1−A
そう思って拾い、自分のポケットにいれたのだ。
隣の席だし、明日にでも返したらいいと考えて。
揺れる電車の中、まだ空気が熱い季節でクーラーもかかっている。立ち位置が悪くてちょっと寒くて、ドア前に移動した。
ポケットの中の赤い袋、その持ち主のことを考えてちょっとの間、ぼーっとしてしまう。
・・・佐伯・・・うーん、下の名前知らないな、そう言えば。
地味な女子だ。ああ、そんな子もいたなあと思うくらいの。彼女が何か目立つことをした覚えはないし、多分クラスの半分いる男子の内、彼女にいい思いを抱いているやつはいないんじゃないか、と思うくらいの。
俺が覚えているのだって、実際のところは「隣の席の子」だからだし。
隣の席の子、それがこの高校生活で、俺にとって結構大事な位置をしめているのには多少情けない理由がある。
どうしても眠くなるのだ。授業中。だって成長期だもん、と母親には言い訳するが、ほかの子だってあんたと同じ年でしょうが!とチョップをくらうと言い返すことが出来ない。
なんで皆普通に置起きてられるんだ?あんなに退屈な授業中に!先生の声は子守唄にしか聞こえないし、それに疲れが残ってるこの体では―――――――――
そこまで考えて、うんざりした。
俺は今、男子硬式テニス部に所属している。テニスなんて高校に入るまでしたことがなかった。だから、一年で初挑戦の俺は去年、テニス経験者ばかりの他の部員についていくのにとても苦労したのだ。
ラケットの持ち方からして判らない。他人が呼吸するみたいに軽々とあやつるラケットを、悔しく見詰めていた。軟式ではなく硬式で、ボール一つの重みが全く違うために最初の頃は腕も手首もやたらと痛かった。水泳とは使う筋肉が違うから、痛みに苦しめられる。ラッキーだったのは、幼い頃から泳いでいたせいで鍛えられていた肺の強さと、長い腕があったことか。
だから必死で練習して、練習して、水泳をやっていた時だってこんなに真剣にやったかなってくらいに没頭したのだ。
最初は苦しかっただけの部活動も、ラケットが自分の手に馴染んできてボールを何度も打ち返せるようになってきてからは楽しみに変わる。ずっと水の中にいて自分の激しい鼓動音だけを聞く水泳とは、世界が丸ごと違うみたいな新鮮さもそこにはあったのだ。
黄色いボールがきっぱりと晴れた青空へ上がる。
その景色が自分の中で当たり前になってきても、今でもコントラストに感動するくらいに。
自分の体以外のものを使ってスポーツをする楽しみが、俺にも判ってしまった。
呼吸すら気にしなくていい陸上のスポーツに、確かに夢中になってきたのだった。
で、2年目の今年、何とか試合に出られるくらいまで成長した。それを田崎先生は知っている。だから今日、俺がもし水泳部へ入りますといったならガッカリしたに違いないんだ。自分も苦労して育ててきた部員をとられるとなると。
俺が上田先生の誘いを断ったときの、一瞬緩んだ口元を思い出した。田崎先生は寡黙な人だけど、気まぐれに感情表現をする。今日はその瞬間を見てしまった。
うちの高校は硬式テニスはそれほど強くない。新入生で未経験が入っても大丈夫なほどだから、それは皆知っている。だけど去年と今年は所謂ルーキーがうちのクラブにもいて、3年の仁史先輩と同じ2年の幸田、彼らの活躍でかなりいい成績を収めていた。
そして今度、対校試合があるのだった。
本当は夏の大会で3回戦で破れて引退した、3年の先輩たちも参加する、毎年行われる隣町の高校との試合。
勝ったり負けたりで同じくらいのレベルと言えるその対校試合は、どうしても勝ちたい。そう叫ぶ先輩たちのためにも、俺達だって頑張ってきているのだ。
朝錬に昼練に夕練。たまには夜にまで練習が食い込むことがある。夏場だから日が沈むのが遅く、夏休みの間から今年はテニス一色だったのだ。
・・・・だから、眠いんだよな、きっと。そうに違いない。ってかそうだと言って欲しい。
とにかく眠いのだ。教室に入った瞬間から、その空間は優しく温かく思えるほどで、あんなに硬くて冷たい机なのにすんなりと眠りの世界へと連れて行ってくれる。
いやいやいや、ダメなことなんだ、それは判ってる。
思わず電車の窓ガラスに頭をゴンゴンと打ち付けたくなった。
俺だって眠りたいわけじゃない。お陰で2年に上がってすぐから先生方には常に睨まれているし、普通は高校生にはない宿題を大量に出されるはめになったのだから。だけどどうしても眠いんだ〜!
そこで、隣の席に座る人には迷惑をかけていることになる。なんせ俺が寝るからついでに目立つので、俺の隣の席の子は授業中に当てられる危険性にさらされる。自分だって真面目にしておかなきゃ俺を叱るついでに叱られる。
いつでも「隣の席の子」達は俺を起こしてくれる。それに甘えちゃダメだ、と自分では思っていた頃、1学期に一度だけ、佐伯さんが隣になったのだった。
実は、佐伯さんには一度も起こしてもらったことがない。
彼女はまるで俺など最初からいませんでした、って感じであっさりと無視をした。彼女が隣の間、先生方が俺をしばく回数は格段に増えた。勿論彼女が悪いんじゃないけど、でも!
やっぱり印象は良くなかったのだ。
黒くて長くて多い髪の毛。それはいつでも背中に垂れていて、長めの前髪で眉毛も見えず、話さないために性格も判らないクラスメイト。中くらいの身長、控えめな発言。何の委員会やクラブに入ってるかも知らない、そんな感じ。
その子と今日、俺―――――――――――ぶつかったよな、唇が。
ぶつかったのは二人の顔で――――――――・・・
ぶわっといきなり体が熱くなったのを感じた。うわ、と小さく呟いて片手で顔を覆う。
やめろやめろ、あれはキスなんかじゃない。違うんだぞ、俺〜。
きっと赤くなっているだろう顔を隠すために顔にひっつけた手が離せない。別に誰かに見られているわけじゃないのに、俺は過剰に反応してしまっていた。
唇と、口の横きわきわが怪我をした。
多分、歯が当たったのだろうって思う。・・・佐伯さんの、歯が。
少しだけ低い背の彼女の、おでこが俺の鼻柱に当たり、夕日を避けるために顔を斜めにしていたのが災いして彼女の唇が俺の下唇に、それから歯も当たって切れた、そういうことなんだろう。
だらだらと冷や汗が出てくるのが判った。
・・・あの子は、大丈夫だったかな。判ってしまっただろうか、口がぶつかったの。あーうー、俺だけが気がついてるならいいんだけど。でないと・・・めちゃ恥かしい・・・。
まるでエンドレスリピートだ。今日は部活中でも彼女と衝突したシーンがぐるぐると頭の中を回っていたのだ。それは、拾ってしまった赤い小袋のせいだと思うけど。
首まで真っ赤なんだろうか、もしかして・・・。
実は俺って照れ屋だったのかも、そう自分で発見した夜だった。
だって今までは部活部活で常に水の中にいて、水の中をいかに早く動くかどうかが大事だった俺には、すごく仲が良い女の子なんていなかったし、勿論女の子と付き合った経験もない。片思いをしたことはあるけれどそれもちょっとのことで、告白するとかされるとか、そんなことは皆無なのだ。
うわー、うわー、うわー!!
ヤバイ、頭を冷やさないと。
丁度乗り換えの駅について、俺はぱっと電車を走り降りる。ざあっと夜の風が吹いてきて、一瞬呼吸が楽になった。
暗い夜の中、乗り換え駅の為に大きな駅舎の中を色んな人が急ぎ足で歩いている。山の裾に広がる街の明りも近くなっていて、空には星のひとつも見えなかった。
学生の団体が笑いながら前を通り過ぎていく。俺もそれに混じって、電車の乗り換えへと向かった。
ガツッてぶつかった。あの子の、驚いて見開かれた瞳。
廊下の床に落ちた鼻血。それは夕日のせいで本当に真っ赤に見えた。
・・・痛かった。すごく、痛かった。
口の横に貼られたバンドエイドを人差し指で擦る。ジンジンとした痛み、だけど俺はその痛みのせいで、一人で懲りずに真っ赤になっていた。
翌日にはもうクラブ中に元水泳選手だったっていう経歴がばれてしまっていた。
顧問がそんなこと言うとは思えないから、きっと水泳部から入ってきた情報だろう。肩や背中をバンバンと叩きなが囃して来る同級生にうんざりしていると、仁史先輩が首を傾げて言った。
「高校から新しいこと始めるのって、実は結構大変だろう。どうしてテニスなんだ?」
真面目な質問だった。
だから俺は、ラケットでボールを打ち上げるのを止めて先輩を振り返る。
「中学の時に体育でテニスをやって惹かれたんです」
うちの部ナンバーワンの実力者である先輩は、微笑みのような顔をして、へえ、と言った。ただ一言だけ。本当は違う理由があるんだろ、判ってるよって言ってるみたいに。
だけど、実際理由はそうなのだ。
小学生からずっと水泳をしていて、俺は他の運動にさほど興味をもっていなかった。いいタイムを出せて褒められる水泳に満足していたし、もっと上も目指したかった。仲のよい年下の従弟も水泳をやっていたし、我が家では親も泳ぎが得意で好きだったから当たり前のことだったのだ。
疑問をもつ暇などないくらいに。
だけど、ある日。
体育の授業でテニスをすることになって、初めてラケットを握り、ボールを打ったあの日。
見惚れたのだ、そのコントラストに。正確に言うなら、ボールが映える青空にってところだけど。水の中でも太陽は眩しくて、水面から煌きを反射してくる。それだって綺麗だし大好きだ。だけど、空気がある中で晴れわたった青空、そこに打ち上げられた黄色いボールみたあの瞬間、ぱあって心が晴れたような気がしたのだ。
丁度選手権の時期で、タイムに伸び悩んでいた俺は逃げ道を見つけた気分だったのも認める。
実際に高校に進むときに水泳の強豪高に行かない選択をした俺に、顧問も担任も渋い顔をして「逃げるな」と言ったものだった。声を揃えて。
だけど、見惚れたのだ。これが正直な感想で、それはどうしようもなかった。
相手は人間じゃないけどさ、一目惚れってこういう事いうんじゃないの?って。
ボールは相手のコートに打ち込むべきで空に上がっていりゃ全くいいことではない。だけど、それがもう一度みたいと思ったのだ。
だから水泳から逃げる為にそれほど近くもない高校に入ったのは、知り合いがあまりいないだろうと思ったから。そして、そこで硬式テニス部を見つけた上に、未経験でも歓迎っていわれたからこれはもうやるしかないって思ったんだった。
ラケットを平にしてその上でボールを弾く。平衡感覚が必要で、これが上手くできるようになったらボールが自分の思い通りに動き出す。
その練習を必死でしている1年生の時、とても楽しかった。
打ち上げたボールのバックは、透き通る青空。今日は雲が多いとか、空気が澄んでるとか、日差しがきついとか、今までは気にしなかった季節のうつろいなんかも身に沁み出した感じ。
これはもう理屈じゃない。
そう思っていた。
「ところで航、その口元のバンドエイドなんだ?」
幸田が気味悪く擦り寄ってきてそう言う。途端に咳が出そうになるのをぐっと我慢した。・・・やばいやばい。挙動不審すぎるだろ。
「・・・カミソリで」
適当に言ったら、勝手に納得した。下手なのか、お前〜ってゲラゲラ笑いながらコートへと戻って行く。
・・・また赤くなってるかも知れない。あ〜あ、こりゃあ大変だ・・・。
俺は煩悩を振り払うために、筋トレの練習に励むことにした。
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