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煮つまりまくってドロドロに溶けた就職活動を経て、何十社も受けて見事に全部失敗し、大学を卒業してしまったこの春。
私はしばらく、途方に暮れてぽかんとしていたのだ。
やることがなかった。
学生の間にしていたいくつかのアルバイトは卒業と同時に辞めてしまっていたし、信じられないことに受け入れてくれる会社が一つもなかった。ひとつくらいは見付かるだろうって思っていたけれど。まさかの全敗だったのだ。
それなりにアルバイトもしてきた。面接だって落ちたことはあったけれど、無事に仕事を手に入れて先輩達に可愛がられていたと自信を持てるバイト先だってあった。普通だ。いたって普通の大学生だったはずだ。人よりも秀でているところはないのかもしれないけれど、卑屈になるくらいに出来ないことだってない、そんな人間。
なのに、私はどこの会社にも入ることが出来なかったのだ。
あなたは当社には必要ありません、それが柔らかい言葉で書いてあるペラペラの紙が机の上に溜まっていった。
それは最初のうちはじんわりと、それから急に凄い速さで私に襲い掛かり、強烈なショックを残した。誰からも必要とされていないのか、そんな風に思ってしまうのだ。私は、必要ないんだって。
不安定になった私はそこで、彼氏に依存してしまった。優しい言葉をかけていつでも励まし、慰めてくれた彼氏に。私を必要としてくれるよね?って頻繁に電話をかけ、いつでも一緒に居たがったのだ。同棲を提案して、何とか自分の居場所を見つけようとしていた。
ところが、やはり存在全部をかけてのりかかってくる女は同じように若い男性には非常な重荷だったのだろう。
『メグは暗くて、申し訳ないけど俺はもう付き合えない。以前の君に戻るまで、会わない方がいいと思う』
そんな言葉を残して彼は去って行った。
彼だけは大丈夫っていう自信があったのに。だけどそれは根拠のない自信、私の一方的な思い込みだったのだって、ある日突然気づかされてしまったのだ。彼という存在は私が何とか平常心を保つ最後の頼みの綱だった。だけどそれもあっさりと崩れ落ち、私の精神は崩壊寸前だったのだ。
友人が皆新社会人になってそれぞれのペースで活動していた5月、私はついに逃げ出した。
そしてやってきた。今まで来たことがなかった日本海側へ。この海辺から駅が3つほど東の、小さな田舎街に。
うちのおばあちゃんが京都でやっている下宿屋に15年も住んでいた男の人がいて、その人が日本中を旅して歩き回り、自分が気に入った田舎街で喫茶店を始めたのが3年前。
『アンタ、そこでちょっと修行しといで』
そうおばあちゃんが言ったの時にすぐに頷いたのは、病気になりそうだったからだった。もしかしたら既に病気だったのかもだけど、すんごく暗くて、自分でもこの世で一番嫌いな人間は自分です、って言いたい頃だった。
じわじわと迫り来る両親からのプレッシャーと自己嫌悪に押しつぶされそうで。
周囲の目が哀れんでいるように見え出してしまって。
やることもなく、ただ無為に過ごす22歳の春。
毎日が、少しずつ色を失って狂っていくのが目に見えて判るようだった。
『うん、そうする・・・』
私は電話口でおばあちゃんにそう答えた。
そして逃げてきたのだ。
おばあちゃんの長年の店子であったその人、市川さんのお店に。
それが5月のことで、今はもうすぐ8月。私は夏の足音が近づいてきている頃から、お世話になっている市川さんの店が休みの日にはアチコチを歩き回り、山や周辺の小さな町をウロウロしていた。
そして今日、初めてこの浜辺にきたのだ。市川さんの店から一番近いバス停からガラガラのバスに乗って、10ほどの停留所を過ぎたあとで。
水着とタオルと浮き輪だけ。それは鞄に突っ込んであったから、そのまま砂浜へと降りてきたのだ。
そして今、広大な海原の端っこで、こうして太陽に焼かれている。
肌は順調に、真っ赤になっていった。
「うーん、メグちゃんてさ、実は馬鹿でしょ」
市川さんはそういって、大きな腕を体の前で組んだ。
私はがるるとうなり声を上げてから、横たわったソファーの上から抗議する。
「ひどーい!酷いです〜!苦しんでる少女に、何てことを!」
「だって判ってたでしょ、こうなるの?」
見事に真っ赤に日焼けした私の肩を、そう言って市川さんはペシリと叩いた。
「ぎゃー!!」
「こーんだけ焼けてりゃそりゃあ地獄だよなあ。こりゃ風呂はやめたほうがいいよ、死ぬからマジで」
「うううっ!痛い〜!ご、ご、拷問ですよ!叩くとか何ですか!!」
涙ながらに私が苦情を申し立てると、にやりと笑った市川さんがもう一度肩を叩く。
「ぎゃー!!」
「やっぱり馬鹿でしょ」
「鬼!鬼でしょ市川さん〜!!」
あまりに日焼けしすぎてヨロヨロで帰ってきた私を、店の主である市川さんは驚き呆れながら迎え入れた。
そして冷やすために氷嚢を作ってくれてソファーに寝転ぶ私の背中においてくれつつ、苛めるのだ。
海から上がった時には既に後悔していた私。ああ、どうしてちゃんと海に入って体を冷やしておかなかったのだろう!って。結局浮き輪の上に寝転んだままで、背中もお腹も平等に焼いてしまった。同じくらいの時間ずつ。お腹が温まったから、今度は背中をあっためようって。
やっぱり馬鹿なのかもしれない。
「当分刺激物は控えないとダメだよ、これ。肌の手入れは熱がひいてから。そんで、ビタミンを多く食べないと」
馬鹿だ馬鹿だと繰り返しながら、市川さんはハチミツ檸檬を作ってくれる。
「ほれ、これでも飲んで、アロエパックでも載せときな」
そしてやっぱり馬鹿だ馬鹿だといいながら、お風呂に入りに行ってしまった。
・・・ガックリ。
私は全身の痛みに耐えながら、涙目でハチミツ檸檬をすする。
この日焼けはいつ落ち着くだろうか。というか、私は今晩眠れるのだろうか?
明りを落とした店の中は静かでほの暗い。
市川さんが趣味で集めている沢山の蝋燭。店の中に散らばっているランプのいくつかに火をいれてくれていて、そこだけがぼんやりと光を放っている。ヨーロッパのウッドハウスをイメージして作られた内装に、たまに和風のものが存在を主張している、不思議に落ち着く空間。明るすぎず、暗すぎないこの店は、一目みたときから私のお気に入りになった。
おばあちゃんが何て言ったのかは知らないけれど、突然現れた私を、市川さんは受け入れてくれた。
寝る場所として2階の廊下に置いてあったソファーベッドを提供してくれて、給料は出せないけどご飯は出すから、ここで働いてくれ、と言った。休みの日は好きにしていいから店のある日は業務を手伝うこと、それが条件だった。
「ただし、悪いんだけどさ」
あの日、市川さんは困った顔で頬をかきながら言った。
「いつまでも気が済むまでって格好良く言いたいんだけど、そうもいかないから、とりあえず9月半ばまでって事でいい?」
市川さん一人でも十分回っている小さな店。私が一人入ったら、もうやる事がなくなってしまうような量の仕事。今は夏休みで旅行中の人が食事に寄るので忙しいけれど、そうでなければ申し訳ないくらいだった。
だから私は頷いた。それでいいです、有り難うございます、と頭を下げて。
おばあちゃんの情報によると市川さんは36歳くらいで、8年かかって京都の大学を卒業して、未婚らしい。大きな体をして、天然パーマのかかった黒髪は長め、ハッキリした眉毛のせいで意思が強そうな顔をしている。そして、男の人が好きらしい。
『あの子は大丈夫だよ、恵ちゃん』
電話口でそうおばあちゃんが言うから、私は怪訝に思ったのだった。それってどういうこと?って。年頃の孫娘を一人でやっても、心配のない成人した男性ってどんなの?って。
すると笑って言ったのだ。市川君はね、男の人にしか恋愛感情を持たないんだよ、って。何度も相談に乗ったしね、それは確実だよ。だからアンタが一緒に住んだって平気なの。もしかしたら市川君とアンタは、姉妹みたいな関係になれるかもしれないよ。
ふーん、と乾いた心で思った。あまり興味がなかったとも言える。
実際、私はどうなってもいいって思っていた頃だったのだ。
世間に拒否されて暗くなっていた時期だったので、その市川さんて男の人とどうなってもそれはそれでいいかも、なんてふざけたことも考えていたりした。襲われるのはちょっと怖いけど、まあそれも仕方ないのかな、て。それに私を必要と思ってくれるならもう何でもいいや、体くらいあげるよ、そんな風に。いくら男の人が恋愛対象だと言っても、体が男なら女体に興味をもつかも、とか。
だけど、到着した日に呼び鈴に応えてドアを開けた大きな男の人は、とても澄んだ目をして私を見たのだ。そして優しい笑顔を見せた。
その時に、恥かしく思った。
市川さん、邪まな私ですみません、って。
市川さんはぼけっと突っ立つ私を店に招き入れてくれて、温かくて美味しい紅茶を出してくれて、私の名前を確かめ、市川ですと自己紹介をした。ちょっとぶっきらぼうだったけど、それも今なら照れてたのだな、と判る。彼はおばあちゃんの話を面白おかしくしてくれて、初日で緊張している私を慰めてくれもした。
この澄んだ目のように心も澄んだ人なのだろう、滞在2日目にして私はそう思い、疑っていた自分を大いに恥じたのだ。
というわけで、実にプラトニックな、年の離れた兄弟か従兄弟のような関係で、私は市川さんのお世話になっている。初めは市川さんも何と言うか、居心地が悪そうにしていたけれど、年の若い同居人がいるということにすぐに慣れてくれた。俺だってルームシェアはしたことがあるしって笑いながら。
滞在先が温かい場所で、その日から、私は笑顔が戻りつつある。
さすがだ、おばあちゃん。
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