・再び303号室


 ようやくここの持ち主である、ノアさんが帰っていらっしゃいました。

 それはいつものように皆さんが思い思いに過ごされていた夜のことで、いきなりドアを開けた身なりの立派な方が、ノアさんの声で話しだしたのです。

 本当に驚きました。皆さんはひたすら叫んでいらっしゃったし、やはり驚かれたようですね。

 だってあまりに違いが。

 前にノアさんが召してらっしゃったものは裾の方が破れ、布は殆ど腐りかけておりました。控えめに言っても一般人には見えない身なりをしてらっしゃったのです。それが、現れたときの格好はこれからまるで夜会にいらっしゃるのかと思うような装いだったのです。

 お父様が着るようなスーツでした。

 よい姿勢、柔らかい物腰。以前のノアさんとは大違いなその全てに、本当に目を見張りました。

 急に帰ってきた割りにはノアさん特有のマイペースな話し方で、あっさりその場を掌握されてしまい、気付けば私は経営者として受け入れられることになっておりました。

 正直に申せば、不安でした。

 だって社会経験などないに等しく、公共機関の乗り物に乗って外出し、自分で買い物をすることに漸く慣れてきたばかりの私に、何が出来るでしょうか。だけれども、ノアさんはちゃんとみてらっしゃったのですね。

 私が、ここの経営に関する資料を読み込んで、自分ならどうするかのシミュレーションをしていたことを。

 このビルには監視カメラなどが仕掛けてあったんだよ、と笑って仰ったので、その時に、ああ、と思ったのです。では、見てらっしゃったのだなと。

 談話室にはいつもほとんど私以外の方はいらっしゃらなかったのに、どうしてノアさんは知っているのだろうと思ったのです。カメラは入口と屋上だけだよと仰ったときに、ノアさんは私の方を見て微笑まれました。

 ただし。そう言いたかったのだなと思いました。

 ただし、君がしていたことは、ちゃんと知っているって─────────────

 実際に、私はいつでも談話室にある各種ノートや数々の電話番号、数字などを見て、うつし、考えてきました。この規模のビルで常時人間が7人生活していてかかる電気代、水道代。一年に一度入る水場のお掃除サービス。いつどのくらいかかるのかの記録をとって、会社を変えたりこの設備にしたりすればもっと効率が上がるだろう、そのようなことを。ノートに書き、比較し、一番良いと思われることをまとめたりしていました。それがノアさんにはわかっていたようです。

 去る前のノアさんに、飯田さんがあのハンカチのことをお尋ねになりました。皆様ハッとした表情でいました。忘れたくても忘れることなど出来ない、血のついたハンカチ。

 あの夕方、屋上のノアさんの小屋のドア前で、厳しい雰囲気になったノアさん。

 握り締めるように掴んだハンカチをじっと見ていらっしゃった。

 私は怯え、ノアさんはドアを閉めました。そして翌日には、ここからいなくなってしまったのでした。

 あのハンカチは、ノアさんの妹さんの物だったようです。まだ若くして殺されてしまった妹さん。さらりと話してらっしゃいましたけれど、ノアさんが受けたショックはわかるような気がしました。

 その為に日本に来たって。それは、ノアさんと出会うことが出来た私にとって、紛れもなく素晴らしいことでしたけれど、大きな悲しみがあったようです。

 ノアさんが食堂から出て行って、皆さんがそれぞれの生活に戻られたあと、私も自室へ戻りました。私がここの雇われ経営者になるということに、他のどなたからも反対が出なかったことに驚きました。そしてじんわりと嬉しくなったのです。

 私も、少しは認められたのかしら、と。

 だから暫く考えて、自分からはかけたことのない実家の電話番号を押したのです。

 実家から届く物や、嫁いでいった姉達からの手紙には、手紙でお礼を申しておりました。電話を使うのは本当に久しぶりです。家にかけて、誰が出るでしょうか。父は今、家にいるのでしょうか・・・。

 緊張して手の平が汗ばみました。だけど深呼吸をして、大丈夫と自分に言い聞かせます。

 これは、ノアさんが私にくれたチャンスなのです。白石家から出るには、もう、今しかないってことですから。深呼吸をして、通話に切り替わるのを待ちます。

 コール4回で受話器が上がりました。つい早口になりそうなのをぐっと抑えて、私は口を開きました。

「こちらは秋穂です。──────そうですね、久しぶりです。お父様はお帰りになってますか?」

 家のことをしてくれている谷川というものが出たので、私は小声になりましたがそう言いました。珍しいことに父は家にいるようです。これもきっと神様の采配。応援してくれているのだと思って、頑張らなくては。保留の音楽をききながら、私は待ちました。

 恐らく、母が父に何か言っているのでしょう。不自然なこの間は。じんわりと噴出してくる冷や汗を気にしないようにつとめていました。

『秋穂か。久しぶりだな』

 父が出ました。私は軽く息を吸い込んで、電話に添えていた手に力をこめました。

「お久しぶりです。お変わりはないですか?」

『何か用なら言いなさい。必要なものがあるなら谷川に直接─────』

「いいえ、何も要りません」

 そうではないとイライラしてしまい、生まれて初めて、父の言葉を遮りました。ハッとしましたが、ここでめげては
いけません。私は壁の一点を凝視したままで、言葉をつなぎました。

「お父様、私は宮内ノア様のもとで、ビルの賃貸経営をすることになりました。頂いたお仕事を達成することが、何よりも大切であると思います。保留したままの結婚話はお断りして下さい。秋穂は─────────」

 ぐっと唾を飲み込みました。

「・・・一人の社会人として、邁進して参ります」

 電話の向こうは沈黙が広がっています。汗ばんだ手の中で、受話器が滑り落ちるようでした。

 しばらくして、お父様の低い声が聞こえました。

『よく、判った。白石家としてのバックアップは望むな。失敗は恥だ。お前にもう戻る場所はない、それを理解してやりなさい』

「畏まりました」

 すぐに電話は切れてしまいました。

 私はほお、っと体中から息を零しました。視界が曇ってユラユラ揺れています。

「・・・あら、まあ」

 呟いた声はかすれていて、なんとも頼りない状態でした。だけど仕方ありません。だって・・・だって、ついに私は自由を手に入れたのですから。

 自由・・・自由とは違うかもしれません。むしろ──────────一人の人間としての、尊厳を手にしたのです。

 貰った言葉は厳しいもので、白石家のものとは認めない、そのように受け取れました。だけどその言葉を父から引き出せるようになった、それが喜びでした。

 カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいました。私はそのぼんやりとした明りをじっと見詰め、放心していたのです。

 これからは、私の体で、私の足で、この手で、自分で進んでいく。

 それは恐ろしくも美しくも感じる未来予想図でした。

 だけど、何とか微笑みを作りました。


 笑顔で、始めたい。それは私の、最初の一歩として永遠に刻まれる光景なのですから──────────





[ 16/21 ]


[目次へ]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -