風を受けて自転車で走る。人も車もほとんど見かけない、田舎の国道を走って、山を下りていた。

 緑の匂いは濃く、いたるところで虫が鳴いているのが聞こえる。サングラスをしていても太陽はキラキラと眩しくて、それは私をちょっとばかりノスタルジックな気分にさせた。

 田舎などもっていない私に。大都会にすぐ出ることの出来る郊外の町で生まれ育ち、唯一の祖母はもっと都会の京都に住んでいて、こういうところに縁などないのに、何故か懐かしい気持ちに。

 たった数ヶ月前まで就職活動に励んでいたことが嘘みたいだった。

 いつでも可愛くなくてペラペラのリクルートスーツを着て、街中を駆けずり回っていたあの頃が。それから、彼氏にも振られて泣きくれていたあの頃が。泣く元気もなくて呆然としていた最初の頃と、号泣する力がなくてただ涙も鼻水も垂れ流しにしていただけの最後の頃も。

 今では、こんなに遠い。

 タンクトップにショートパンツ、スニーカーとサングラスに帽子にリュックサック。そんな姿で田舎街を自転車で走る私が、すごく不思議だった。

 顔が笑顔になるのが判る。

 ああ、もう私、戻って来てるんだ、って。心と体が復活したのかも、って。

 だって、一人でいる時間なのに、市川さんがいないのに、こんな風に笑えてる。それに気がついた。



 海は、前と同じように空いていた。

 8月に入っていたから、夏休み客でもうちょっと混んでいるかと思っていたけれど、そうでもなかった。やっぱりここは大きなホテルなどはないから、散らばる民宿のプライベートビーチなんだろうな、そう考えながら、私は痛くなった腰を捻ってまわす。

 結局55分かかってしまった。

 案外遠くてビックリ。バスだともうちょっと早かったと思う。それに勿論、バスだったらこんなに疲れてない。

 額から滴り落ちる汗を拭いとって、私はリュックを背負い浜辺に降りていく。鞄から出したシートを熱くなった砂の上において、服をパッパと脱いでいった。

 水着は着ていた。

 だからそのままで、私は海へと近寄っていく。

 汗をかいた体に風が涼しい。

 今日は浮き輪はもってなかったから、冷たい水で胸元を洗ったあと、私は一気に海へと身を沈めた。

 最初は結構な試練。だって真夏の海とはいえ、やはり日本海の水は冷たいのだ。だけど頭まで潜ってしまえば、冷たさは一瞬のことであとは爽快感の波がやってくるのだけれど。

 透明度の高い日本海で、私はひたすら潜り続ける。

 太陽の光が海の中へも差し込み、足の下に広がる白い砂を煌かせている。さらさらと素肌を通りすぎる水。それから小さくて砂と同じ色をした小魚たち。何度も深く潜っては、その光景を楽しんだ。

 口から吐いた息が大小の泡になって水面へと昇っていく。光って揺れて、でも壊れずにのぼる。それを水中で見ていた。

 ああ、いい気持ち。

 どうして前に来たときには、泳がなかったのだろうか。同じだったのに。同じだったに、違いないのに。

 自転車での55分で汗だくだった体が冷やされると、私は一度浜辺へと上がる。

 自転車で疲れきった足に重力が厳しい。ずるずると必死の思いで重たくなった体を持ち上げて、ううう〜と唸りながらシートの上へと倒れこんだ。

「・・・ああ、あったか〜い・・・」

 しばらく目を伏せてしまうけれど、ハッとして起き上がる。いかんいかん、これでままた甲羅干しの再現ではないか!!今日もまた背中を真っ黒にするわけにはいかないのだ。穏やか〜に焼きたい。

 そこで私はようやく思い出した。

 何がって、あの男のことだ。

 先日ここで会った、唯一の地元の男の人。

 斜め後ろに遠く見える浮き輪貸し場を振り返ってみたけれど、夏の空気にぼんやりと浮かぶだけで彼がいるのか判らなかった。

 でも確か・・・自動販売機はあったよね。

 私はリュックをひっつかむと、ポタポタと全身から水をたらしながら歩き出した。水分補給のついでに・・・・彼がいるかを確かめに。

 今日もさほど混んでいない海水浴場を見渡しながら歩いていく。

 大きさも色も様々な浮き輪が竹にぶら下げられている売り場の小屋へ近づいて、ヒョイと覗いてみた。だけど、彼どころか誰の姿も見えなかった。ただ松林から蝉の合唱が聞こえるだけ。

「・・・」

 何だ、いないのか。私は何だか残念な気持ちを抱えて自動販売機に向かって歩き出す。

 だって、ここにきて、市川さん以外の若い男性に初めて出会ったのだ。旅行中の家族連れやツーリングの団体さんとは違う、地元の人。

 多分私は回復しつつあって、新しい出会いに飢えていたのかも。でもそれってどうなの、別にここには男を求めてきたわけじゃあないのにね――――――――・・・

 自分に苦笑しつつ小銭を取り出そうとリュックのファスナーを開けていたら、小声と音が耳に飛び込んできた。

 うん?

 私は中途半端な体勢のままで、音の出所を探して自動販売機の裏を覗き込んだ。

 自動販売機の後ろ側には海へくる人達用の駐車場が広がっている。防風林が少しだけあって、そのあとは広大な駐車場。まばらに止まっている車。それから駐車料金を徴収する小屋。自動販売機とその小屋に挟まれた場所に数個のパイプ椅子が置いてあって、そこに、カップルがいた。

 椅子に座った男の膝に女が跨り、今まさに濃厚な抱擁とキスを交わしているところだった。男の両手が女の顔を挟み込んで、角度を変えて唇を貪りあっている。

 ――――――――あら。

 私はパッと体を戻した。自動販売機を間に挟んで、あちら側では男女がいちゃついていたのだ。耳に飛び込んできた音は、口付けによるリップ音だったってことで・・・。

 ・・・うわあ〜、もう止めてよ〜!

 自分が赤面したのがわかった。

 経験がないわけではないが、人様のラブシーンをマジマジとみたことなどない。そりゃあ恥かしいでしょう!

 身の置き所がなくて、気まずさに顔を歪める。だけど当初の目的を果たさずに離れるのは悔しかったから、マッハで小銭を取り出してお茶のボタンを連打した。

 ガコン!

 商品が落ちた音で、カップルも人がいるのに気がついたらしい。やだ、誰かいるよ、そう女の小声が聞こえて、ガタガタと椅子が揺れる音もする。やだって・・・そりゃこっちのセリフでしょうが、何でこんなところでいちゃついてるのよあなた達!ついそう心の中で突っ込んだ。

 じゃあまた今夜。そんな声と走り去る音。

 私は屈んでお茶のペットボトルを取り出しながら、顔をしかめてあっかんべーをしていた。すみませんね、お邪魔しちゃって。でもすぐに去りますから〜。だけどお茶を握ってリュックを持ち、踵を返したところで声が聞こえた。

「あ、砂糖の人じゃん」

 太い声はまっすぐに私に向かってきたようだったから、私は歩きながら振り返る。

 そこにはあの男がいた。

 浮き輪売り場にいて、変な回答をした男。

 塩と太陽に焼けた肌と髪の毛。黒いタンクトップに切り離したブルージーンズ、サンダル。光に眩しそうに目を細めて、自動販売機の後ろから出てきた。

 ・・・げ。あれ、あんただったの。

 私は出かけた言葉を飲み込んで、ただ会釈をする。

 探していた男は女とラブラブの最中だったわけで。・・・まあ、そんなもんよね、そんなことを思っていた。若い男、夏で海。そりゃあ彼女もいるでしょうて。年齢だってきっと私よりいくつか年上だろうし。その瞬間、私の中で彼への興味が一気に薄らいだのを感じた。

 頭を下げただけで歩きを止めない私と、同じ方向に歩きながら、後ろから男が言う。

「うわー、すっげー焼けたね。痛かっただろうそれじゃ。でもまあ〜そうなるよな、あんなことしてだんじゃ」

 後ろを歩きながら、水着の私をじろじろと眺めているようだった。何だこの男、ちょっと失礼じゃない?その言い方にカチンときた私はやっぱり前を向いて歩きながら言葉を返す。

「あんなことって何ですか」

「ほら、前来たときさ、泳がないでずっと浮き輪で浮かんでただろ。あれじゃあヤバイだろうな、って思ってたんだ。一瞬浮き輪の上で死んでるのかと思ったくらい、動かなかっただろ」

「・・・そうですか」

「今日は泳ぐんだな。泳げないのかと思ってた」

「泳げますよ」

「教えてやろうかと思ってたのに」

「結構です」

 浮き輪売り場を通り過ぎる。そこで当然お別れかと思っていたのに、男はまだ足音をたてて私についてくるようだった。

 不審に思ってちらっと横目で見ると、ばっちり目が合ってしまう。

「・・・あの、何ですか?」

 ついに私は立ち止まって男を見上げた。若干恐怖を感じだしていたのだ。後ろからついてくる地元の男の人、周囲は閑散としていて助けを求めても応じてくれそうにはないって考えて。

 で、ビックリした。近づいた男の身長が思っていたより高かったからだ。・・・おおっと、この人、高かったんだなあ!って。前に見た時にはしゃがみ込んでいたから、もっと背が低いような気がしていた。

「あのさ」

「はい?」

 男がにっこりと笑った。

「俺はシュガー。そう呼ばれてる。んで、あんたの名前は?」

 は?

 私は驚いて、瞬きを繰り返した。

 シュガー?

「名前教えてよ、砂糖の人」

 彼がまた、大きく笑った。




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