・再び101号室

「まだ帰ってこないの、ノアさん?」

 弟の修が開口一番言った言葉はそれだった。101号室のドアを開けて、久しぶりに会った兄との再会に「ただいま」とか「やあ」とかでなく、いきなり長期不在中の管理人のことときた。

 俺は仕事中はかけている眼鏡を押し上げて、嫌そうに入口を見た。

「・・・よお、お帰り」

「あ、ただいま。ねえ、ノアさんまだなの?」

 俺は簡単に頷く。それの返事は本当に簡単なのだ、まだ、それだけでいい。

 実際、去年の秋の終わりごろ突然「アメリカにいってきます」と言って知らない間に出て行ってしまっていたここのオーナー兼管理人である宮内ノアは、まだここノア・ハウスへ戻ってきていなかった。

 もう季節は春で、カレンダーは4月の中旬を指し、風もかなり温かくなってきていたのだった。

「半年って言ってたから、もうそろそろかなあと思ってて。俺が戻ればいるかなあと思ってたんだけどなあ〜」

 修はそう言いながら、地方公演で使っていた馬鹿でかいバッグを2つ部屋の中にけりこむ。弟は売れっ子のダンサーで、ミュージカルの仕事が入ったら2,3ヶ月帰らないことがよくあった。

 歌って踊れるイケメンとして結構ファンがついているらしい。驚くべきことだ。だけど、ヤツの通帳は俺の10倍くらいの残高があるはずだと思っている。雑誌やテレビの取材も受けているらしいし。

 まあとにかく、出来のいい弟が長期で不在なお陰で俺はこの8畳間を一人で心地よく使っているのだけれど。

 椅子の上で身を捻って俺は弟を振り返った。

「最短で半年って言ってただろ?お前、ノアに、何か用か?」

 管理人で、恐らくここの持ち主であるノアが居なくても、実際のところ住人達は困ることなどないのだ。ここは外見はぼろいけど中身はやたらと最新の設備が整った建物で、エアコンなんかも埋め込み式だしいたるところにある間接照明はえらく耐久性のいいものらしい。ノアが決めた工務店の電話番号はキッチンに貼り付けてあって、何か壊れたらここへ、との指示は受けていた。

 だけど滅多に共有スペースの物は壊れないし、ノアはあまりいない管理人だったから姿が見えないことにも違和感すらない。

 ノアがいない間も、ここの住人は皆今まで通りに思い思いの毎日を生きている。

 仕事にいき、または部屋で仕事をし、夕食を食べ、お風呂を使って眠る。話したくなったら相手を探しに談話室や食堂にいくし、最近は時間があるメンバーが食堂で一緒にお酒を飲むこともある。本当に、隣の部屋に麻生さんが入ってからえらく明るくなったのだ、ここは。

 話題になるのは、仕事のこと、会社での出来事、それから、ノアのこと。ノアに関連して出てくるのは、半年前に突然この食堂に現れて、ノアに渡したままになっている血のついたハンカチのことも。あれは、結局なんだったんだろう―――――――

 弟の修は、こっちを見て考えるような顔をした。

「・・・うーん、どうしようかって思ってることがあって。俺、ここを出て行くかも」

「はっ!?」

 俺は椅子から落ちそうになって慌てて姿勢を正した。何だって、ここから出て行く!?それで管理人に用がっ!?ちょっと待て待て待て!

「ちょっと待て!どうしてノアなんだ!?まずは同居人である俺だろう!」

 唾を飛ばしながらそう言うと、きたねえ〜と嫌そうに手を振りながら修は言った。

「仕事している成人した兄に、どうして言わなきゃなんねーんだよ。兄貴ほとんどここには一人で住んでるんだろ。すでにほとんど俺の居場所はねーじゃん」

「いやいやいや、あるだろ居場所は!ほら見ろこの立〜っ派な2段ベッドを!それに・・・それに、お前居なかったら家賃払えないぞ、俺!」

 俺の必死の叫びにあからさまな呆れた顔で、修は言った。

「・・・威張るなよ。かなり格好悪い台詞、それ」

 格好悪いとか関係ねえええええ〜っ!!俺は必死で噛みついた。だって、弟が支払っている3分の1の家賃でもないと、しがない脚本家の俺にはここの家賃を払い続けるなんて無理な芸当だ。

 だけどここ以外に、俺みたいなぐーたらで可愛い寂しがり屋の独身さんが気持ちよく暮らしていけるような場所なんてあるはずがない。えええーっ!やだぞ、ここを出ていくなんて!

「だってお前出ていってどうするの」

 一瞬パニックに陥ったけど、兄として、いや家族としてまず先に聞くことがあったなとようやく俺は気付いた。

 修はにやりとして言う。

「んー、劇団に誘われてるんだよね。そこには寮があってさ。年齢的にもいつまでもメインでダンサーばかりはやっていけないし、劇団に入るかどっかの町でダンス教室でも開くかって・・・色々考えてるとこ」

 そ、そうなのか!フラフラしている俺と違って、何て真面目なんだ、弟よ!やっぱり出来が違うんだなあ!俺は若干身を引いたけど、とりあえずと椅子から降りて、修ににじり寄った。

「いや、でもさ、そんなこと言わないでもうちょっとここに住めよ。お前飽きっぽいから、地方めぐりが性にあってるって言ってたじゃない?ダンス教室開くなら、この街にすれば?それで、ここから通うんだよ!」

「教室するならもうちょっと大きい街の駅前がいいんだよね。ここって結構奥でしょ」

「だだだだだから、駅前で教室開いてここで住めよ!」

 鞄をあけて大量の洗濯物を出しながら、修はさらっと言った。

「うん、でも結婚するかもしれないし」

「はあーっ!???」

 何だとーっ!!!ぶっとぶぞ、全く!!どうしてこいつはそんな大事なことをどんどん後出ししていくんだ!?

 俺はまたぐいぐいと近寄る。

「結婚!?結婚って、女とか!?」

 俺のその質問に、手を止めた弟は、心底嫌そうな顔をした。

「・・・俺はストレートだぞ」

「えええええ!?だってどこの誰と?劇団の人?もしかして親には挨拶済み!?」

 お兄ちゃん聞いてないっすけどおおおおおおおお〜っ!??相変わらずテキパキと荷解きをする弟を締め付けたくなる。ちょっと待って!俺は完全に蚊帳の外か?家族でしょ〜っ!??

 大量の洗濯物を腕に抱えて、修が立ち上がった。そして洗剤と一緒に洗濯籠に突っ込むと、ドアまで歩く。振り返りながら口を開けた。

「ひょんなことから出会った子と、今いいとこなんだよね。それで、その子の住んでる町に引越しも考えてる。ちゃんと決まったら、親へはまた電話するよ」

「ちょ、修────────」

 バタン。俺の鼻先でドアは閉まる。薄情な弟は、ここに住みたい兄を放り出して自分は嫁さんとラブラブの住処を作るつもりらしい!

 ・・・・・マジで?や〜・・・・ちょっとそれってば、ヘビーだぜ。


 ところが、それからのらりくらりと俺の攻撃を交わしていた弟との決着は、案外早くつくことになったのだ。

 その夜の7時半過ぎ。食堂には俺と占い師の後北さん、それと帰宅したばかりの麻生さん、隣の談話室にはお嬢さんがいた。俺が帰ってきたばかりで爆弾発言した弟のことで泣き言を垂れていて、それに占い師が辛辣に突っ込みをいれていて、麻生さんが笑いながら同情しつつ聞いてくれていた時だった。

 その時、長らく不在にしていた管理人が、帰ってきたのだ。

 ひょこっと。

 ほんとーに、ひょこっと。


「おや、久しぶりだね、皆さん」

 そんなことを言いながら、ドアを開けて。

 その場にいた全員がドアの方向を凝視した。隣の談話室からは、気配か声を聞いてお嬢さんが出てきた。そしてやはり、ドアの方をむいて固まっている。

「・・・・ノア、さん、ですか?」

 最初に口をきいたのは、やはり冷静なお嬢さんだ。入口に立つ男、やたらと立派なスーツ姿で黒髪を短く整えている落ち着いた表情の男が、ここのぐーたら管理人である宮内ノアだとは皆信じられずに、ただ凝視していた。

 その男は黒目を細めて笑い、頷いた。


「帰るの、遅くなってすみません」



「えええええええええーっ!!!!!」

 お嬢さん以外の3人が絶叫した。麻生さんは手にしていたコンビニの袋をそのまま床に落として大声を上げているし、占い師は目が飛び出そうなくらい開けていた。落ちたら見ものだと思った俺は、まだ余裕があったのかもしれない。

 俺達3人の絶叫をきいて、後のメンバーもやってくる。

 たまたま今日が休みらしいバーテンも、帰宅が早かったらしい会社員も、うちの弟も。何だ何だ、どうしたんですか?と階段をバタバタやってきては、食堂入口に佇む男を怪訝な顔で見ていた。

「・・・どちらさん?」

 バーテンダーが小声でノアを見る。

「この人、ノアだって」

 俺が指さして言うと、3人はそれぞれの表現で驚いていた。飯田氏は目を見開いて。バーテンは口をあけっぱなしにして。修はしげしげとノアを見詰めていた。

「・・・ノアさーん、実はイケメンだったんですねえ〜」

 などとバカ丸出しの台詞を言っているのは勿論うちの弟だ。恥かしいぜ。

 今までは腐りかけの靴や服を着ていたボサボサ若白髪頭のノアは、久しぶりに現れた今晩はどこぞの御曹司かってくらいの格好をしていた。

 艶がある濃紺のスーツ。爽やかなブルーのネクタイと、ピカピカの革靴。微かにいい香りまでしている。汗の匂いでなく、いい匂い!!

「本当〜に、ノア、か?」

 間違いなく?だって、スーツのポケットからハンカチ覗いてるぜ。嘘でしょ、オイ。

 俺の正直な呟きに、ノアは苦笑したようだった。今まで隠れていた目元が露になっているので、そんな表情もハッキリと判る。こいつ・・・ちょっと垂れ目だったんだなあ〜!

「皆さん入りませんか、ちょっとお話がありますので」

 ・・・口調まで丁寧になってるぞ。何となく皆黙ったままで、それでも目線はノアから離せずに、長テーブルに集まる。

 パーティー席にノアが座って、ニッコリと微笑んだ。





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