・ショットナイト・1


 闇にすっぽりと包まれた市川さんのお店で、私は市川さんとのんびり寛いでいた。

 市川さんは、休日はお風呂に入るのも早くて既に茹った状態になっていて、甚平をサラリと羽織ってビールを飲んでいる。まだ濡れた後髪が首筋に張り付き、黒くて緩くカールしている前髪が額に落ちていた。ほんのりと赤くなった頬にぼけっとした放心顔。瞳にはいつもの穏やかな光は見えなくても、代わりに少年には出せない哀愁のような雰囲気が見え隠れする。こういう時の市川さんは、普段は隠している年齢相応の色気をリミッターゼロで放出していて、たまに私は目のやり場に困ることになる。

 おおー!大人の男性がこんなところに落ちてる!って。

 しかも色気むんむんで!

 それも多分無自覚で!

 うわあ〜、どうしましょ〜。

 で、ちょっと残念に思うの。この人、男が好きなんだったよなあ〜って思い出して。あたしじゃ相手にならないんだよね、とか思ってしまって。

 私はシュガーから受けた「天真爛漫な当たり前」攻撃がまだ効いていて、いつもよりもテンションが低かった。そんなわけで、ぼーっとどこかを見詰めている放心状態の市川さんとグダグダと沈みつつある私の二人で、静かな夜を過ごしていた。のんびりと。大いに自分達の世界へ埋没して。

 時計がカチコチとなる。いつもは気がつかないその音ですら、大きく聞こえるくらいに静かだった。

 ビールを瓶ごと飲んでいた市川さんが、音を立ててそれをカウンターにおいてから、ぼそっと声を出した。

「・・・メグちゃん、今、何か凹んでんの?」

 私は両腕をカウンターにひっつけてそこに頬をのせた状態で、目の玉だけを動かして雇い主を見る。市川さんも半身をこちらへ向けて私を見ていた。だから、微かに頷いた。

 市川さんは肘をついて片手で顔を支え、私をじーっと見ている。

 言ってみなってことなのだろうか。二人の間に広がるしばしの無言。それは居心地の悪いものではなかったけれど、折角だから話すことにした。

「・・・会ったんです。シュガー男に。ビーチで。また堤防に座ってて夕日を見ていたらあの人が後ろからやってきて」

「また海へ落とされたとか?」

 きゅっと口角を上げながら市川さんが聞いた。シュガーにふいをつかれて海へ落とされたことは、勿論報告してあった。彼はその話を聞いた時には不機嫌に顔を顰めて腕を組み、シュガーに対してムカついていたようだったけれど、今は面白いことだと思っているらしい。

「落とされてません。気をつけましたから。普通に話をしただけです。あの人のあだ名の由来とか、そんなのを」

「ふーん。ほな何で凹んでんの?」

 ひゅっと関西弁が出た。

 いつものことだけれど、普段綺麗な標準語を話している市川さんがいきなり関西弁を使うと驚いてしまう。

 ええと・・・と言葉を選びながら、私は寝そべっていたカウンターから身を起こした。

「シュガーと話していると何だか居ても立ってもいられないような気分になるんです。わかります?あっちが凄く自由で、気軽に思えて、自分は何してるんだろうとか考える・・・というか。ざわざわします」

「うーん、まあ、何となくはわかる。あの子は凄く生き生きとしているもんね。後悔なんて文字は知らねえって感じで」

「そうですよね。・・・何だかモヤモヤして・・・。会わないほうがいいんですかね。まあ私から会いにいってるわけではないんですけどー」

 市川さんは考えるような顔でビールを飲んだ。

「今まで周囲にいないタイプの人間なんだろうな。それって・・・貴重じゃないかな。滅多にいないタイプの人間と話す機会というのは」

「ふうむ、なるほど」

「成長に繋がるかもよ」

「ううむ」

 そういうものかな。私は再びカウンターに腕をついて寝そべり、ため息をついた。

「メグちゃんは、この春からずっと不安定だっただろ、情緒がね」

 市川さんが優しい声で言う。

「あの子、シュガーの彼はとても安定した精神の持ち主だと思うんだよ。ぶれない。自分に正直って点で」

 私はカウンターに顔をつけたまま、じっと聞いていた。市川さんが何を言うのかがわからなくて。

「何をチャンスだと思うかは人によって違うよね。でも俺はこう思うよ。彼に会えたのは、メグちゃんにとってチャンスだって。あの子の考え方や物の見方を、言い方はよくないけれど盗んでみるのがいいと思う。今まで周囲に居なかった人間で興味深い相手なら、じっくりと観察してみりゃいいんだよ」

 ・・・観察。シュガーに会ったのは、私にとってチャンス?

 あのあっけらかんとした態度や陽気な性格を、真似するべき?

 そうしたら私は灰色で底なしの自己嫌悪から抜け出せる?

 その時の私はまだウダウダと沈んでいたので、市川さんの言葉を頭の中でぐるぐるとかき回していただけだった。

 市川さんはしばらくその反応のない私を見ていたみたいだけれど、よし!といきなりハッキリと声を出して立ち上がる。

「え?」

 驚いた私が顔を上げると、ちょっと悪そうな笑顔をして市川さんが言った。

「メグっち、二人だけど、酒盛りしようか!」

「え、ええ?」

「よく考えたらいつも夜は一緒に飲むけど、ご飯の延長上って感じだっただろ。ついでみたいな。そうじゃなくて、飲むって決めてがんがん飲もうかってこと」

「あのー」

「よし、そうしよう!」

 いいと返事もしていないのに、市川さんはパンと手を叩いて椅子から飛び降りた。

 ・・・げ、元気だ。いきなり。さっきまで放心状態で天井あたりを見詰めていた大人の人はどこへ消えた?

 驚いていたけれど、市川さんが張り切って酒盛りの準備をし始めたので私も慌てて動き出す。店のお酒使っていいのか?とか色々オロオロしたけれど、市川さんは気にしていないようだった。

 つまみにってクラッカーにクリームチーズを乗せて大皿に並べ、どこから出したのか特大のポテトチップスまで出してきた。私は初めて目にした、パーティーサイズってやつだ。

「い、市川さん!晩ご飯食べたあとですよ!?もしかして足りなかったですか?」

 今日は休日だから私が晩ご飯を作る。店に戻って来て最初にその仕事は終わらせ、お風呂に入る前の市川さんは確かに食べていたはずだった。

 ん?と首をかしげながら市川さんは棚からジンを取り出した。

「別腹」

 ・・・さよですか。

 小さなショットグラスを二つ並べて市川さんが注ぐ。透明なその液体は蝋燭の明りにユラユラ揺れて、私は一瞬見惚れてしまう。

「ほら、メグっち。飲もうぜ、たまにはいいだろう」

「あ、えーと・・・はい」

 雇い主がそういうのだから、こちらは異存などあるはずがない。市川さんも私も酒の許容範囲はさほど違わないはずだし、明日が仕事だってことは勿論わかっている。だから無茶な飲み方はしないだろう。

 覚悟を決めて、私はショットグラスを手にした。

 ちょっと企んだような笑顔のままで、市川さんがグラスをあげる。乾杯しよう、初めての本格的な酒盛りに、って言いながら。

「人生に」

「・・・人生に」

 グラスはカチンと冷たい音を立てた。




 ほどほどに飲むのだろう、私はそう思っていた。勝手にね、そうだろうって。だって明日はお店もあるし。

 だけど、市川さんの「決めて飲もう」というのは、本気の飲みモードだったらしい。

 夜の闇が深くなって市川さんの店を取り囲む、虫の声も聞こえなくなってきていた深夜1時。最初に市川さんが取り出したジンの瓶は空っぽになっていて、何と二つ目の瓶が開いていた。

 ショットグラスでドンドン飲む。最初はお腹の中からぐわっと熱がこみ上げるような感覚があったジンのアルコールにもよく判らなくなってしまっていて、途中からは何が何だかよくわからないけど楽しくて二人でゲラゲラ笑っていたのだった。

 市川さんはいつも穏やかで笑っているけれど、明るいタイプの人ではない。ニコニコしているけれど、あまりお喋りではないし、ふとした表情が厳しいときだってある。彼をとりまく謎が余計そんな印象を抱かせるのかもしれないけれど、とにかく底抜けに明るいってことはないのだ。

 だけど、ガンガンお酒を飲んでいる今夜の市川さんは明るかった。

 普段の穏やかで安定した態度はどこかへ消してしまって、ちょっとした冗談にも大口をあけて爆笑している。鼻に皺を寄せて、目尻を下げまくって。京都のうちのおばあちゃんが経営する下宿の歴史とか面白い住民達のこと。大学を留年しまくって親御さんから勘当を言い渡されたことや、日本を旅して回っていた頃の話。

 ニコニコと大きな口で笑いながら、市川さんは話す。

「就職もさ、俺はしたことがないんだよ。そういう意味ではね」

「へっ?ど、どういう意味ですか?」

「つまり、大学の就職課へ行って相談したり、エントリーシートを書いたり、説明会に参加したりしたことはないってこと。会社で働いたことはあるけれど、就職活動をしたわけじゃないんだ。しんどいらしいね、あれって?」

 就活のことなら何でも聞いてくれ。私はぐいっと身を乗り出して、あの灰色の日々の話をする。その流れで別れた彼氏の話や、その後の泣き暮れた話、泣くことすら出来なくなった話までしてしまった。

 家族や友達ではない、不思議な関係である市川さんにこれだけ深く話したことなどない。ここへ来た当初、彼には勿論状況を説明していたけれど、彼氏にも振られて云々など関係のない話だったから、割愛していたのだ。

 市川さんはちょっと困ったような微笑で言う。

「彼氏が逃亡したって、それは仕方ないだろうな。よっぽど大物じゃないと無理だよ。二十歳やそこらで自分と別の人間の重みまで背負うのは」

「あうあう〜」

「俺の今の年齢とかならともかく、22歳でしょ、彼氏?無理だわ〜重いわ〜」

「あうううう〜」

「いいじゃない、人生にはそういうことだって必要だろうよ」

 あまりにさらりと言われたので、ちょっとムッとした。だって私の中では世界が崩壊するかってレベルの一大事だったのだから。

 それで私はショットグラスをカウンターに打ちつけるように置いて、市川さんに食って掛かる。

「そうなんですかっ!?そんなの私には必要だったなんて思えないけど、じゃあ市川さんはそんな経験あったんですか!?」

 市川さんはあっさり頷いた。

「そりゃあ、あるよ。もうそりゃ色々―――――――」

 ひゅっと急に言葉を切って、市川さんはちょっとぼけっと空中を見詰める。私はぐでんぐでんに酔っ払っていたので、一人でぶつぶつ言いながらポテトチップスに手を伸ばしていた。

 すると一度頭を手でかき回してから、あーあ、酔ったなあ〜!って大声で言いながら、市川さんが赤くなった頬をカウンターテーブルにひっつけた。

 その時、いきなりこう言ったのだ。

「俺さ、実は子供がいたんだよね」

 って。




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