・再び301号室
ここの経営者で管理人のノアという男がしばらく留守にしていて、今晩いきなり戻ってきた。
季節はもう初夏へ向かっていて、風の気持ちいい晩だった。
俺は店が休みの日でたまたまノア・ハウスで夜を過ごしていたのだ。ココは仕事だったし部屋にはテレビもないから、正直暇だった。だけどもいらないときは連絡してくる平林と高田も、最近は家庭がそれぞれ忙しいらしく、俺にむやみに絡んでくることが少なくなっている。
そんなわけで、部屋でだらだと雑誌を読んでいた俺は、ノアが突然戻ってきてから衝撃的な話をするのを、全部ライブで聴くことが出来たのだった。
驚いた。まさか、いつでも浮浪者みたいな薄汚い格好した無口で正体不明のノアが、金持ちの息子で、命を狙われるから世間から隠れるためにビルのオーナーをしていただなんて、思わなかったのだ。
・・・・だって、「ノア・ハウス」って・・・。隠れてねーじゃん、と思ったのは俺だけじゃないはずだ。命を狙われるのに自分の名前をつけちゃっていいのか?それは大丈夫なのか?
まあ皆、そんなことはどうでもいいと思っているようだった。一番大事なのは、まだこれからもここに住めるかどうかってことだ。
それは俺にとっても大事なことだ。だってここは、俺とココの「愛の巣」なんだから───────────
「ちょっと待ってください」
飯田氏がそう言って、出て行こうとしていたノアの足を止めた。
皆まだ若干の混乱状態にいて、飯田氏が何を言い出すのだろうかって顔をしていた。麻生さんなんか口が開けっ放しだ。机の上に置かれた今晩の晩ご飯らしい袋の中身は、冷め切ってしまっているだろう。
ノアが無言で飯田氏に向き直る。お互いに無表情で、腹を探りあっているような感じだった。
「──────半年前の・・・あのハンカチについて、教えてください」
ハッとした。
そこにいる全員が、一瞬呼吸を止めたようだった。
すっかり忘れていたのだ。あの、ハンカチだ!ベージュ色の、血か何か、真っ黒の汚れが隅にこびりついた、あのハンカチを。
「・・・そうそう、そういえば、あのハンカチってノアのだったのー?」
占い師の女性がのんびりといった風情で聞く。一時、あのハンカチはここノア・ハウス最大の謎だったのだ。普段はあまり話さない住人同士が同じ疑問を共有した珍しい期間でもあった。
いつの間にか食堂の長テーブルの上に置かれていた血のついたハンカチ。そもそもこの食堂には住民以外は入れないってことになっているから、誰のものでもない、とお互いが確認したあとに残ったのは謎だけだった。ノアにもっていって、それを彼が預かって――――――それから、話が消えてしまっている。
ノアは少しため息を吐いたようだった。それから、飯田氏を見て言った。
「・・・あれは、俺の腹違いの妹のものです。俺を脅すための道具として、家のもの────まあ、人殺しも厭わないおっかない男なんですけど、そいつがここに忍び込んでおいたらしいです」
あら・・・。そう、占い師が呟いた。
「脅す?」
「そう。次は俺の番だぞって意味でしょうね。あいつは腹違いの姉妹を殺しまくりましたから」
腹の底からぞっとする話だった。
皆も顔が引きつっている。いつもはぎゃあぎゃあ煩い101号室の羽さんも、絶句しているように見えた。
今晩は、驚きすぎて感覚が麻痺しているみたいだ。ちょっと頭痛がして俺は頭をおさえる。腹違いの妹?そりゃあ、まあ、物凄く複雑な家庭で育ったらしいってことは、さっきまでの話で判ったけど。しかもなんだって?人殺しも厭わない家の者??姉妹を殺しまくった?・・・どんな家だそりゃ!!
「妹さんの、だったんですね」
飯田氏が小さく呟く。ノアは、ちらりと皆を見回して、苦笑しながら言った。
「血痕があったので皆さんを驚かせてしまったでしょう、すみませんね・・・。8年前に殺された妹のものです。次はお前だってメッセージとして受け取って、実際やつはそのつもりだったらしいんですけど、途中で色々あって最終的には俺を本国へ連れて戻れという命令になったらしくて。よかったですよ、俺も殺されなかったし、皆さんにも危険が及ばなくて」
────────なんだ、そりゃ。
混乱した頭で何とか情報を噛み砕く。・・・ええと・・・うーん、ダメだ。頭が理解を拒んでる。まあとにかく、金持ちの世界は俺には判らないってことは、ハッキリしたな!
「判りました。気になっていたんです。ありがとうございます」
飯田氏がそう言って頭を下げた。ノアはそれに気軽にいいですよ〜と答える。そうして改めて出て行こうとして、あ、と振り返った。
「そうだ、飯田さん」
「はい?」
「お宅の滝本サンに伝えて下さい。えーっと・・・野口・・・あ、『野口薫の右太ももには5cmの縫いあとがある』って」
──────────は??
飯田氏とノアは二人でわけの判らない話をしている。・・・いや、飯田氏もよくは判ってないみたいな顔をしているぞ。いつでも無表情のこの男には珍しく、思いっきり怪訝な顔をして、こう言った。
「野口──────さん・・・ですか?あー・・・はい、そう、伝えます・・・」
「よろしく〜」
にっこりというよりはにやりと笑って、ノアは今度こそ、ドアの向こうへ消えた。
残された住民は皆何だかぼーっとしているようだった。
最初に動いたのは飯田氏だ。失礼します、と誰にともなく呟いて、食堂を出て行く。続いて占い師が大きく伸びをした。そして脚本家とダンサーの兄弟が、お互いに顔を見合わせた後で晩ご飯の相談をしながら立ち上がり、麻生さんがコンビニの袋を覗き込んで、あーあ、ぐちゃぐちゃ・・・と悲しんでいた。
お嬢さんはいつものように静かに談話室へと消えていく。
俺はそれを見送ってから、腰を上げた。
・・・何か、かなり濃い数十分だった・・・・。
カオスというのは、こういうことを言うのかもしれない・・・。
ココが戻るまで、そうやって自室で呆然としていた。
「大丈夫?えらくぼーっとしてるわね?」
ココが戻ったのは深夜の3時。お疲れさん、と彼女の鞄とジャケットを脱がしてやる。彼女がいない間に入った風呂の中で、ゆっくりとまとめていた俺は、今晩起こったことをかなり順序だてて話すことに成功した。
夜の為のホットミルクを台所で作って持ってきたココは、それにビスケットを浸して食べながら、慎重に聞いていた。
そしてゆっくりと微笑んだ。
「良かった。・・・じゃあ、ここを出なくてもいいってことね」
俺はつい笑う。皆やっぱりまず最初にそう思うんだな、と思って。それから彼女は小さな声で話す。ノアはそんな遠い世界の住人だったのね、それに妹さんが殺されたなんて・・・可哀想に、等々。
「どうやら妹一人ではないらしいしな。姉妹を殺しまくった、って物騒なこと言ってたぞ」
想像したらしい。ココの綺麗な顔がくしゃりを歪む。だから俺は慌てて言った。
「それに、飯田氏は一体何者なんだろうな?二人にしかわからない会話をしてるみたいだったぞ。滝本さんとか野口さんとか、知らない名前も出てたし。ココ、知ってる?」
「いえ、私は知らないわ」
ココはうふふと笑った。そして優しく俺の頬を撫でる。滑らかな肌の感触に、俺はつい、目を閉じた。そしてそのままで、優しい彼女の声を聞く。
「知らない生きている人のことは別にどうだっていいじゃないの?大切なのは─────────そう、私達が、まだここで一緒に住んで、愛し合えるってことなんだから」
それは全く、その通りだよな。
つい笑顔になって、俺はそっと、彼女を引き寄せた。
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