高峰リーダー・・・。私は苦笑した。確かに、平野と何があったのだ、ってあの上司は勘ぐってるはずだ。それを田内さんが知ってるとなれば、脅して聞き出すくらいのことはしそうだな。

 田内さんはまだぼそぼそと小さな声で喋っている。

「僕は今の話を出来たら今日中に忘れるから、藤さんも・・・出来たら、忘れてしまいな。折りよく繁忙期だし、どうせ彼は2月までだし」

 その時、その彼が丁度入口を開けて入ってきた。平野がマフラーを首から外しながら、おはようございます、と声をかける。

 私は一瞬びくっと体がはねたけど、そ知らぬ顔をして平野から目を離し、田内さんに頷いた。

「頑張ります、ありがとうございます!」

「うん」

 平野はきょとんとした顔をして私と田内さんの顔を交互に見た。それから私におはよ、と挨拶をする。

 一体どんな顔して言ってんだ?と思ったけれど、ヘタレな私はヤツの顔など見れない。というわけで、速攻で無視して作業場へと飛んでいく。

 いつもの台ではなくて田内さんの台で仕込みの準備をしていたら、北浦さんも出勤してきた。そして大きな声で作業場全体におはよー!と挨拶してから、あら?と首を傾げる。

「千明ちゃん、今日はそこでするの?今日って田内君いるわよね?」

「え?」

 私が顔を上げると、北浦さんの後ろでエプロンをつけながらこっちを見る平野まで目に入った。あ、面倒くせ、と思ったところで、田内さんが静かに声を出す。

「僕今日ちょっと目が痛いんで、場所換わってもらったんです。いつもの台は明りが強くて」

「ああそうなんだ〜。確かにそこの台は照明が眩しいかも〜」

 北浦さんはそう明るく言って、ぱぱっとエプロンを羽織る。私は心の中で田内さんに土下座して感謝をし、包丁を研ぎにかかる。仕込みの速さは包丁の研ぎ具合にかかっている。それだけは断言出来る。気をつけて研ぎながら、できるだけ平野を見ないようにした。

 見ないように。

 ヤツを見ないように!

 ・・・見ないよーうにしていても・・・つい頭を過る。あの唇が、私の唇にひっついたんだ!って。やつがどこにいてどんな体勢をしていようが、私の目はつい平野の唇を探して飛んでいきそうだった。

 ヤツは自分の台へといき、黙って支度をしている。その隣で田内さんも黙々と手を動かしていた。今日は井戸端会議をする相手がいないから辛いわ〜などと言いながら、賑やかに北浦さんも仕事を始める。

 ゆっくり深呼吸をした。

 目は包丁に釘付けになりながら、私の頭の中ではさっきの話が繰り返されて流れ出した。

 6年前。

 2月の冷たい風、それから風花と呼ばれるさらさらと振ってくる灰色の雪。校舎の中で鐘が鳴っていた。

 ねえ平野。そう呼びかけた私に振り向いて、あの時の平野は目を細めた。吹雪というほどではなかったけれど、視界の邪魔になるくらいには雪が降っていた。

 まずは合格おめでとう、そう言ったと思う。よかったね、と。自分は落ちたので心は痛かった。だけど平野は自分が希望していた大学に受かっていたし、それは素敵なことだった。だからそう言ったのだ。だけど、平野は黙って私を見ているだけだった。

 機嫌がよくないのかな、そんなことをちらっと頭の隅で考えた記憶がある。引き結んだ口元や細めた目に。でも私は一人で興奮してしまっていて、もう体全体で鼓動を感じるほどだったから気にならなかったのだ。

 他にも来ていた合格報告をした生徒達が傘をさして早足に通り過ぎていく。わいわいと皆嬉しそうで楽しそうで、通り過ぎて行くその笑顔たちに勇気を貰って、ついに私は言ったのだ。

『知ってると思うけど・・・ちゃんと言ったことなかったから。あの・・・私は、平野が好きです』

 もう顔はきっと真っ赤だっただろう。ほとんど相手の目なんて見れないで、ひたすら平野の襟元をみつめ、私は早口で言葉を押し出す。

『一緒の大学は落ちちゃったんだけど、でも・・・付き合ってくれないかな、わ、私と』

 鼓動が激しすぎて平野に聞こえるかと思うほどだった。だけど雪のせいで、他のほとんどの音は吸い込まれて消えていく。私は緊張して、手をぎゅっと握り締めて、全身を耳にして立っていた。

 平野のいい返事を逃さないように。

 きっと照れた顔で頷いてくれる。平野なら、きっと恥かしそうに眉毛を寄せて――――――――・・・

 だけど、結構な時間を空けて聞こえてきたのは、想像した言葉ではなかった。

『悪いけど』

 平野は掠れた声でそう言った。

 私はハッとして顔をあげ、そこでようやく平野の顔をじっと見た。さっきと同じ、細めた目に結んだ口元。相変わらず機嫌は良くなさそうな。

 照れた顔じゃ、なかった。

『俺、藤には興味がない。もうしわけないけど声をかけてくるのもこれきりにしてくれ』

 ビックリした。

 一瞬、世界中の全ての音が消えたかと思ったほどだった。

 ついでに動くものも全部停まって、雪でさえも、空中で凍り付いてしまったように見えた。

 声には出さなかったけれど、え?と聞き返していた。心の中で、え?って。ねえ平野、今言ったことって・・・。

 相変わらずの不機嫌そうな表情で、平野は続けて言う。

『俺達は違う大学にいくし、もう全部忘れて春を迎えるのがいいと思う。これまでのことは、全部』

 目を見開いて突っ立つ私に向かって、平野は掠れた声でそう言って、くるりと背中を向ける。それから歩き出した。一度も振り返らずに校門を出て、雪の中、通学路を歩いていく。その黒いコートと青いマフラーの柄がわからなくなるまで、私はその場に立ったままで見送っていた。

 貰った言葉はまっすぐに心臓につきささり、涙も出なかった。興味がない、興味がない、興味がない・・・キョウミ・ガ・ナイ。

 ・・・でも・・・平野、一度も迷惑そうな顔、してなかったじゃない。

 心の中で言葉が溢れる。

 でもだって、だって、いつでもちゃんと相手をしてくれたじゃない。笑ってくれたし、話も聞いてくれて、いつだって普通に――――――――・・・

 風がすごい勢いで吹きつけてきて、雪とともに私のスカートを揺らしていく。

 冷え切った体は更に凍えて、私の体の真ん中からしんしんと冷えて凍りだす。

 私がそこを離れたのは、きっと30分ほど経った後だったはずだ。もうすっかり濡れてしまっているのに、そこから傘をさして学校を出た。

 もうびしょ濡れだったけど、家までは傘を畳む気はなかった。ようやく出てきた涙を隠したかったから。電車の中でもマフラーに顔を埋めて、タオルハンカチをずっと握り締めていた。

 その冷え切った午後が原因で(そりゃかなり気落ちしたのも勿論あるだろう)夜からきつい風邪を引き、私はしばらく寝込むことになる。使い果たした気力と体力と、それからありったけの勇気の残骸が、いつまでも体の隅から離れなかった。熱が上がった頭でゆらゆらと揺れながら、繰り返して振られたシーンを思い描く。

 雪と、平野の厳しい表情と、ただ聞くだけだった自分の姿が。

 予想もしていなかった言葉と、もう振り返らない黒いコートの後姿が。

 もう二度と彼に話しかけたり出来ないんだって現実が。

 もう二度と平野は私に向かって笑ってくれることはないんだって未来が。

 そして高熱が下がった頃、やっと気がついたのだ。

 平野は普通に接してくれていたってこと。他の女子に対する態度と同じように。笑い、からかい、話にのってくれたけれど、そこに恋愛感情の欠片も見えなかったってことに。私が勝手にいい仲だって思い込んでいたってことに。平野も私をちょっとは好きでいてくれてるんだろうっていう、全く根拠のない思い込みに。

 気がついてしまったのだ。


 ――――――――つまり、私は一度も「特別」ではなかったってことに。


 今から思えば、あれは完璧な振られ方だった。

 もうこっぱ微塵で、再生能力はゼロ。それまでの3年間は全て砂に埋もれてしまい、しかも当の本人から「忘れろ」と言われる始末。これまでのことは忘れて、春からは大学生に、って。

 あれは永久のバイバイなわけだったんだよね。私はそう理解した。



 熱が下がってから進路を心配した両親、特に母親に泣かれたので、他にすることのなかった私は重い腰をあげて3月の入試に滑り込んだ。偏差値を落としたからちゃんと受かったその近場の大学で、恋愛とは一切縁のない4年間を送ったのだ。

 もう人を好きにはなれないかもって思っていた。あ、この人素敵だなって思った先輩や同級生にも、恋心をもつことにブレーキをかけていたと思う。だってまた思い込むかも。相手は私のことなど何とも思ってはいないのに、ただの社交辞令を愛情だと勘違いするかも。そんなことになってまたあんな風になったら最悪だ。

 そう思ったら、恋愛など面倒くさかったのだ。新しく開けたのは勉強だけではない。アルバイトだって出来るようになったし、お酒も飲めるようになった。別に恋愛だけが楽しいことじゃなくなったというのも、私が恋愛から遠ざかった理由かもしれない。

 ・・・で、ようやく社会人になったのだ。そうしたら、3年でまた平野に出会ってしまった。どう考えたってやっぱりここで再会したのって余計な出来事だったわよね・・・。

 手羽先の骨を断ち切りながら、私はイライラとそう思う。

 瞬殺されたのだ、私は平野に。あんな完膚なきまでの潰され方をしたのに、どうして今こんなややこしいことになってるの!?本当に!

 今日は一度も平野のことを見ないままで、無事に夕方まで済んでいる。お昼も外へと出たし、接触は皆無だった。今は大量の手羽先をさばいていて、幸運なことに今日の仕込みはこれで終了。元々仕込みの量も少なかったけれど、誰も喋らない本日は皆が作業に集中したのかもしれない。これだったらかなり早く上がれそうだった。

「そっち、もうすぐ?いくらか手伝う?」

 田内さんが体を捻ってそう聞いてくれる。私はちらっと彼の方を見て、首を振った。

「いえ、大丈夫です。あと10羽で終わりますから、そちら終わったなら片付け入ってください」

「了解。北浦さんはどうですかー?」

「こっちももう終われますよ〜」

 田内さんは順番に確認して、最後の平野で手元をみて、ヤツの仕事を半分奪ったようだった。私はまた平野の口元を凝視しそうになって、慌てて手羽先へと視線を戻す。時刻はまだ5時半。パートさん達も余裕で勤務時間を守れるだろう。

 私は新たな手羽先をまな板にのせる。専用の大きくて重い包丁で骨を断ち切って肉を開き、焼きやすい形に整えていく。骨を断ち切るときに力がいるのでいつもは高峰リーダーや田内さんがやってくれるのだが、タイミングが良かったので引き受けることにしたのだ。

 包丁を押さえつける手が痛みだした。

 だけど過去の世界へと戻って、がっつりと思い出してしまっていた私には、今はどんな痛みも効かないような気がする。

 あの時の痛みに比べれば。




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