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 今、やっとノア・ハウスの中に入って、自分がこんなに喜ぶとは思いもしなかった。

 ただのシェルターのはずだったのに。隠れ場所だったはずなのに。いつの間に俺は・・・。

 馴染んで、愛おしくなっていたのだろうか。


 どのような形であれ、ここと繋がっていたい、どうしても離れたくなかったので、無理やりの妥協案を採用したのだ。つまりは、オーナーとしては続けていこうって。俺はビルの所有者として繋がり、あとは白石の末姫と羽さんに任せる。

 あの羽という脚本家は、実は観察力に優れていると思っていた。自分の好みを貫くから仕事に恵まれないだけで、器としては結構大きいものがあると思っていたのだ。第一常識とやらに縛られない。俺は、その姿勢が好きだ。彼を管理人に、そうすれば、今の住人の流出を食い止めてくれるに違いない(彼の弟は別として)。

 ということは、ここがここのまま存在するってことだ。

 それから、白石の末姫。彼女が5年間で何をするかと思ってみていたら、まさか経営に興味を示すとは思わなかった。

 深夜の談話室で、その日に彼女がつけたノートを見てきた。理路整然としているし、几帳面だ。思わず唸ったほどだった。彼女は賢い。一般的な人生経験は乏しくても、物事の基本をしっかりと理解している。彼女のメモの通りに仕入れや連絡法を変えると、確かに歴然とした経費削減にもなったのだ。水道代も光熱費も、結構な額が浮いた。それは家賃の削減という形では還元しなかったけれど、俺はノア・ハウスの管理人名義で口座を新たに開設して、そこへ貯めてきた。住民達が困ったことがあったとき、ここから支払いが出来るようにと。

 それもこれからは、彼女に活用してもらう。

 彼女を経営者にすることにしたのは、我ながらうまい方法だ〜、などと思ったものだった。

 これで白石の家は、あの子を道具に出来なくなるだろう。彼女にはその覚悟が十分あるように思えたし、ちゃんとこのチャンスを掴み取るだろうと思っていた。

 拳を握り締めて真剣な顔で頷いた白石の末姫。

 それは俺に十分な満足感を与えた。

『どうぞ』

 ハッとして、閉じていた目を開ける。

 屋敷についていた。車から出ると出迎えがある。家のことをしている女性が3人、それからグループの人間が3人。それに少なからずうんざりとした。さっきのノア・ハウスの食堂と比べてしまったからだった。

 出しっぱなしの雑誌や食器、雑然とした椅子やクッション。そこにいる、彼らの笑顔や楽しそうな声。・・・ああ、既に懐かしいぜ。あそこの屋上の小部屋で眠りたい。

 重い重いため息を吐きそうになってしまった。



 玄関に進みながら我が奇妙な住民の顔を思い浮かべる。

 101号室の、脚本家とダンサーの兄弟。彼らは確か、不動産屋の前で座り込んでいたところを拾ったのだった。

 初めて東北の片田舎から出てきて、都会のルールを知らないままで、当たって砕けろを地でやり、その通りに砕けていた。簡単に見付かると思っていた住まいが見付からずに、途方にくれていたのだ。兄は出版社でのバイトが決まったばかりでまだ就業事実がない身分だったし、弟は無職だった。両親も農家で自営業だったため、保証人には適さないと門前払いをくらい、それで文句をたらふく浴びせて不動産屋に嫌がられたらしい。大きな荷物を転がして、兄弟喧嘩をしていた。

 猪突猛進だな・・・。だけど、会話を聞いているとどちらも真面目な人間だ。希望を持っていて、明るい。壁にもたれて話を聞きながらそんな感想を持ち、俺は決めたのだ。

「そちらの条件は?住むとこに何があれば即答で決める?」

 いきなり現れてそう聞いた俺に、彼らはぽかんとした顔をしてみせたのだった。そして、俺のだら〜っとした格好をしげしげと見詰めてから、兄の方が言った。「眠れたらそれでいいっす」弟もこう言った。「トイレがあればそれで」。そんなわけで、その日の夕方から兄弟でハウスに来たのだ。彼らはビックリした顔のままで、「あんたは浮浪者の外見をした神様だ〜!」と拝んでいた。あれは笑えた。

 そして102号室の麻生さん。短期間だけど前の住民だったある会社員の知り合いの従妹ということだった。話を聞きました、空いていればすぐにでも入居したいのですが!そう叫んで電話をしてきて、凄い勢いだった。あんなに早く住民に馴染むとは思わなかったけど。彼女が最初にノア・ハウスを見たときのげんなりした顔が忘れられない。だけどその場でやめるとは言わず、とにかくと中に入ってきた。

 その度胸が気に入った。

 103号室の占い師のマリア。彼女には何かバレるかもしれない、いつでもそう思って、あまり近づかないようにしていた。職業柄か、妙に感の良い女性なのだ。判ってるわよ、そういう瞳で見て笑っていることがあって、俺は正直ビビった。

 入居と同時に壁も天井もブルーに塗り、自分好みにカスタマイズ。その割には何故か階段で寝そべっている時間が長く、通る皆に声をかけるから、それを避けるためには深夜か早朝しか動けない。だから占い師が来てから、俺の生活時間はめちゃくちゃになってしまったのだ。あの人には全てを見透かされているようで落ち着かない。避けるために深夜の生活になった。

 川原で段ボールハウスから出ていた白い手が、いきなりヒラヒラと動いたときのことをまだ覚えている。

 「ちょいとお兄さん」そう言ったのだ。ねえ、あんた、どうしてそんな険しい顔をしてるの?って。化粧のない白い顔で、何が面白いのか笑っていた。あんた、えらく張り詰めてるのねえって。俺は黙って彼女を見下ろした。

「だけどまだ、何も諦めてないのね」

 彼女がそう言って俺を見上げ、何も言えなくなったのだ。不思議な気分だった。それに、面白いかもしれない、そう思って、そのまま拾って、ハウスへ持ち帰ったんだった。自分では、猫を拾った気分だったのだ。だから無償でいいと思っていた。出て行きたいというまでは居てもいい、そう言うつもりで。なのに彼女はハウスへつくと、中を見回って、気に入ったわ、と呟いて、ポンと金を寄越した。これで、何年住める?と聞いて。まさか金を持っているとは予想しなくて、本気で驚いた。

 それから・・・301号室の平さん。歌手で、飲み屋で知り合った。小さな屋台、露天のような居酒屋で、お互いに一人客だった。俺の隣に座っていて、ずっと鍋を食べていたのだ。一人で食べても美味しくないのよ、一緒にいかがですか?そう言って、よく誘ってくれた。ちょっと甘い声の、綺麗な人だな、そう思っていた。いつでもどこかぼんやりしていて、その細い体にベーシュのショールを巻きつけていた。

 何回目かの遭遇で、彼女が育ての父親と住んでいて、肩身が狭くて苦しんでいるということが判った。じゃあ、俺のビルに来て見る?部屋なら空いてるよ、そう言うと、そうしようかな、と呟いた。どちらかと言えば、無口な女性だ。だけど話が決まって連れだって帰るとき、彼女が夜道で歌ったのだった。

「いい気分だから、歌わせてね」

 そう言って笑って。それは日本の童謡で、小さな頃俺の母親がよく歌ってくれたものだった。

 鼻歌まじりで、小さな声で。だけど、強烈に懐かしかったし、素晴らしかった。俺は弱いところをいきなりつかれた格好になり、実のところ、暗闇の中で、ちょっと泣いてしまったのだった。平さんはその後102号室へ入った。

 彼女が2年後に連れてきたバーテンの男、砥石マサル。彼はいつでも世間に対して膨れたような顔をしていた。だけど、平さんのことを見るときには、表情ががらりと変わるのだ。優しくて、柔らかい表情になる。それが見たくて、一緒に住めば、と勧めたのだった。育ちと環境のせいで、俺は幸せなカップルをあまり見たことがない。だから俺にとって彼らは憧れの対象でもあったのだ。

 一人の男と一人の女が、愛情を溢れさせながら寄り添って住むところが見たかった。信頼していて、穏やかでも絶対的な愛情がある。

 それは俺の好みだったけど、他の住民からの苦情は出たことがないからそれは有難い。二人は静かなカップルだった。





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