・移住者市川・1
「え、ってことは・・・名前っていうか、あだ名がシュガーだったわけか?」
市川さんが呆れたような声でそう言った。
私はこっくりと頷いて、深くなっていく闇のほうへと目をむける。
「ライター」での夜。ここに来てからいつも目にしている、山の夜だった。
浜辺から戻ってきた私は疲れきってヨロヨロで、ぬれたままだった髪の毛もすっかり乾いてパリパリになっていた。迎えてくれた市川さんにお風呂をすすめられたので有難く頂戴し、今は、店のウッドデッキで今晩最初のビールを飲んでいるところだった。
丸テーブルには深い青のテーブルクロス。市川さんが店を始めるときにまず最初にかけたらしいそのクロスの上では、私が街で買ってきたおつまみが並べられている。
二人でのんびりと、休日の夜を過ごしているのだった。
虫の声と、風の通る音。虫除けのハーブの香り。
市川さんの店と住居以外には明りの殆どない国道はすぐ先から真っ暗闇で、群青の空に黒い山の稜線が浮かび上がっている。
来た最初の頃は、その闇の光景が怖かったものだった。何だか全部が飲み込まれそうで。
だけどそれも、今ではなんだか落ち着く景色になっていた。
空が晴れて雲のない夜は、頭の上では都会ではみることの出来ない星星が煌いている。満天の星。それはとても美しいけれど、何だか賑やかで私はいつも申し訳ないような気分になるのだ。だから、こんな曇っていて星も見えず、ただ黒や群青が埋め尽くす夜の空間のほうが好きだった。
広がる暗闇の中で市川さんがつけてまわるランプのあかりが、希望に思えるのだ。
優しくて温かい光が。
ああ、光だ、温かい光がここにあるって。それから風の微かな音と、虫の声とか。静かだけど空気はべったりとしておらず、さらさらと優しい音が流れてくる感じ。それはテレビやケータイやラジオから流れてくる音は何かが徹底的に違った。
ただそこに存在していて主張しない、そんな優しい音なのだ。
今晩も、ランプのあかりが優しく揺れる風通しのよいデッキの上で、椅子に両足を上げて座っていて、ビールを飲んでいた。その心地よさに目を閉じていたら、市川さんが聞いたのだ。
今日は海、どうだった?って。
で、話をしたわけだ。今日の一日を。ちょっと話しにくかったけれど、ちゃんと男女のイチャイチャ場面まで言葉を繋げた。その時、どういう顔をしていいか判らなかった私は、ひたすら険しい顔だったと思う。
市川さんは多分、その私を面白そうに見ていたはずだ。
「そいつは女性とイチャイチャしていて、だけど彼女がどこかに行ったあとはメグっちにモーションかけたってこと?おお〜・・・元気だな。若いんだろうな〜」
「それってまるでおじいさんの言い方ですよ、市川さん」
私は苦笑して言葉を返す。
あなたもまだ十分に若いじゃないですか、って。すると市川さんは、ヒョイと肩をすくめた後であはははと笑った。
「俺は、まあ、世捨て人みたいなもんだから」
って。
私はまた闇の中へと目を戻す。
キラキラの海で。
あの暑い昼下がりの浜辺で。
私は眉間に皺を寄せて、彼に聞いたのだった。
『シュガー?それって本当の名前じゃないですよね?』
日に焼けた海辺の彼は、にこにこと笑ったままで頷いた。
「勿論違うよ、仲間にはそう呼ばれてるってだけ。だから前は、君が俺を探してるのかと思ったんだ。知らない子だけど、何だ?俺に用?って。で、そっちの名前は?」
「・・・教えません。それより彼女、いいんですか?私は消えますから、どうぞお二人でゆっくりしてください」
そう言うと、彼はしゅっと目を細めた。
「ああ、さっきの見たんだ?でもいいんだ、あの子は別に彼女じゃないし」
は?
私は正直に嫌そうな顔をしたらしい。彼が、前でけらけらと笑う。
「彼女以外にキスしちゃダメなんてこと、ないだろ。いいんだよ、どっちも気持ちよければそれで」
「・・・私にはわかりませんが、まあ、関係ないですし」
心の中では、何だこの男、と思っていた。チャラチャラしてる、って。少なくとも、心の中にそんな意見を持っていてもストレートにそれを言葉にする男はいなかったのだ、今までは、私の周りで。去って行った彼も上品な人だった。
眉間に皺をよせて後ろをむき、歩き出した私に彼は言った。
「なあ!」
その声は何かの意思をもって、私の鼓膜を揺らす。見えない手でがっちりと腕を掴まれたような感覚だった。
無視すればよかったのに。
なのに振り向いてしまったのだ。
あの男の方を。
前の席で、市川さんがくしゃみをした。その音にはっとして、私は目を瞬く。
「・・・ってことは、もしかして?」
市川さんが椅子に寄りかかりながら夜空を見上げて、声を出した。
「教えちゃった、とか?メグっちのこと?それにもしかして、この店とか?」
私はテーブルの上に頬をつけて、全身で申し訳なさを表現する。
「・・・すみません、言ってしまいました、ここにいることを」
「あらあ〜」
目の前で、市川さんが情けない顔をする。
「お客さんが増えるのは店としては有難いけれど、よく知らない人に居場所を知られるのはあんまり感心できることじゃないよ、メグちゃん」
「ううう、判ってます〜!」
私だって負けてないぞの情けない顔で、仕方ないからひたすら謝った。だってだってしつこかったんだもん!何かの情報を教えない限りついてまわるぞ的な勢いを感じたのだもん!
「まあ、あの、ざっとではありますけど。でも国道でトンネル出たところでって言ったらすぐに判ったみたいでした」
「そりゃこの辺りで店ってここしかないからねえ。地元の人も来てくれてるし、話くらいは聞いたことがあるんだろう」
市川さんは少しの間真面目な顔で闇に目をやって考え事をしていたようだったけれど、その内に振り向いてにかっと笑う。
「ま、言っちゃったものは仕方ないよな。メグっちの男がきたら教えてくれ。俺も観察しときたいし」
「わわわ私の男じゃありませんよっ!あんなシュガー男!ちゃらちゃらして、ほんとに!」
「だって自分で情報公開したんでしょうが」
ああ、ビール瓶で自分の頭を殴りたい。半日前にしてしまった自分の行為を思い出して、私はむすっと顔をしかめる。
あの男が『なあ!』と何度か呼びかけたあと、喋ってしまった。自分の名前は教えないままだったのに、ここにいることを伝えてしまった。
そしてそのことに気がついて呆然としている私の前で、あの男はにっこりと笑って、頷いたのだ。
『じゃ、今度遊びにいくから』って。そして浮き輪の売り場へととって返し、あとは私一人。しばらく自己嫌悪に陥っていたけれど、太陽が熱くて仕方なく自分のシートの所へと戻り、それまで以上に真剣に泳いだのだった。
おかげで帰りは大変だった。疲れすぎないようにとあれほど市川さんに言われていたのに、フラフラになってしまったのだ。山道の途中までは自転車でのぼり、あとは自転車を杖代わりにして歩いたというのが正しい。
蚊にたくさん喰われながら、夕暮れ時にやっと店に戻ったのだった。
テーブルに頬をつけた状態のままで、私の手はテーブルの上のスティックシュガーを求めて彷徨う。それに気がついたらしい市川さんが、ペシリと私の手を叩いた。
「砂糖はほどほどにしとけっつーの。糖尿病になるぞ、その若さで」
「あうあう。だって精神安定剤なんです〜」
「砂糖は砂糖だ、馬鹿いうんじゃない。ビールを飲めビールを!これだって砂糖は大量に入ってるんだぞ」
「ビールにはアルコールが入ってるじゃないですかあああ〜。私がアル中になったらどうするんですか!」
「糖尿病は治らないけどアル中は治る」
そして市川さんは私の持参したスティックシュガーをかっさらってしまう。更にガックリとうな垂れながら、仕方なく私はビールを飲んだ。
舌に溶け込む甘い、ザラリとした感触。・・・あれが私には必要なのに。だけど強い意志でもって、雇い主が隠してしまったから、もう仕方がない。自分のソファーへと引き返してからこっそりと口に含もうって思っていた。
シュガーホリックメグ。彼氏がそう言って、顔を顰めていたことも思い出した。ホリック・・・依存症。本当にそうだから、過去に向かっても文句が言えない。
「それで市川さんは?今日は何してたんですか?」
舐めることの出来ない砂糖と昔の嫌な思い出から意識をそらそうと、あんまり興味はなかったけれども質問をしてみる。普段、休みの日に何をしているのか市川さんは言わない。多分店の掃除だとか仕入れだとか菜園の世話だとかだろうって思っていたから、私からも特に聞いたことはなかったのだ。
ここにお世話になりだした時から、休日には私は必ず外出していた。田舎への好奇心や物珍しさ、それから足りない日用品を買うために、とにかく休日には家や店にいなかった。だから主である市川さんが何をしているのかは全然知らなかった。よく考えてみれば二人の間で話題になったことすらない。
平日よりは遅めに起きてくる。そして、私の用意した朝食を食べて、それから――――――?
市川さんは集めたスティックシュガーをビニール袋に突っ込みながら、ちらりと私を見る。それから薄く笑って、ゆっくりと言った。
「それは秘密」
え、どうして?
ちょっと首を傾げた。店の掃除や菜園の世話なら、何も隠す必要はないでしょうに。
だけど市川さんはもう一度にやりと笑うと、風呂入るな〜と言ってウッドデッキを去ってしまった。残された私はダラダラとテーブルに頬をつきながら、ぼんやりと考える。
・・・うーん。本当に、謎の人だわ。
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