「はひゃ・・?」

 変な返答になったのは判っていたけれど、もう舌が回らない状態だったのだ。私は市川さんが言った爆弾発言の意味をやたらとゆっくり考えて、長い間頭の中で咀嚼していた。

 ぼーっとしたままの私を見て、テーブルに頬をひっつけたままで市川さんがまた大声で笑う。

「メグちゃん酔ってるね〜!!判ってないだろ、俺が言ったの」

 あはははは!市川さんの声が店内に木霊する。

 え、え?何か今って笑うところ?そんな話題だったっけ?確か、確か今、市川さんは――――――――

 私はぐるぐる回る頭の中で、ようやくその言葉に行きついた。

 子供がいたんだよね。・・・・子供、が・・・・。え。えええーっ!?

「えええええ〜っ!??い、い、市川さん、何ておっしゃいました今!?こここここ子供、子供っ!?子供ってあの子供!?マジですか?」

「へーいDJメグ!舌がまわってないぞ〜」

 ゲラゲラとまた笑っている。

 酔っ払いの市川さんがグラスを取ろうとして、手を滑らせた。バランスを失ったグラスは底を軸にしてくるりと回転し、そのまま止める間もなくカウンターから落ちてしまう。

 ガッシャーン。その冷たい音で、私は一瞬ハッとした。

「・・・ああ、やばい。割っちゃったよ勿体ない」

 市川さんが手の平で髪の毛をぐちゃぐちゃとかき回して、情けない顔をした。彼の天然パーマの髪は今ではすっかり乾いていて、更にふわふわになってしまっている。

 私はまだ驚きの中にいて、ただじっと床の上の割れたグラスを見詰めている。拾わなきゃ、と思うけど体が動かなかった。市川さんも同じようだった。椅子を降りて屈もうとしてよろめき、仕方ないとため息をついて、カウンターにもたれかかったままの体勢で靴でガラス破片を集めている。

 そのままで口を開いた。

「俺が休みの日に、何してるのかって前に聞いただろ」

「は・・・?えっと、あー・・・はい」

 酔いが邪魔して話が頭に入ってこない。市川さんはいつもと違う。それから、どうやら謎がとけるらしいってわかっていた。

 私はジンを瓶ごととって自分の頬にひっつける。少しでも冷やそうと思ったのだ。そして、ちゃんと話を聞こうって。

 ちゃりんちゃりんとガラスが床を擦れる音がする。片足で破片を集めながら、ぼーっとした顔で市川さんが話した。

「詐欺にあった人達のね、救済事業をやってるんだよ、実はね・・・。それで店が休みの日に、電話とかパソコンで仕事をしてるんだ」

 詐欺?・・・の、救済事業?それってつまり、ナンだ?

「・・・別にお仕事してらっしゃったんですか」

 私は小声でそういう。床のガラス破片から目を上げて、市川さんがにやりと笑った。

「野菜を作って店をやってるけど、独身とはいえそれだけではやっぱり生活出来ないんだよ、メグちゃん。完全な自給自足じゃないし、そもそもここは客も少ないから売り上げもないしね。維持費だって馬鹿にならない」

「はあ」

「元々は京都でボランティアでやっている人達の手伝いをしてたんだけど、何人かで会社を作ってね。俺もその一人になってるんだ。本業は喫茶店だけど、副業みたいな感じで、色んな詐欺にあった人の手助けをしている」

「はあ」

 自分でも間が抜けていると思ったけど、そんな返事しか出てこなかった。話がどこへいくのかが判らなくて、とにかく自分の頭を冷やすことに一生懸命だったのだ。きっと私の眉間には皺がよっているはず。

「ちょっと話ずれるけど、メグちゃんは詐欺にひっかかりやすいタイプだから気をつけな。今は特に情緒不安定だし、初歩的な嘘にでも騙されそうだよ。それに根が真面目で人の言葉をすぐに信用するでしょ、そこ、心配」

「へ?ああ、はい、気をつけます・・・」

「自分の選択に自信がなかったら必ず周囲の人間に相談すること。そして、周囲の意見に耳をかすことだよ。覚えておいてね、約束できる?」

「は―――――はい」

 酔っ払っていて自信はなかったけれど、小指を差し出されたから指きりげんまんをした。満足したらしい市川さんは、よし、と頷いてから、また片足でガラス片を集めだす。

「――――――で、その活動中にね、ある女の子に会ったんだ。まだ京都にいてボランティアでやっていた時だったけど」

 市川さんが大きく息を吸い込んで、時間をかけて吐ききる。表情が一気に暗くなっていた。

 さっきまでの陽気な酔っ払いがどこかへと消えて、目の前には巨大な影を背負った男がいる。私は思わずそんなことを思って、無意識にカウンターに掴まった。私は若干怯えていたのかもしれない。

「お水をして暮らしている独身の女の子だった。家族がおらず、大学にはいかないで夜の世界に入り、詐欺に会って財産を全部失ってしまっていた。話を聞いたり詐欺犯を見つけたり弁護士の手配をしたり・・・そういうことをやっていて、俺はその子と仲良くなったんだよ」

 目を一杯に見開いて聞いている私にむかって、市川さんが首を傾げた。

「うーん、メグちゃんは聞いてるのかな?俺は、男の人に恋愛感情を持つ人間なんだ」

 私は頷く。それを見て、市川さんも頷いた。

「だけど、その子を抱いた」

 仰天した。

 ここにお世話になる前に私が考えていたようなことが、実際に、過去にあったらしいってわかったからだ。酔っていたのに、市川さんのその言葉だけはまっすぐに頭の中に入って理解できた。

 やっぱり女の人を抱けるんだ!

 多分私の口は開きっぱなしだったと思う。だけど市川さんは話を続ける。私の方は見なかった。

「冬で、しばらく食べてないって言ったあの子は精神的にもボロボロになっていた。暴力も受けていたし、友達もいなくて。俺達が紹介していた施設が満員で行く場所がなく、俺は自分の部屋に泊めていて、体調がよくなるまではここにいろって世話をしていた。それで・・・まあ、何日かいて、彼女は俺に迫ってきたんだ」

「・・・あら」

 つい漏れた言葉に、市川さんが頷いた。

「あの子にはそれしかなかったんだよ。そんな方法でしか、感謝を表せなかった。他に方法を知らなかったし、その頃には俺を信用していて、不安を殺すためにも頼りにしたかったんだろう。父親や兄みたいに。俺はゲイだって知っていたけれど、自分のやり方で居場所を見つけたがったんだな。今から考えるとね」

 とにかく、そう言って市川さんはぐるりと首を回した。

「彼女とそういうことになった。自分を騙しているような状態で2ヶ月半くらい一緒に住んでいた。だけど俺には恋人がいたし、余りにも不安定な立場だった。こりゃあやっぱりまずいなって思ったんだ。だからその子は自分の部屋にいさせて、俺が部屋を出た。2,3日頭を冷やそうと思って。外に放り出すことは出来なかったし、どうすればいいのかも判らなかった」

 市川さんは一度言葉を切る。私はぼんやりと考えた。その頃の市川さんは、多分私と同じくらいかちょっと年上くらいだったはず。どうすればいいのか判らなかった、という言葉が頭の中をぐるぐると回転していた。

「それでしばらく・・・1ヶ月くらい、友達や知り合いの家を転々として・・・ある日、彼女とバッタリあったんだ」

 また、あらって言いそうになった。だけどぐっと口を噤む。市川さんの目はその京都時代へと戻ってしまっているようだったから。話し相手が私であることなど、もしかしたら忘れているのかもしれない。ジンの瓶をぐっと顔に押し付けていたので、頬が痛みを感じていた。

 囁くような声だった。アルコールで赤らんだ顔をランプの光に向けて、市川さんは小さな声で話す。

「まだ早朝だった。覚えてるんだ、朝の5時半近く。俺は泊まっていたカプセルホテルから出て・・・駅の方へと歩き出したとき、呼ぶ声が聞こえて・・・あの子がいた。走り出したんだ。こっちへ。だけど間の横断歩道の信号は赤で・・・あの子は角を曲がってきた車に轢かれてしまった。運転していたのが未成年だったのかもしれない、それとか飲酒運転だったのかも。とにかくその車はそのまま逃げてしまって、俺は救急車を呼んで彼女を病院へ運んで。・・・だけど打ち所が悪くてね、すぐに逝ってしまったんだ」

「――――――」

 苦しい話だった。それに続きがわかってしまった。聞きたくなかった、正直に言えば。

 でも酔っ払っていて足もうまく動かないし、拒否することも出来ずに途方に暮れて、私はそこに座っていた。

 判りました、もうやめてください。そう言えなかった。

「あの子は妊娠していた。時期から考えて俺の子供だろうね。確かにあの子は避妊を極端に嫌がっていた。俺を繋ぎとめる為なんかじゃなくて、自分の家族が欲しかったのかもしれない。でもその事故で二人とも一緒に亡くなって――――――――」

 市川さんは急にそこで言葉を切った。

 そして、驚いたような顔で私をじっと見る。

 今、気がついたようだった。私に過去を話していることに。

 私から目を離し、もたれていたカウンターからゆっくりと体を起こして、市川さんは黙ったままで店を出て行った。

 あとに残ったのは、炎が消えそうなランプと、食べ散らかしたお菓子と、並んだ瓶、それから割れたグラス。

 それから、私。

「・・・・・ああー、全く・・・」

 残された私はそう呟いて、よっこらせと掛け声つきで椅子から降りる。フラフラしていた。これはヤバイかも、そう思って、カウンターの中へとまわり冷たい水を飲む。コップに3杯。それでようやく視界がマシになって、ため息をついた。

 砂糖が欲しいわ。絶対、今必要。

 スプーンを取り出して、砂糖壷に突っ込む。大盛りにすくいとった砂糖を、そのまま口の中へと突っ込んだ。

 凄い勢いで広がる甘さに、頭の中までクラクラする。・・・ああ。安心した。やっぱり緊張していたらしい。体が固まった私は、とても砂糖を欲していたのだ。

 明日は二日酔いだろう。それに、今晩は悪夢を見る気がする。

 ため息を長々と吐いてから、箒と塵取りを出して割れたガラスを片付ける。

 疲れ切っていた。

 ちゃんとした掃除は、明日の朝にすることにした。


 敷地内の隅、市川さんが朝日に照らされながらずっと立っていたあの場所。目を閉じて思い出すのは、あそこに何気なく転がしてあった大小の石が二つ。

 ・・・午前5時半頃、亡くなった彼女、お腹には市川さんの子供。

 そうか、そういうことなんだな。

 私はソファーベッドに寝転がり、目を閉じたままでちょっとだけ涙を零す。

 市川さんの「楽園」は、決して楽しいばかりの場所じゃあなかったんだ。

 日本中旅をしてまわり、ここに喫茶店と家を構えると決めたと聞いていた。それまでの間に、一体あの男の人は、どれだけの苦しみや悲しみを感じてきたのだろう――――――――――――


 夜明け前に目が覚めた。


 あれだけ飲んだのに、二日酔いにはならなかった。







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