「おはようございまーす」

 私はそう言って作業場のドアを開ける。奥の事務所の中で、高峰リーダーと田内さんがおはようと返事をくれた。パートさん達はまだ誰もきていないようだ。

 私はマフラーを外しながら事務所まで進み、壁に張られているシフト表を見る。

 今日の出勤は・・・リーダー、田内さん、私、前園さん、浜口さん、そして、平野・・・。そうか、平野今日仕事だって電話で言ってたっけ・・・。もう1月の最後の週なのだ。繁忙期は終わりを告げ、秋には私があれほど望んだ平野啓二契約満了がやってくる。

 そして、今も・・・若干でなくハッキリと、私はそれを望んでいるのがわかった。昨日の飲み会での吉田君からの情報は、私の中に強烈な葛藤を起こしていたのだ。

 聞くべきか。それとも、聞かないべきか。彼の言ったことは本当なのか、平野本人に質すべきかそうしないか!昔のことなんだし今がハッピーならそれでって何も言わずに過ごすべきなのか、やっぱりちゃんと聞くべきなのか!

 ちょっと暗い気持ちになったのが判った。

 のろのろとエプロンを手にとって着ていると、見ていたらしいリーダーが私に言う。

「どうした藤?法事疲れか?暗い表情だな、朝から」

 そうじゃないだろう、と思っている視線と声色だった。

 私はハッとする。そうだ、平野に泣かされたらってリーダーは言ってたんだった!それは大変だ、万が一でも私の暗さが平野のせいだって思われたら――――――。

 私はえ?ととぼけた表情で顔を上げて、意識して口角を上げる。

「疲れてますけど、そうじゃないんですよ。そうだ聞いて下さいリーダー!今日は最悪なんですよ、朝から信号に連続でひっかかって」

 高峰リーダーの肩から力が抜けたのが判った。

「何だ信号かよ。心配して損した」

「損ってなんですかー!結構じわじわ来るでしょ、信号に全部ひっかかるとか!今日はついてないかもって―――――」

 声を上げていると、平野が作業場からのドアを開けた。一瞬びたっとリーダーも私も止まる。

 間が空いた。

「おはようございます」

 だけど平野がそう言って、リーダーも、おう、と返す。私はエプロンの装着を再開しながら、おはよーと言った。

 平野は淡々とタイムカードを押しにいき、奥であったらしい田内さんと挨拶をする声が聞こえている。私はそれを背中で聞きながら、黙って髪をまとめ帽子の中に突っ込む。

「・・・うーん」

 机に片肘をつきながら、まだ私服のリーダーがこちらをじいい〜っと見ている。そしてぼそっと呟いた。

「何かあったな、お前ら」

「いえいえいえいえ、何もないですよ!リーダー勘ぐりすぎです!」

 私は断ち切るようにはっきりそういうと、さて、と両手を叩いた。

「リーダーも着替えて下さいよ。いつまで私服なんですか!ほらほら。あ、そうだ包丁の研ぎ石、一つなくなってたの発見しました?」

 早口にそう言うと、やっぱりじいーっと私を見ていたリーダーは、ため息をついて立ち上がった。

「・・・研ぎ石、見付かった。前園さんが置き場所間違えてただけだった」

「あ、そうなんですね。それは良かった」

「今日手羽先追加きてるから。田内にはずりを頼んでるから、藤が手羽先頼む」

「はーい」

 じゃあ包丁を研ぎに、と私は洗い場へいく。ちょっと心臓はドキドキしていた。高峰リーダーってば鋭い。だけど、別に平野と私に何かがあったわけではないのだ。だから大丈夫、大丈夫――――――・・・。

 だけど、大丈夫じゃなかったらしい。

 その日の帰り、夜の7時過ぎ。いつものように公園で私を待っていたらしい平野が、私が近づくと笑顔がなしの真顔で言ったのだ。お疲れ様、の挨拶もなしで。

「高峰リーダーに、何言ったんだ?」

 って。

 私はきょとんとした、と思う。その時には朝にした会話などすっかり忘れてしまっていて、頭の中は本日さばいて串刺しにした鳥肉の各パートばかりだったのだから。ハートとかせせりとかずりとか肝とか。あ、追加された手羽先も。

「え?リーダー?」

「そう。藤、朝何か話してただろ、二人で」

 うん?私は首を捻って考えた。

「あ、来月のシフトのこと?だって昼食までに希望だせってリーダーが・・・」

「違う。俺が出勤してきたときの話」

 ぴしゃっと遮られてちょっとビビる。平野、何か結構機嫌が悪そうなんだけど・・・。平野の出勤?リーダーと話って――――――ああ!思い出した私はパンと手を叩いた。

「出勤してきた私が疲れてるように見えたんだって。それで、それは平野のせいか、って・・・」

 あ。

 言いながら私は固まった。公園の外灯に照らされた平野の顔は、不機嫌そうに歪められている。うーん、もしかして。

「えーっと・・・何か、リーダーに言われたの?私それは違うって言ったんだけど」

 まさかでしょ?そう聞く私に、その場に突っ立ったままで平野は頷いた。

「脅された」

「え」

「そんで、藤のことは気に入っている、お前、藤を泣かしたなら承知しないから、って、睨まれて凄まれた」

「ええっ!?」

「どういうことだ?」

 私は口をあけっぱなしにしたままで、しばらく固まっていた。リーダーったら、リーダーったら!!いつのまにそんな会話をしていたんだろう。今日はいつもの通りに見えたけど!?パートさん達のお喋り、私は小説の妄想、男共は黙々と作業っていう、いつもの一日に。

 だけどリーダーは、平野にそんなことを言っていたらしい。

 目の前に立つ平野は不機嫌な顔で、口をひきむすんで私を見下ろしている。・・・怒ってるよね、これ。

「えー・・・と。ちゃんと言ったんだけど、平野のせいじゃないですって・・・」

 彼はぱっと手を振った。

「そういうこと聞いてるんじゃない。リーダーはやっぱり藤を好きらしい」

「あ、うん。知ってる」

「あ?」

 その言い方にはまたびびった。私はちょっと恐怖心を抱きながら、一歩うしろへ下がる。

「あの・・・忘年会の時に酔っ払ったリーダーに言われたから」

 冷たい風が公園内を吹き通って、平野が両手をポケットに突っ込んだ。

「それで?何て答えたんだ?」

「・・・いや、俺は藤を好きだと思う、とかそんな言い方だったの。かも、ってついていたような。だから私は冗談だと思って流して・・・」

 ふう、と一度ため息を吐いたあと、平野は不機嫌な低い声で続けた。

「俺達が付き合ってること、何でリーダーが知ってるんだ?わざわざ教えたのか?」

 カチンときた。その言い方に。それと同時に抱いていた恐怖心が消えて、かわりに怒りが芽生えてくる。一体何なのだ、どうして今こんな場所でそんなことを?

 私はきっと平野を睨みつける。

「わざわざ教えるわけないでしょ!今年の初出勤の日に、見た瞬間に判ったんだって!誰かさんが私につけたキスマークで!」

 平野がちょっと目を見開いた。驚いたらしい。

 私はそれに勢いを借りる。

「リーダーはそれからも告白してきたわけじゃないし、付き合ってとも言われてない。だけど私が平野と付き合うって知ったときには言われたのよ!何かあったら俺に言えって、俺は社員を守らなきゃならないからって!」

 平野は黙った。さっきまでの不機嫌な表情は消えている。

 だけど私は止まらなかった。くすぶっていた胸の黒いもやもやが、怒りに触発されて出てきたようだった。

「すごく大人の対応だって思ったよ!本当に私のことを好きならきっと、毎日がかなり不愉快だろうって思うけど、普通に接してくれてるもの。それより平野はどうなの?!昨日の飲み会で、聞いたんだよ、平野が高校の時―――――――わ、私を好きだったって」

「――――吉田か」

 うんざりしたような声だった。

 予想していた、といったようなその声に、私は更に逆上する。

「本当なの!?それってホントのことなんだ!?だったら何であんな振り方したの?お陰で私は―――――――」

「藤」

 平野が言った。

「声、大きい。通行人が皆聞いてるぞ」

 まだ夜の7時すぎだ。冷えた公園は駅前にあり、通勤客が通ることもある。だけど私はそれがどうしたって思っていた。誰に聞かれたって構わない、なんなら駅前でもホームでも大きな声で言ってやる。大絶叫で叫んでやる。

 逆上した体は熱く、握り締めていた手の平に爪が食い込んでいる。

 私は怒りに震えて平野に向かって叫んだ。
 
「答えてよ!」

 どうして私を振ったの。

 どうしてあんな言い方をしたの。

 好きだったのなら、どうしてどうしてどうして―――――――――


 平野は眉間に皺を寄せて、目も細めていた。外灯に照らされてそれがハッキリと見えた。その顔はまるであの2月の雪の日みたいだった。厳しくて、苦しそうな顔。

 平野はぐっと引き結んでいた口をあけて、掠れてザラザラした声で言った。

「―――――今は言いたくない」


 は?

 私は目が落ちるかと思った。あまりにも見開きすぎて。

「吉田が何をいったか知らないけど、俺はあの頃、色んなことがあってそれどころじゃなかった。理由は勿論あるけど、今は言いたくない。だけどそれってそんなに大事なことか?俺達は今付き合ってるし、気持ちだって判ってる。それじゃダメなのか?」

 今は、付き合ってる。

 お互いの気持ちも判って、二人で一緒にいる。

 それは確かにそう。そうだよね。だけど、だけど・・・。

『それってそんなに大事なことか?』


「―――――私には、大事なことなのよ」


 出た声は小さかった。それに、涙をこらえるあまりにかすれてぼやけてしまった。

 胸が痛い。平野の答えは、今は言いたくない、だ。今がいいなら過去は忘れろ、そういわれたようにも思う。そしてそんなことは、あの時だって言われたのだ。『もう全部忘れて春を迎えるのがいいと思う』。

「・・・ねえ、平野は私のことが好きじゃないって思ってた。だけど再会した時には成長していたから、それで今度は好きになってくれたんだって。そう思えたから、前に進めたのよ。・・・だけどあの時も好きだったなら、どうしてあんなことになったの?それは私には・・・どうでもいいことじゃ、ない」

 ついに涙が落ちた。私は下をむいてそれを隠す。泣きたくない。今は、この人の前で涙を見せたくない。

「藤」

 平野がそう呼びかけたとき、私は鞄と拳を握り締めて、下を向いたままで口を開いた。

「―――――ダメ。今日は、ダメ。腹が立って暴れだしそうな気がするから、帰る」

 しばらく間があったあとに、頭の上で、送る、と彼の声が聞こえたけれど、私は乱暴に首を振った。

「いいの。混乱してるから、落ち着いて一人で考えたい。先に帰って」

 見事な鼻声だ。こんな時なのに、格好つけることも出来ない。ああ情けない。

「・・・ここで残るのはダメだ。なら、俺があとから帰るから藤が先に電車乗れよ」

 胸が痛くて寂しかった。私は彼を見ないままで頷くと、下を向いたままで歩き出した。後ろからの足音は聞こえなかったし、ホームに上がって見回しても平野の姿はなかった。

 ティッシュで鼻をかんでマフラーに顔を埋める。

 その状態で部屋へと戻り、私は準備をして銭湯へと向かった。

 そして誰もいないサウナの中で、汗と涙が枯れるまで座っていた。




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