では彼女主催の夜の飲み会なるものも食堂で行われるし、休みの日には彼女の号令で、廊下や階段などの共有部分を住民皆で掃除を始めることもあった。ブーイングを出しつつも、他の住民達はいつも必ず参加する。

 彼女は明るく楽しそうで、ここでこのままずっと独身でもいいかな〜って考えてます、と発言している。

 廊下の端、2階へと上がる階段の横手に103号室。ここに住んでいるのは占い師の通称マリア、本名後北葉子。年齢不詳の独身。以前は一時期人気沸騰した占い師ではあったが、本人がそれに疲れて逃亡。今では電話専用に近い状態の占いで生計を立てている。

 ぼろい階段で他の住民が落ちないように見張っていたが、改装されて綺麗になってしまった今の階段ではそれをする必要もないし落ち着かないらしく、今は談話室にて皆にお嬢さんと呼ばれる住民の隣で寝転がっている姿がよく見られる。

 たまーにぎょっとするお告げをし、住民達を怖がらせては笑っている。

 階段を上がって、2階は生活の場と共有スペースだ。ここだけは複雑な廊下はなく、共有スペースを大きく取った作りになっている。

 右手からお風呂が2つ、シャワーブースが1つ、洗濯機が3つと乾燥機が2つあるランドリールーム、食堂とキッチン、それに談話室がある。

 大きなテレビが置いてあるのは談話室のみ。食堂には長テーブルとそれぞれの椅子、ぼろくて座り心地の良い緑色したソファー、マガジンラックなどがごちゃごちゃとある。

 以前の管理人で持ち主である宮内ノアがいたころは、浮浪者然とした彼の影響か、内装もえらくシンプルであったのが、ズボラは同じだけれどももう少し人間味のある羽管理人に代わってから、食堂も派手な小物が増えてきた。

  長いすの上には色鮮やかなどこかの国の織物がしかれ、誰が持ってきたのか室内プラネタリウムの機械が置かれている。

 食事の時にこれをつけてみてもいいですか、と麻生嬢が発言し、やってみたものの手元が暗くて自分が食べているものが一切見えないということで、すぐに取りやめとなった。

 ぼろくて座り心地のいいソファーは、占い師のマリアがゴミ置き場から数年前に拾ってきたものだが、最近そのソファーにカバーがかけられた。それは301号室に住む歌手の平が、勤めている店があまりに暇だったときにこつこつと手縫いをしたものらしい。それがかけられてから、彼女の恋人のバーテンダーの姿をよくソファーの上で見るようになった。正しくは、彼はソファーに座っているのではなく、寝転んでいるのだが。

 それから3階にはまた住居スペースがある。

 ここの廊下も、1階と同じで住民の個性が反映されつつあった。

 まず301号室前。ここにはカップルが住むので、二つの表札がかけられている。その下には彼女の方が作ったらしいリースが。それから、藁で編んだようなドアマットが敷かれている。ドアの横から一列に洋酒の空き瓶が並ぶのは、バーテンの方の趣味だろうか。たまに通りかかった羽が、しゃがみこんでしみじみとガラス瓶を眺めていることがある。

 それから302号室前。ここには調査会社勤務の飯田という40代前半の独身男が住む。彼の職業については他の住民はしっかりと知ってはいないが、この部屋の前にはアマチュア無線の配線箱が取り付けてあるのは皆知っている。それからドアの鍵が、3つもついているのもノア・ハウスの中ではこの部屋だけだった。

 303号室前。ここに住むのは裕福な家出身の通称「お嬢さん」。ドアはいつでも綺麗に掃除がされていて、ドアの横にはこの度棚がとりつけられ、そこにお菓子などが置いてある。一緒に置かれたメモには「家から送ってきました、宜しければお召し上がり下さい」と書かれている。

 このお菓子を有り難くつまみ食いしているのは、多い順に、羽管理人、占い師マリア、それからたまに麻生嬢だ。

 一番手前、階段横の部屋が301号室だ。ここはノア・ハウスの中でも一番広い部屋で、歌手とバーテンダーのカップルが入居している。

 前からの住人である平 香子と砥石マサルは結婚してここを出て行く気はないらしい。いつまでもカップルで、仲良くこのノア・ハウスで暮らしている。特に二人で出かけることはなく、休日は一緒に部屋にこもるのが好きなのだそうだ。

 このカップルは夜の仕事なので、帰宅するとノア・ハウスの警報センサーのスイッチを切り、また入れる役目を負っている。彼女の方は自分がドアを通った後で警報をオンにするのをよく忘れるが、それを知っている彼氏の方が毎回確認に降りていくので、今のところそれで他の住民が迷惑を蒙ったことはない。

 以前はさほど食堂を利用しなかった彼らも、最近ではよく共有スペースに顔を出している。

 隣、廊下をぐねぐねと曲がったところにあるのが302号室。ここに住む飯田は無口だ。必要なこと以外は口を開かないが、愛想が悪いというわけではなく、不思議と誰からも煙たがられてはいない。いつでも淡々と自分のことをしているが、周囲をよく見ているので他人のフォローはよくしている。間違いなく、ここノア・ハウスの中では一番の働き者である。

 規則正しい生活とは言いがたいが、朝の出勤時間はほぼ同じため、彼がいつも朝の台所でお湯を沸かしている。それをそのあとで使うのは、利用回数が多い順に、麻生嬢、羽管理人、それからお嬢さん。

 奥が303号室。住民は白石秋穂。生まれは旧家で名門、そこの4人姉妹の末娘として生まれるが、21歳で政略結婚を嫌がって家出、朝方の公園で出会った宮内ノアにそのまま持ち帰られる。

 籠の鳥と同じ状態でノア・ハウスに来たので、ここで一から生活の仕方を覚える。公共機関の乗り方、炊事、洗濯の仕方は宮内ノアが教えたもよう。当初は驚き呆れていた他の住民も、素直な態度で接する彼女に好感を抱き、「お嬢さんを庶民代表にしよう!プロジェクト」を立ち上げて皆で生活の仕方を教えた。今では、彼女は立派に家事炊事が出来るまでになっている。

 家業を手伝うことになってしまった持ち主の宮内ノアによって、ノア・ハウスの新しい経営者として任命される。彼女は実に生き生きと職務を全うしているようだ。最近は動きやすいジーンズ姿になることもあり、それを最初に目撃した麻生嬢に驚きのあまり絶叫され、恥かしさから逃亡したことがある。

 廊下のはしっこ、薄暗い場所に、屋上に上がる階段がある。その階段を上れば、アルミの薄いドアがある。外は共有の洗濯物干し場と、一番奥には掘っ立て小屋と言って間違いないような外見の小さな小屋。ここに、前管理人で持ち主である宮内ノアが、以前、寝起きしていた。

 5畳ほどの狭い小屋の中には小さな冷蔵庫と大きなベッドだけ。住民は今はいなくなってしまったが、この小屋は取り壊さないで欲しいと宮内ノアが言い残していったので、未だに存在している。

 ここは、たまに麻生さんとお嬢さんが掃除や空気の入れ替えにくる。ドアをあけ、ベッドのシーツを洗濯し、床やドアを丁寧に水拭きする。お陰で持ち主が住んでいた時よりも遥かに良い状態を保っていた。

 管理人である羽はもうちょっとまともな外見に改造してお客さん用の小屋にしてはどうか、と提案しているが、いまだ他の住民達からOKが貰えないようだ。特に歌手の平が、その点は強固に反対して皆を驚かせた。

 住民達はこの小屋を、気分が塞いだ時などに利用していた。ここにくれば、持ち主である、今は簡単には会えない身分になってしまった宮内ノアのことを思い出すからだ。

 ゆっくりとそのベッドに横たわって、彼との出会いを思い出したりする。そうやって時間を過ごし、また元気になって出て行くのだった。

 ここは東京の下町にある、名称「ノア・ハウス」。

 ちょっと変わった持ち主による、ちょっと変わった住民達のお城である。

 ここを訪れるときには社交性やおべんちゃらなどは必要ない。ただ、ありのままの自分を見せること。

 そうすれば誰だって、歓迎されるのだから。




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