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平野が先に作業場を出て、駅前の公園で待っている。
去年いきなり「キスの講習」を受けさせられたあの公園で、マフラーとコートで完全装備した平野はベンチに座って、1時間差で出てくる私を待っているのだ。
そして、無口で無愛想な作業場での性格はどこかに隠して、高校生のころに記憶がある、明るくて飄々とした性格を引っ張り出してくる。口角を上げて笑い、目を細めて優しい顔をしているのだ。昔好きだったあの掠れた声で、藤、お疲れ、と言って立ち上がる。
最初は驚いたり、待たせるのを申し訳ないと思っていた私も、今では嬉しい期待になってしまっている。待ってるかな、平野はいるかな、そう思って公園へと走って行って彼を見つけたとき、体の奥が暖かくなるのを感じるのだ。そして、自然に笑顔が出る。
・・・いた。そう思って、気持ちがふんわりと浮かんだようになるのだ。
それは驚きだった。
あれだけ拒否して避けていた自分は、どこへいってしまったのだろうって。あんなにイライラしたのに。あんなにビクビクしたのに。
でも今は平野が、私をしっかりと見て笑ってくれるのが判っているのだ。
もう二度と見られないと6年前は思っていた笑顔で。
優しい声で。
いつかはまた作品の「意見」を言われるかも、とドキドキしていたけれどそんな素振りもないし、私は安心してキーボードを打っている。お話の中では美春が幸せになろうと頑張っている。現実では私も幸せになろうと頑張っている。そして―――――――――――人生初の、彼氏が出来たのだから。
どうすればいいかと悩んでいた日々は過去のもので、私達は似たような価値観で笑い、ご飯を食べて、手を繋ぐ。それから平野が例の切なそうな顔をして、私へと手を伸ばす。一緒に寝て体温を分け合うとこんなに安心するんだ、ってことを、私は知ってしまったのだ。
心の中の奥深くで凍り付いていた場所が、ゆっくりと溶け出したようだった。
あと少しで1月は終わり、平野はバイトを辞める。そうなったらリーダーを気にせずに、堂々と付き合えるな、って平野が言う。彼は就職も決まっているそうだし、その会社は今の部屋から通うつもりらしいし、今より時間は少なくなるかもしれないけれど、ちゃんとした社会人同士で付き合えるってことなのだ。
最近の私はハッピーだった。
すごく浮かれているわけでもなく、かみ締めるようにして自分の毎日を過ごしている。
仁美たちに貰った日記張も、言われた通りにハッピーなことだけを書いている。そして週末に読み直し、こんなに嬉しいことがあったのか、と思っては更に幸福感を増しているのだ。一人で勝手に幸せになれて安上がりだし、精神衛生上もとてもいいことだと思う。
キーボードの上で、指は休まずに踊る。
昼ごはんまでは集中して書いて、それから家事をしよう、そう決めていた。何度も書き直したこの作品、いよいよ終わることが出来る。
自然に私は、笑顔になっていた。
その日の夜は、珍しく平野が来なかった。
メールで『ちょっと用事が出来たから、今日は行くのやめとく』ときていて、私ははーい、と返事をする。そりゃあ平野だってプライベートな用事もあるだろう。新年に結ばれてから、ヤツは何かと私を優先していたようだったし、それがいつまでも続くわけがない。
私は気楽に銭湯でゆっくりと体をほぐし、それから晩ご飯を食べて、ふ、と思いついた。
仁美に電話しようかな、って。
去年、紹介した相沢さんとどうなってるの?とメールが来て以来、そういえばこっちから返信してなかった、と思い出したのだった。
よく考えたら明けましておめでとうすら言ってないわ!そりゃダメでしょ、折角の友達に!そう思ってちょっと慌て、時計が9時過ぎるのを待ってから電話をかける。
コール5回数えたところで、仁美の明るい声がした。
『はいはーい!千明〜?あけおめ〜!』
私はホッとして返事をする。
「仁美、おめでとう。ごめんね、年末からずっと忙しかったから放置しちゃってて」
電話の向こう側からテレビの音が聞こえる。ちょっと待って、と仁美がいい、場所を移動したようだった。
『ごめんごめん、タカシがやたらと大きな音量でテレビ見るのよ!年末年始忙しいことは知ってるから、大丈夫よ〜。ちょっとは落ち着いたの?』
「うん、今日ようやく休みで」
壁に背中を預けてもたれかかる。耳にひびく仁美の声はやっぱり明るくて、こちらも自然に楽しい気分になってくるのだ。
あ、そうだ!と向こうで仁美が叫び声を上げた。
『ちょっと千明〜!聞いたわよ!相沢さんと、結局恋愛にはならなかったって。お互いにそんなタイミングじゃないってことになったって、言ってたけど!?本当なの?何か問題があったんじゃなくて?』
・・・ああー!私は膝をぽんと叩いた。そうか、それすらまだ言ってなかったのか!
「そうそう、そうなのよ。遊園地でさ、いいお友達になっちゃって。相沢さんはまだ元カノを好きだって判明したのよ」
『ええ〜!?』
「それで、私も急だったし、別にそんなつもりはないんで、って話になって。相談し合って仲の良いオトモダチにはなったのよ」
『だ〜れが友達増やすために男を紹介してるのよ〜。もう、本当に千明はそれで良かったの?』
心配してくれてることは判っている。だから私はうんと言えた。大丈夫だった。相沢さんとは楽しい時間を過ごせて、満足したのだから。
「いいのよ。・・・それに、実はね、平野とね」
『え、何?平野?誰よそれ』
「ほら、私が恋愛から遠ざかる原因を作った男」
『ああ〜、高校生の時に好きだった人ね。今おなじ職場だっけ?うんうん、それで?』
仁美の頭が高速で回転する音が聞こえるようだった。やっぱりあれだけ飲んでいたのに、彼女は話を全部聞いて、しかも覚えているらしい!凄いな、ほんと。
「付き合うことになったのよ。それで・・・もう、付き合ってるの」
『―――――は〜い〜っ!??』
少しの間をおいて、仁美の絶叫が聞こえてきた。
『何ですって〜!?え、ええ?あの男よね?つきまとってくるっていってた?あんたが避ける方法だ何だって悩んでた!?付き合ってるって、いつからよ!?』
怒涛の質問だった。電話口で絶叫されたので耳がキーンと鳴っている。私はしばらくの間スマホを耳から離して休め、それからもう一度耳に引っ付けた。まだ仁美は叫んでいる。
『結局寝てみることにしたの!?それでどうなったの!?もう、どーしてそういうことを電話で言うのよ!今すぐ飲みに行きたいけど、あたし化粧落としちゃったし・・・ああん、もう!!』
「・・・ちょっと落ち着いてよ仁美。耳が、かなり痛いわ」
『うるさいわね!あんたの耳なんてベスト・オブ・どうでもいいだわ!』
ベスト・オブ・どうでもいい?何だその言葉・・・。私は興奮する女友達が面白くてつい口元を緩めてしまう。
『これだけ聞くわよ!千明、彼とやっちゃったの?』
・・・やっぱり直球だな、オイ。私は苦笑して、それから小さくうんと返す。私が未体験だったことは仁美は知っている。だから、それが一番知りたかったのだろうって。
予想通り、仁美は存分にぎゃあぎゃあと騒ぎまくっていた。途中で何の騒ぎだって彼氏のタカシさんが様子を見に来たほどに。
で、そこから凄いことになったのだ。スマホで話す私の話を仁美が隣にいるタカシさんに話し、彼は興味をもって相沢さんに電話したらしい。つまり、仁美カップルは同じ部屋にいて二人とも携帯電話を使い、それぞれの友達と話したってこと。
それによると、私が平野と仲良くなった間に、相沢さんも元カノにアタックしたってことが判ったのだ。しかも成功していたって!!
「おお〜!!やったやった、相沢さん、やったああああ〜!!」
私がそう叫んだ声は、仁美が持つ携帯電話からタカシさんが持つ携帯電話を超えて相沢さんの耳にちゃんと届いたらしい(驚きだ)。相沢さんが有難うって言ってるよ〜って仁美が教えてくれた。
凄い!素晴らしい!頑張ったね相沢さん!私は彼のためにそう喜んだ。
別れてしまうことになったけれど、やっぱり好きだとわかった相手と再び付き合える。それは確かに大変なことだったに違いないって思うから。歩み寄って、しかも相手がそれを受け入れてくれないといけないのだから。
『なんだかなーと正直思うけど、まああなた達が幸せでいてくれたらそれでいいわ』
最後には仁美もそう言って笑っていた。
相沢さんは私の話も知りたがり、仁美とタカシさんで通訳のようなことをしていたけれど、しまいには怒られてしまった。あたし達はあんたらの伝書鳩じゃないのよ!って。でもいいや、彼が幸せだってわかったから。そう思って私も笑う
それはそれは、幸せな夜だった。
相沢さんの電話をきってタカシさんが別の部屋へ行ったあと、私は仁美とじっくりと話す。
『ちょお〜っと謎めいているわよねえ、そのカレシ』
仁美がそういうのに、私はビールの缶を開けながらそう?と聞いた。
『千明の初めての相手を悪くいいたくないけどさ、だって不明でしょ、浪人も留年もしてないのになんでまだ大学生なのよ。そこ、聞かないの、千明?』
「聞かない。だって別に私に関係ないし。就職も決まってるらしいしさ」
電話の向こうで仁美が唸った。
『まあそうなんだけど。言えないことなわけ?女問題で面倒くさいこととかじゃなかったらいいけど』
嫌なこというな、そう思って私はつい眉間に皺を寄せる。
「でも話そうとしてたよ?だからそういう意味では、面倒くさいことではないと思う」
実際には今度話すっていってたんだけど。まあ言うことないか。私がそう言うと、仁美はふーん、と呟いた。
『まあいいわよ、千明がそれでいいならね。とにかく、急展開だけど、おめでとう!ついに千明も女になったのね!で、ちゃんと彼のことを好きなんでしょうね?』
返事には、少し間があいてしまった。
でもそれは、過去を思い出してのことだ。
平野を好きで見ていたあの3年間。厳しい言葉を貰ってこっぱ微塵の最後。それから、また再会した秋のことも。彼に抱かれて、一緒に歩く今のことも。
「・・・好き、だよ。あの頃とは違うけど、今はちゃんと彼そのものが好きなんだろうって思う」
懸命に避けていた。だけどやっぱり引かれてしまった。私は平野が好きだし、気になっているんだと思える。あの頃の、いつでもジタバタしたくなる恋心とは違うけれど、ちゃんと現実として受け止められる恋で。
仁美が笑った。
『ならよかったわ。結局紹介したのは意味なかったけど、とにかく、あんたが幸せならね』
「ありがとね、仁美。相沢さんは友達になったのよ、それはそれで素敵」
そこは千明らしいね、って言って、彼女は違う話題を話し始めた。
私は電話で女友達と楽しい時間を過ごす。こうやって誰かと話せることはかなり気持ちがいいことだって気がついた。梓のことや、あの店のこと。それから、仁美がタカシさんと結婚を考えていることなども。
興奮して喋り捲る。仁美の壮大でゴージャスなウェディングプランを聞きながら、私は片っ端から突っ込んでは彼女に嫌がられていた。
『とにかく、また飲みにいきましょ!詳しく聞く必要があるわ!』
「じゃあまたね〜」
電話を切って、一息ついた。話しすぎて顎が痛いなんて笑える。
私は温かい気持ちになって壁にもたれたままで、平野のことを考える。ちょっとした秘密?そんなの全然問題じゃない。だって―――――――――
だって今の私は、彼と一緒に過ごせるんだもの。
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