・再び302号室



 一体全体、どうして野口さんがここに出てくるんだ?

 俺はたまらずに廊下で立ち止まって思わず考えこんでしまった。・・・だって、やっと戻ってきた管理人、宮内ノ
アの口から、うちの所長の恋人(と言ってもいいのだろうか・・・いいよな、多分)かつ懐刀である女スリ師の野口薫その人の名前が出てくるなんぞ、お釈迦様でも思うまい。

 混乱した。何がどう、どこで繋がっているのかが一向に判らない世界だ。管理人のことを知っていて俺をここに住まわせたようには思えなかったのだが。ただの知り合い、その程度だと思っていたけれど、ノアさんの複雑な家庭事情も、もしかしたら所長は知っているのか?

 眉間に皺を寄せたままで自室のドアを開ける。

 最後に見た、えらく立派な身なりになったノアさんの、面白そうな表情が気にかかった。口元をきゅっと上げた、悪戯を仕掛けたようなあの顔・・・何だか馴染み深いぞ、と思ったら、俺をこの世界に引っ張り込んだ男、桑谷さんがよくしていた表情に似ているのだ、と気がついた。

 ああ、確かに、桑谷さんはよくあんな、子供が悪戯を企んだかのような楽しそうな顔をしていた。

 どうなるかを予想して、笑みを隠し切れないという顔。

 今まで長い前髪に隠された目元のせいで、何を考えているのかどんな表情なのかが全く判らない男だったノアさんは、マトモな大人の男になって戻ってきた。会話の流れから一瞬ここを出ていかなきゃならないのかと思ったけど、どうやら自分はこことの係わりを薄くするってだけの決着になったみたいでホッとしたのだ。

 俺だって他の住人達と同じだ。

 ここを出て、行きたいところなんてないのだから。

 出ていけといわれたら恐らく、淡々と準備をするだろう。仕方ないと肩を竦めて新しい部屋を俺は探す。だけど、きっと心底がっかりしているはずだ。ここは驚くほど居心地のよい住まいだったから。

 最初は確かに面倒臭いかもと思った住民同士の交流も、ここでは構えることなく気楽でいられる。自分がこんなに自然にシェア・ハウスに溶け込んだことに、俺が一番驚いているのだ。

 誰かとご飯を食べたり、体調の話をしたりするとは。

 とにかくまだここに居られることがわかって良かった。俺は気分よくお風呂に浸かり、新しく管理人に任命された101号室の羽さん兄の方と洗面所ですれ違う。

「お風呂お先です」

 俺がそう言うと、はいはーい!さっぱりしましたかあ〜!?とラリってるかのような返事が来た。

「・・・まだまだ元気ですね」

 夜も遅いのに。ちょっと驚いてそういうと、彼はにやりと大きく笑う。

 弟さんが結婚するとかで出ていくらしく、部屋が広く使える上に家賃が半額!と大変喜んでいたけれど、そのテンションがまだ持続しているらしい。無難によかったですね、とだけ言っておく。彼に何かして貰おうとは、ここの誰も思ってないに違いない。ただここを、今まで通りに維持してくれればそれでいいのだ。

 あのベージュの汚れたハンカチが、実際殺された女性のものだと判ってやっともやもやも解消された。まさかこのビルに外国の殺し屋が侵入していたとは恐ろしい話だが、誰も危害は加えられてはいないし、それがあってノアさんは言いなりになったのだろうと今なら判る。あの急な旅立ちは、きっと、ここの住民の為でもあったのだろう。

 とにかく、終わったことならそれでよし。ノアという管理人の背後にある何やら大きな話も面白そうではあるが、とりあえずは俺には関係ない。それにわざわざ危ないことに頭を突っ込むことはしてはいけない。金も殺人も絡むような話は、どこか遠くから見詰めるだけに限る。

 そうだ。

 大事なのは、まだ、ここに住めるってこと──────────


 翌朝。出勤してきた上司、滝本所長にさっそく俺は伝言をつたえることにした。忘れてしまうと問題だし、自分の
目でみたくもあったのだ。

 所長の反応を。

 野口薫という女性は、良くも悪くも滝本所長にとって大切な人なのだ。彼女の名前を出して、彼がどう反応するかに興味があった、というのが、使命感よりも大きかったのは本当のところ。

「所長、おはようございます」

 来て最初に、悪魔の飲み物と呼ばれている誉田特製のドロドロのコーヒーを、滝本所長は飲む。そして書類に目を通す。今日もそうしていたから、俺は呼びながら近づいた。

「おはよう、飯田。――――どうした?」

 彼が目を上げる。本職のモデルだといっても通る外見と雰囲気。シャープな整った顔立ちに、理知的な切れ長の瞳。いつもは眼鏡の奥で三日月に細めて柔らかさを出しているそれも、事務所内では鋭く光っている時がある。それが、今だ。良い人を装っていない今の顔で眉間に皺を寄せると、うちの誉田なんかは間違いなく半泣きになる冷たさ、怖さが出る。

「昨日、宮内ノアさんが戻りました」

 おや、と呟く声。一瞬見開かれた瞳が、また薄められる。口角をひゅっと上げて読んでいた書類を置き、所長は体を俺に向ける。

「随分長く留守にしていたんだな。無事に帰ってこられたようでなによりだ。生きて──────彼は、死体ではないんだろう?」

 俺は少し首を捻る。

 どうしてノアさんが死んでいるはずって前提なんだ?命が狙われている状態だったとは昨日本人が言っていたけれど、滝本所長はどこまで知っているんだ?

 あまり表情を変えないままで、とりあえず俺は頷く。

「はい、生きています。非常にまとも・・・というか、むしろかなり綺麗な格好で戻りました」

「へえ、浮浪者然はやめたのか」

 所長の顔から厳しさが消え、他人に見せる笑顔が戻る。瞳を細めて、楽しんでいるようだ。

 ・・・やっぱり、ノアさんの実家が金持ちであるってことは知ってるんだな。俺は心の中でそう呟く。

「ノアさんから所長に伝言があります」

「伝言」

 疑問文ではなかった。どうやら滝本所長はそんなものがあるだろうと判っていたらしい。まだ、いつもの薄い笑顔のままで促した。

「・・・」

 ・・・このまま言っていいんだよな?寸前になって、俺は躊躇してしまった。だって・・・野口さん。口を開いたままで少し固まってしまう。

「飯田?」

 所長が再度促す。どうした?と語るその瞳から目を逸らさずに、俺は出来るだけ淡々と言った。

「─────────野口薫の右太ももには5cmの縫いあとがある。以上です」

「――――」

 俺が言い切った後の滝本所長は、控えめに言って固まっていた。正確に言うと────────絶句しているようだった。

 ・・・驚いてる、よな、これ。

 沈着冷静で用意周到で頭の回転がやたらと速い滝本所長が驚くことは、滅多にないと言っていい。それも、部下である俺達の前で言葉を失うなどは5,6年に1回あるかないかってほどであろう。だけど、俺は今そのレアな場面に居合わせた、らしい。

 事務所の中にいる優秀な事務員の湯浅さんが所長の態度に気がついたらしく、電話をしながら視線をこちらに向けたのが判った。ま、そりゃそうだろうな。今、確実に所内の空気が冷え込んだもんな。マイナス5度くらいは、急速に。鈍い誉田は気がついてなさそうだけど。

「・・・」

「所長?」

 相変わらず言葉が出ないらしい上司の顔を覗き込む。眼鏡の奥で素早く何度か瞬きをしたあと、微妙な間をあけて、滝本所長が咳払いをした。そして、もういつもの雰囲気に戻って俺に言う。

「────────わかった、ありがとう、飯田」

「・・・はい」

 それで?と聞きたかった。それで、本当にあるんですか、野口さんの太ももには傷跡が?一体どういう意味なんですか?ノアさんとはどういう知り合いで?

 だけども、そんなことを口にする勇気が俺にはなかったし、既に所長は書類に目を戻していて、その頑とした雰囲気は俺に質問するチャンスを与えてくれそうになかった。絶対にこれ以上の会話はしない、そう、所長の体から立ち上る冷気が告げている。

 不機嫌なようには見えないが、機嫌が良さそうにも見えない。・・・触らぬ神に祟りナシってやつかな。

 仕方ない。俺はすぐに諦める。そして背中に湯浅さんの視線を感じながら、自分の仕事に戻った。

 だけど──────────

 時計を見るふりをして、ちらりと滝本所長に目をやる。

 ・・・・宮内ノア。一体どういう人物で、滝本所長とどういった関係があるのか、調べてみせるぞ。調べだしてやる、絶対に。


 銀行の上司に仕返しをして以来長らく目的をもたなかった俺に、新たな目標が生まれた瞬間だった。





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