・逃亡者メグ・1
・・・ねえ
悲しいから泣けるとか、嬉しいから笑えるとか、
そんなことすら難しくなることが人生にはあるんだねえ。
人生というのがいつまでも順風満帆でないってことくらい、ちゃんと判っていた。
だけど、管理された日本という国の平均的な中流家庭に育った私、挫折を味わうのが遅すぎたのかもしれない。一日二日で気持ちを切り替えることが出来るようなちょっとした挫折なんかじゃなく、強烈な挫折はこの年になるまで味わったことがなかったのだ。
だから、酷く落ち込んだ。
これが奈落の底かってほどに。
ここで一つ質問。ねえ神様仏様、その他世界中で信仰されているあまたの対象物たち、答えがあるなら教えてほしいの。
酷く落ち込んで、もうこのままでは地球の真ん中まで沈みこんでしまうかも、というほどの状態の時、一体どうすることが正解?
日本人だから日本人が受ける「学生時代」を順当にこなしてきた。大体が、正解は一つきりで、それを解答欄にかくことに必死になってきたのだった。
国語でさえも、回答があるの。主人公はどう思いましたか、って。そんなの複雑な人間の心の本音までは誰も知らないはずじゃあない?って思うのだけれど、とにかく点数を取るためには回答があって、それをちゃんと埋めることが生徒の役割だった。
私もそうやってきた。今までずっと。
だから、言われたことをやり、言われたように進み、それでいざって時に放り出された真空で、途方に暮れてしまったのだった。
どうしていいのか、さっぱりわからずに。
世間の人はどうしているのだろう。
壁にぶつかった時?
すごく落ち込んだ時?
世を儚んだ時?
例えば友達と街へ出てオールナイトで遊ぶとか、自棄酒を飲むとか。凹んだ時の色んな対処方法が、それこそ人の数だけあるのだろうって思う。それは私でも判っていた。
そして、一番いい方法としては、どっぷり悲しみに浸ったあとはきっぱりと前をむいて、ただ歩き出すってことなのだって。前向きが服きて歩いているような状態。それを、世間の人は歓迎するし、賞賛もする。なんなら応援までしてくれるのだ。過去は過去だって。
そうして、平凡な毎日を再び手に入れる。
決まった時間に決まった支度をして決まった場所へと仕事をしにでかけていく。
いいなと思う人と出会ってうまくいけば結婚し、運がよかったら妊娠出産する。そして、今度は親として人生を歩いていくのだろう。
そうなるのが平凡だけど確実な幸せだって思って。
だから前向き、それをキーワードにして、挫折に打ち勝つ必要がある。
だけど、元々自分を崖っぷちまで追い詰めて物事をやり遂げる癖のある私は、既にそんな気力も体力も精神力も1ミリだって残っていなかった。切り立った崖に指一本でぶら下がっているような状態を1年以上も続けていて、もう崖の上にはどうやったって上れないと判ったから、そこからいきなり華麗でワイルドなダイブが海に出来るかって言われたら無理でしょ。当然みっともなく落ちていく、そうなると思うの。腕も足もバタバタさせて、絶叫をあげながら。もうすぐに海の冷たくて硬い表面にぶつかって死んでしまう――――――――――
とにかく、心情的にはそんな状況だった。
だから、採った案はこれ。
ドン底の自分を救う為、冷たくて硬い海へ落ちつつある自分を救う為に、とにかく、私は逃げ出した。
言葉が、空から落ちてきた。
まったくそんな風に、私は口から言葉を出していた。
シュガーどこですか、って。
目の前の男は口を少し開けたままで、浮き輪に空気を入れるのをやめてじいっと私を見ていた。
それから不思議そうな顔をして、小さな声で言う。
「・・・ここにいるけど?」
って。
「え?」
いる?
今度は私が怪訝な顔をして、男の言葉を繰り返す。
会話としては成り立っているけれど、全く意味が通じてない、そんなことがこの世の中では多々ある。今回のそれもその一つ。そこまで考えて、ようやく私は気がついた。そしてため息をついて言いなおす。
「ああ、ごめんなさい。あの、砂糖です。コーヒーとか紅茶にいれる、砂糖」
もうすぐ7月が終わる、そんな時期の田舎の海辺だった。
立ち並ぶ寂れた民宿のお客さんである家族連れがチラホラと見える、そんな静かな海水浴場。猫の額ほどの小さな砂浜で、海の家なんて立派なものもなくて、貸しシャワーとゴザが2畳分ほど敷いてある休憩小屋、それから浮き輪の空気入れサービス、そんなものしか地元の店もない静かな浜辺だった。
その浮き輪の空気入れサービスにいる男性、彼くらいにしか、聞ける人がいなかったのだ。現在私が必要としている砂糖を、持っているかについて。
だけど言い方を間違えた。
お砂糖はありますか、そう聞くべきだったのだ。それなのに、深く考えもせずに『空から降ってきた』言葉をそのまま言ってしまったら、あんな変なことになった。
「あ、その砂糖ね。シュガーって言うから・・・」
男は苦笑した。
夏の太陽に焼かれて黒く光る顔をほころばせて、ちょっと困った顔をして。彼は座ったままでの作業を再開しながら、あっさりと首を振る。
「ないよ、そんなもの。食べ物出してるわけじゃないし」
見たら判るだろう、そんなニュアンスが感じられて、私はちょっとムッとする。
だけどすぐに思いなおした。仕方ないか、確かに食べ物を売ってる店ではないのだから。
「そうですか。お邪魔しました」
後ろは振り返らずに歩きだす。
昼間の太陽は真上でギラギラと光り、肌をどんどん焼いていく。ちりちりと焼ける音がするようだった。
私はビーチサンダルで焼けそうに熱い砂の上をずんずんと歩きながら、ふと考えて首を捻った。
『ここにいるけど?』
あれって、一体どういう返答なわけ?
寄せる波に大きな浮き輪を浮かべて、私はその上に体を乗せて力を抜いている。
透明度の高いこの海水浴場は空いていて、波に一人で揺られていると自分しかいないのかと錯覚しそうになる。たまに耳に飛び込んでくる家族連れの子供の笑い声に、ハッとして驚くのだった。ああ、そうか、ここはプライベートビーチなんかじゃないんだって。私は一人だけれど、他の人は皆だれかと一緒にいて楽しい夏のひと時を過ごしている。
大きな帽子とサングラスで日光を遮断してはいるけれど、それでも視界が白く染まるような真夏の昼間だった。
海にきて大して泳ぎもせずにこんな風に甲羅干しをしていたら、どれだけ強力な日焼け止めを塗っていても肌は真っ赤に焼けてちりちりと痛みだす。それがわかっているのにそのままだった。
海辺の田舎町に行く事が決まってから久しぶりに箪笥の奥から引っ張り出した水着はビキニ。つまりほとんど肌を覆っていない。
・・・ああ、こりゃあ火傷のレベルだわ。私は一人でそう思って、だけどやっぱり姿勢をかえずにプカプカと浮いていた。
砂糖、持ってくればよかったな。スティックシュガーを一本鞄に忍ばせる、それだけでよかったのに。そう心の中で一人ごちる。日本中に置かれた自動販売機で、今では山の上でも住宅街でも飲み物が買える時代だ。それと同じように砂糖や塩だってどこででも手に入る。そう思っていたし、海の家くらいあるだろうと考えていたから持ってこなかった。なのにまさかの飲食店ゼロ。
口に入る海の水はしょっぱくて、私を物悲しくさせる。
天国みたいな景色の中、気楽に浮き輪の上で寝そべっているだけなのに、塩味を感じて悲しくなるなんて馬鹿げてる。そうは思っても、心の底から深いブルーが湧き上がるようだった。
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