・ずぶ濡れの夕方・1
昨日、店から無言で出て行った市川さんがどうしたのかは知らない。2階の自分の部屋へと戻ったのなら音で目が覚めるだろうって思ってたけど、それもなかった。部屋に戻らなかったのか、もしかして、店で寝たとか?
どういう顔をしていいのか判らないまま、喉の渇きに負けて私は1階へと降りる。
時刻は朝の6時45分。いつもの市川さんなら、起きて掃除なんかをしている時間だ。
店へと降りる階段の一番下で、木のドアをゆっくりと開けてみた。
流れてくるのはいつもの朝の音。お湯が湧く音、開け放したガラス戸から風が入ってブラインドを揺らす音、それから市川さんが箒を使う音。
私はドアを開けた。
店の入口辺りを掃除していた市川さんが、屈んだ姿勢のままで振り返る。そして、言った。いつもと同じ声色と笑顔で。
「メグっち、おはよー」
「・・・おはよう、ございまーす」
うーん、普通だ。普通だな。じゃあ私も、普通で・・・きっと昨日のことは会話にしないって暗黙の了解なのだろう。じゃあそんな感じで・・・。
考えながらカウンターに入り、冷蔵庫から水を出していると市川さんの声が聞こえてひっくり返しそうになった。
「昨日、寝れた?二日酔いになってないかー?」
「え、え?」
あ、するの、昨日の話!?
私は慌てて水をカウンターにおいて、とりあえず返事をする。
「あ!眠れ、ました。あの・・・市川さんは部屋に戻ったんですか?」
彼はにっこりと笑った。
「うん、ちゃんと自分の部屋で寝たよ。頭冷やしてから戻ったけど、メグちゃんを起こさずに済んだみたいだね、良かった良かった」
あ、ちゃんと自分の部屋に帰ったんだ。私はホっとして、水を飲む。朝起きて市川さんが消えてしまっていたら、どうしようかと思っていたのだ。もう帰ってこないとしたらって考えていた。
「ガラス片付けてくれたんだな、ありがとう」
「あ、いえいえ、大丈夫ですー」
「それにきっと心配かけたと思うんだ」
市川さんが箒を仕舞って、私の方へと歩いてくる。
「ごめんね」
私は頷くだけにしておいた。何を言ったって、微妙にずれてしまう気がしたのだ。沈黙は美徳の母也。
さて、と言って市川さんがカウンターに入ってくる。これから朝食を作ってくれるのだろう。私は身支度を整えるために洗面所へいくことにした。
ちょっと安心した。
良かった、いつもの市川さんがここにいて。
8月の終わりで、旅行客も目に見えて減りだしている。それでもまだツーリングの団体さんはやってくるので、ランチ時にはバタバタすることもあった。
だけど虫の声が変わってきていて、風も、ほんの少しだけど変わりつつある。カレンダーはもうすぐで9月になっちゃうんだな、そう思って私は物悲しさを覚えていた。
だってここは、居心地がいいから。
私は私のままで居ても許されるから。
何の期待もされず、自己嫌悪にも陥らず。
お昼が終わって一息ついたころ、店の電話が鳴る。この店に設置してある電話は滅多にならないので、私は最初目覚まし時計か何かが鳴っているのかと思ったくらいだった。
「はーい、ライターです」
市川さんが腕を伸ばして受話器を取り、肩で押さえる。その格好でしばらく向こうの話を聞いていたけれど、私と目を合わせてにやりと笑った。
「はい、ちょっと待って」
そう言って私へと受話器を向ける。
「え?私ですか?」
まさか。一体どこの誰が私に電話を!?仰天して、受話器を受け取るのが遅れてしまった。市川さんがほらほらとせかすので、慌てて受け取る。
だって家族や友達は用があるなら携帯にかけてくるし。まあここは圏外になることも多いので、というかほぼ圏外なので、ほとんど携帯電話の役割は果たしてもらってはいないのだけれども。
急いで受話器を耳にあてて、恐る恐る声を出した。
「代わりました。えーっと・・・?」
『メグ!よう、あんた今日の夕方暇かー?』
途端に受話器から聞こえてきた大音声に、一瞬耳が痛かった。
・・・は?誰だよお前。心の中でそう思って、ハッとした。この偉そうな感じは!!
「・・・どちら様ですか?」
判ってたけど言ってやった。まさか、店に電話をかけてくるとは。
『オレだよー!って、何か切られそうな雰囲気だな。切るなよ、待てよ〜!シュガーだよ、仕事から帰ってきて、暇なんだよオレ』
「・・・・・」
『おーい、メグだろ?聞いてる?』
「聞きたくないです。あなたは暇でも私はそうじゃないので」
市川さんが、お皿を拭きながらぷっと吹き出した。私はそれを横目で睨みながら口を尖らせる。
『だってそこで何やることがあるんだよ〜!浜辺に飲みに来ないか?花火やろうぜ花火!』
「結構です」
『ちっ!あんたは本当に可愛くねーぜ!そこはハイ喜んで、だろ!?もういいから店長に代わってよ、店長〜!』
耳元で叫ばれて、私は仰け反った。それから顔をしかめっつらにしたままで受話器を市川さんに突っ返す。肩をすくめて受け取った市川さんが、はいはいと電話に出た。
何なのだ、あの男は!なんてマイペースなのだ!全く羨ましい限りだわ―――――――――
「うーん・・・君一人だけ?他に友達はいないんだね?本当に?・・・そうだなー、今から4時までにしてくれる?帰れなかったら困るし、こっちも迎えにいけないからさ。・・・そう、花火はなしで。はーい、じゃあ、行かせます」
え!?っと私は大声を出す。何だって!?行かせますって、一体誰を―――――――
腕を伸ばして受話器を戻し、市川さんがニコニコと笑った。
「行ってきなよ、メグちゃん。昨日俺が言ったこと、忘れちゃった?あの子と出会えたのは何かの縁なんだよ、吸収しといで、彼のいいところをさ」
「え〜っ!!?私、行くんですか、浜辺まで?今から?行かなきゃダメなんですか〜っ!?」
「そう、行くんだ。ついでに街で醤油買ってきてよ。もう切れそうだからさ」
それは嘘だって知っていた。だってストック管理は私もしているもの。
だけど市川さんの善良そうな笑顔を見ていると、もう仕方ないと思ってきた。だって雇い主が行けって言ってるんだし・・・・気はすすまないけど。もう、くそ。
「・・・行ってきます」
「うん。4時過ぎたら帰ってきなさい。あの子にもそう言っておいたから。夜はダメだよってね。そしたらあの子なんて言ったと思う?うわー保護者だ!だってさ」
ケラケラと軽やかに笑って、市川さんは外を指差した。
さっさと行けってことらしい・・・。
何てこったい!私に話してもらちがあかないから、雇い主に頼むとは!あの男・・・案外頭が働くのかも。
私はため息をついて、エプロンを外す。ルームシューズからスニーカーへと穿き替えて、膨れっ面のままで、外へと出て行った。
店を出たのは2時前だった。
私はまた強烈な日差しの中、チャーリーに跨って麓の街までを降りていく。国道を走りながら目の前に広がる海は今日も機嫌よくキラキラと輝いて、まだまだ夏ですよーって言ってるかのようだった。
汗を垂らしながら浜辺まで行く。
駐車場に自転車を止めて、背負ってきたリュックからタオルを出して汗を拭った。
・・・さて、問題のシュガー野郎はどこにいるのか・・・。
夏の初めにシュガーが女の子とイチャイチャしていた自販機の裏を通り抜け、砂浜へと歩いていく。
誰もいない砂浜は小さく見えて、あんまりに眩しいので侵入を拒絶されているかのようだった。
目の上に手の平をつけて影を作り、シュガーの姿を探す。人を呼んでおいていないとか、ナシでしょ。ほんとどこにいるの―――――――――あ。
「見つけた」
つい、声が出た。
最初の頃に私が浮き輪に浮かんで甲羅干しをし、酷い日焼けをしてしまったあたりの水際に、誰か寝転んでいる。
・・・あれだろうなあ〜・・・他に人はいないし。
仕方なく、そっちへ向かって歩き出した。何かの用があるとは思えないが、一応来たことだけでも伝えないと、と考えたからだ。
ザクザクと音をたてて、水際に寝転んでいる男の方へと近づいていく。問題のその人物は、帽子を顔の上にのっけて寝ているようだった。
いくら何でも暑いでしょ。ほんとこの人、馬鹿なのかもしれない。
ゆっくりと近づく。その足音には気がついたらしい。寝ていた男の人が、片手でひょいと帽子を上げた。
「よーお、来たな!」
シュガーが、帽子の影でにっこりと笑った。
この笑顔を見ると――――――――確かに、怒る気はなくしちゃうかもね。彼の友達が店で言っていたことを思い出し、やけくそのような気持ちになる。私は歩いて彼との距離を縮め、隣に座った。
「飲むだろ?ビール、冷やしといたんだぜー」
そう言ってシュガーは、水際の砂の中に埋めていたビール瓶を掘り起こした。・・・まさか、海の水で冷やしていたとは!
「・・・ワイルドだ」
私はそう感想を言って、ビールを受け取る。キンキンとはいかないまでも、それはちゃんと冷やされていた。
自転車でも飲酒運転だよね・・・。そんなこともちらっと頭をよぎったけれど、とにかく喉が渇いていた。だから私は彼を待たずに蓋を歯で開けて一人で飲みだす。炭酸が喉にしみて、一瞬涙が出るかと思った。
「どうだ、美味いか?」
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