1、刺客、ウェイ・ワン


 屋上にある小屋(一応ロッジ風):住人、宮内ノア(本名ノア・ユージーン・チョウ)、ノア・ハウスの持ち主で自称管理人。その実、管理はほとんどせず、大体を住人にまかせっきりである。



*************************


 母親の夢を見た。


 二人で住んでいたスラム街の奥、小さなアパートの、二つしかない部屋の片隅にうずくまる俺。

 隣に座りながら足を伸ばした母親が、ゆっくりと俺の頭を撫でていた。

『必死に戦うことだけが全てじゃないの。・・・逃げることだって、大事な戦略よ』

 夕日が部屋を満たす中で、眠りに入りかけながら俺は聞く。

『逃げたら・・・諦めることになるんじゃないの?』

『そうじゃないわ。諦めるのと逃げるのは違うでしょう?一度体勢を立て直す必要があるときにぶつかっていったり、何もかも諦めて人生を終わらせてしまうなんてこと、バカらしいじゃない。逃げることは悪いことじゃないの』

 同じリズムで頭を撫でる。その手の平のさらさらとした感触が、どんどん眠気を誘う。瞼の裏に残るのは夕日のオレンジ色。それと、薄い壁に侵入してくる、近所の少年ギャングたちが流す荒れた音楽。

『・・・いつか、殺されるの?』

 ほとんど眠りかけながらそう問いかける。一度言葉に出してしまえば、それはこの平和な部屋の中で、ひどく滑稽に思えた。案外何でもないことのような。胸の内だけで思っていた頃には怯えていたそれが、大したことがないような事に。

 母親の柔らかい手が、頭から落ちてそっと肩を叩く。

『大丈夫よ。そんなことにはならないわ』

 狭くて、物もほとんどなかったけれど、掃き清められて清潔な、二人の家。

『大丈夫』


 あの柔らかい手は、もう、どこにもない。




 はっとして目がさめた。

 汗をかいているようで、体中が硬くこわばり、口の中に苦味を感じる。いつものように目を開けて見える範囲を見渡す。・・・ここは、俺の小屋だ。そして、そうか―――――――

 壁に取り付けた小さな棚から取った薄汚れたハンカチを握り締めて、俺は深いため息をついた。

 ・・・これのせいで、夢を見たのか。今はもうかなり遠くなってしまった昔の夢。それをおびき出したのは、このハンカチをもって白石のお嬢がやってきた朝なのだ。

『食堂においてありました』

 そう彼女は言っていた。少し怯えた目で俺を見ていたのも思い出す。きっと、知らず知らずのうちに威嚇してしまったのだろう。

 ・・・まさか、これが届くとは。

 ぼろい鉄筋の3階建て。入口は一つで、建物の外側をぐるりと窓が囲み、内側に階段やら部屋が並ぶヨーロッパスタイルの建物の屋上、そこにある更にボロボロの小屋の中、俺は寝転びながら両手を広げてハンカチを見詰める。

 R───────赤い刺繍糸でそうぬいつけられた、ベージュのハンカチは、元々もっと白かった。上質で、素晴らしい織物のハンカチだった。このハンカチを持っていた女の子も、上質な娘だったのだ。

 あの子が死んで、もう8年になる。

 このハンカチが俺の手元に届いたということは、ここが見付かったということだ。

「・・・」

 よく、想像してきた。何かしらのメッセージが俺に届いたとき、どうするかなって。どんな気持ちかなって。俺は、どんな反応をするかなって。

 だけど、まさかこんなメッセージだとは・・・。

「声も出ねえよ・・・」

 何日も洗ってないシーツからは俺の汗の匂いがする。その不快な匂いに顔をしかめて、起き上がった。

 8年か。

 ここにきて、もう8年になるのか。


 8年前、偽造パスポートで日本に来て最初にしたのが、ここを買い取ることだった。

 一目見て、そのボロさが気に入ったのだ。駅からも遠く、周囲を古い団地やこまごまとした家に囲まれた洋風のビル。ヒビが入って蔦のはった鉄筋の大きな建物。中身も見事にボロボロだったけど、バーで出会って気に入った建築家を連れてきて調査させるとまだまだ頑丈だってことだった。

 基礎もしっかりしてるし、割れてるところもない。大規模な修繕は必要ないでしょう。相当大きな地震でなかったら大丈夫ですよ、って。

 それを聞いてから、俺はキャッシュでビルを丸ごと買い取った。建築家はまだマトモだった外見の俺から判断して、大掛かりで派手なリノベーションをして投資物件にするのだろうと考えたようだった。だけど不動産投資のために買ったわけではない。俺には、体や存在そのものを隠す必要があった。日本へきてからしばらく繁華街の安宿で暮らしていたけれど、いつまでもそのままではいられない。かと言って知り合いもいない日本で、どこかで部屋を借りることも出来ない。そもそも身分証明書証がないのだ。だから自分の基地を作るべく、忘れ去られたようなビルを買い取って、手を入れたのだ。日本に来る前に母親がくれた資金はそれで殆どが消えてしまった。

 ここを、俺のシェルターにしようって思ったのだ。

 だから、外見はそんなに変えずに敢えてボロボロに見せかけたままで、中身の補修だけをすることにした。

 実は、中の壁や床や天井のヒビや割れ目は全て、無名のアーティストに絵の具で描かせた偽者。明りの足りない薄暗い廊下では本物に見えるが、あれらは全て作り物。実際はどこにも割れ目などない建物なのだ。数箇所の水漏れ場所は、壁の中に配管してわざわざそのように施している。住民達はあっさりそれに騙されてくれていて、実は壁の中にはそれだけではなく、盗聴防止センサーや赤外線の防犯センサーが仕込んであることを知らない。

 埋め込まれたカメラで出入りを監視していることとか、ビルの中ではGPSが起動しないことなども、勿論知らないのだ。

 皆ここは見た目の通りにボロビルだと思っている。ボロだから電波がつながりにくいのだろう、などと勝手に納得してくれる。それで、壊れそうなところには近づかないようにしているのだ。だから俺は安心してここに住んでいる。

 だけど、素敵な住民達の為に、移住スペースだけは最新にした。設備も見かけも新品に。シンプルで美しく、使い勝手の良い物だけを厳選して設置したのだ。ただし、それはここに住む、中に入ったことのある人間にしかわからないことだけど。

 そして、台所と食堂、談話室と風呂場を二つ、部屋を6つ作った。それぞれに部屋番号を決めて、色んなところから色んな方法で住民を集めた。広告や宣伝は一切しない。たまに元住民から話を聞きつけた不動産屋が面白い物件だから是非とお願いにくることがあるが、拒否している。住人は会ってみて、気に入らなければ俺が断る。ここには誰でも住めるわけではない。

 自ら世間と線を引いているアウトローが何人か、慎重なのが一人、マトモな社会人も一人追加して、それから金持ちのお嬢さんだ。

 白石の祖父は俺のことを知っている。実際には、俺の親父のことを知っているのだが、それでも孫を預けるには十分だったらしい。海外へのコネは多いに越したことがない。金持ちが考えることは、大体どこでも同じだとは思ってたけど、それは当たっていた。

 早朝の公園でお嬢を拾った時、白石家に連行され、俺は当主の前に引き摺り出された。嫁入り前の娘に汚点がついてしまったと、お嬢の父が憎憎しげに睨み付けるのに、俺は平然として、本名を名乗ったのだ。すると、隣の部屋には白石家の一大事になるかもしれないと来ていた祖父が座っていて、口を挟んできた。いくつかの質問をして納得したらしい祖父は、自分の息子、現当主に言った。

『ご好意に甘えるように』

 鶴の一声ってやつだ。お嬢は簡単に手放された。

 俺が困った時、いざという時には白石家の末っ子姫には盾になってもらうつもりでいた。人間の盾、もしくは逃亡の資金手段として。それは、俺の実家の事を知っている白石の家も判っているはずだ。だけど彼女の父親と話した時に、うちは子供が女ばかり4人もいる。姉達が役に立っているからあの子はいなくなっても大丈夫だと言い放ったのにむかついたから、俺としては最悪の時まで盾にする気などはなくなってしまった。

 籠の中で蝶よ花よと育てておいて立派な世間知らずに育ったところで、家の為にあっさりと犠牲にする。よくある話だったし俺には関係ないことだ。だけど、朝方の公園で疲れ切って俺の上に座ってきた彼女を見たとき、その瞳にはまだ反抗心が溢れてキラキラと光っていた。そこに諦めの感じはなかったのだ。

 だから、思わず手を差し伸べてしまった。

 俺と似たような瞳だ、そう思って。


 あの子も、ここに住むようになって顔色は明るくなったと思う。

 集められた、様々な職業、環境、立場の俺が気に入った住人たち。そこで8年間、暮らしてきた。

 ・・・でも、それももう終わりってことだな。

 ハンカチが届いた。レイチェルのハンカチが。それは過去へと遡って、次はお前の番だと俺に言う。

 次は、俺が殺される番だって。

 ・・・・どうしようかな〜・・・・。

 現実感がまだない。

 だってそうだろう?俺はここ8年一般的な日本人に混じって普通に暮らしてきた。

 ロスの生活なんぞすっかり忘れたつもりでいたし、このまま見付からないかもってちょっと淡い期待なんぞもしてみた。

 だけどやっぱり甘かったな。

 世界の張グループの探査力はバカには出来ない。


 カツン、と音が聞こえた。

 俺は苦笑して立ち上がる。・・・早えなあ〜・・・。きっと見てたのだろう、どこかで。白石のお嬢が俺にハンカチを持ってくるのを、見てたんだろう、あいつらは。それから、考える時間を与えてやったつもりでいるに違いない。

「はいはーい」

 ノックをされたわけじゃないけど返事をした。

 狭い小屋の中だ。ベッドくらいしか入ってないここでは、ほとんど一歩でことが足りる。

 そんなわけで、気配がしてから30秒ほどで、俺はドアを開けることが出来た。

 開けたドアの向こう、一人の男が立っている。

 俺はそれを、逆光に目を細めながら見詰めた。

「・・・よお、久しぶりだなあ、ウェイ・ワン」

 刺客が、微笑した。


『ようやく、見つけました』

 ワンが北京語でそう喋った。低くて掠れた声。それはこいつの母親によく似ている。

 黒い長髪が風に揺れている。いつでも後で緩く縛ってあって、黒いシャツの肩の辺りでサラサラと擦れていた。

 相変わらず機械みたいな無表情だ。こいつが笑うのは、こいつがついている本家の娘にだけだと思ってた。

 今、俺に確かに微笑を見せたけど。

「・・・お前、笑うんだなあ。冥土の土産がお前の笑顔だなんて、嬉しくないけどよ」

 俺が日本語でそう言うと、ヤツはまた無表情に戻ってじっと見た。

 ウェイ・ワンは虚勢された執事のようなものだ。

 こいつのワン家はアメリカ西海岸でとてつもない勢力を誇る、張グループの筆頭、張家に仕えて何百年という、恐ろしい家系なのだ。

 中国からアメリカへ出て最大の華僑として経済に影響を及ぼす張グループの一人娘、シンディー・チョウの教育係でボディガードで付き人。幼い頃から武道を叩き込まれている生きた殺人マシーン。アメリカにいながらにして、こいつの周囲だけは未だに何百年前の中国なのだ。

 ハンカチの持ち主、レイチェルは、8年前にこいつに殺された。

 そして次は俺だってわけ。

 今こいつがここにいるってことは────────────俺の命は今日で終わるってことに他ならない。

 ヤツはシンディーの為に動く。それだけを念頭において。それ以外に大事なことなどなく、それ以外に意思を持つことは許されない。

 ・・・くそ、マシーンめ。

 俺は入口にだらりともたれて面倒臭げに言った。

「痛いのは勘弁してくれる?」

 俺が言うと、ヤツはやっぱり北京語で返した。

『言葉を変えてください。日本語はまだほとんど判りません』

 ・・・うん、知ってたよ。だから嫌味のつもりで日本語で言ってたんだけど。でも言葉を変えたって話したいことがあるってことなのか?

 その考えにいきついて、見つけたのにすぐに俺を殺さない刺客をじーっと見た。

 ヤツは黙って立ち、待っている。

 俺はため息をついて、英語に切り替える。意地でも中国語は喋ってやらねーぞ。大体もうほとんど忘れかけている。

『・・・殺すなら、瞬殺してくれって言ったんだ。拷問されるならそこから自分で飛び降りるの選ぶからさ』

 そう言って屋上のフェンスの向こう側を指差すと、ワンも英語に直して淡々と答えた。

『あなたはまだ殺しません』

『え?』

 えええ?俺は驚いた。多分、今世紀で最大の驚きを、今体験しているはずだ。

 腰は抜けなかったけど、顎は抜けるかと思った。

『殺さない??───────じゃあ、何でここに来たんだ?』

 呆気に取られた俺がすだれのように垂れ下がった前髪の奥からヤツを見ると、ヤツは体の前で両手を組んだ。

 そしていかにもこいつらしい、実に無表情で言った。

『お嬢が今、日本にいます。だから私もここにいる。偶然あなたを見つけたのです。勿論私はあなたを消すために行動しました』

 そう言って、その長い指で俺が掴んだままだったハンカチを指差した。

 このビルの防御を破って食堂へとこれを置いたのは、ワンに違いない。きっとセキュリティーは粉々にされているはずだよな、俺はため息を飲み込んだ。

『食堂に入ったのか?』

『全ての部屋へ。7人の人間がいました。そのどれもがあなたと違ったので、それを置いて去りました』

 それ、のところでワンは、俺が持つハンカチを視線で示した。

 住人全員の枕元に、こいつは立った、てことなのだ。・・・誰も巻き添え食って殺されずにいて、それは何よりだった。俺の背中を冷や汗が滑り落ちる。無差別に殺すようなことはしないだろうが、家からの命令なら躊躇しないでやるに違いないのだ。俺を確認出来たなら、ビルごと爆破されても不思議ではない。危ないところだった。

『じゃあどうして俺は無事なんだ?すぐそこまで来ていて、何故屋上のチェックはしない?』

 とりあえず会話を続けようとそう言うと、ヤツの真顔が冷たくなった。

『まさか、あなたがこんな場所で寝起きしているとは思えなかったのです』

 はっはー!俺はこんな場面なのに、笑いそうになってしまった。

 かつての俺しか知らないワンは、あの頭が弱そうでシャツの一番上のボタンまでしめて服を着ていた大人しい少年が、浮浪者みたいな格好でボロ小屋に住んでいるとは思えなかったのだろう。こいつは金持ちを見すぎていて、想像も出来なかったに違いない。

『俺の外見を知らなかったのなら、どうしてバレた?』

 ワンはちょっと考えるような目をしてから、いいだろうと判断したらしく、ゆっくりと答えた。

『不動産登記で見つけました。ビルのオーナーがあなたであることがわかりました。ここを見張れば、いつかはあなたに繋がると思っていたのです。ですが――――』

 ワンの口元が嫌そうにゆがんだ。

『その前に、お嬢に気付かれてしまったのです。お嬢は・・・あなたを大変気に入っています』

 ────────────ははあ!!

 両手でポンと打ちそうになってしまった。


 


[ 8/21 ]


[目次へ]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -