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 水泳部顧問の上田先生がバインダーで頭の後を掻きながら、俺を見詰めて聞いた。

「じゃあ横内、本当にいいんだな?」

「はい」

 頷く。それ以外に言葉はつけなかった。だって必要ないはずだ。もうとっくの昔に決めたことを、今更蒸し返されると思ってなくて、俺はその時ちょっと不機嫌だったのだから。

 ふうー、と大きな息を吐いて、上田先生はくしゃっと笑顔をゆがめ、隣の田崎先生を振り返る。

「仕方ないですね。諦めます、本人がこう言ってるんじゃどうしようもないし」

 田崎先生は真顔で上田先生に頷く。その顔は無表情だったけど、機嫌がいい時にする無表情であるってことが俺達には判る。

 俺達―――――――男子硬式テニス部の部員には。

 きっと心の中では田崎先生はこう思ってるはずだ。『まったく迷惑な話だ』って。

 やれやれ、宝の持ち腐れでしょ、そう言いながら体育教官室を出て行く上田先生を見送ってから、ドアを閉めて田崎先生が俺を見た。

「絶対何かやってた体だって思ってたけど、お前そんなに凄いやつだったのか」

 呟くようにそう言って、それからひゅっと親指をドアへと向けた。

「じゃあ横内、行っていいぞ。今からでも部に参加しろ。今日のメニューがまだ残ってるはずだ」

「はい」

 短く答えて、失礼しますと続ける。

 体育教官室はあまり長居したい場所ではない。俺はそれでも気をつけながら、ともすれば早足になるのをおさえて歩いていた。


 今日の昼休み、学生食堂前でばったりと出会った上田先生に捕まってしまったのだ。英語教師である上田先生が水泳部の顧問だってことは知っていたから、俺は咄嗟に逃げの姿勢をとった。

 英語Bをとってない俺には会話などあるはずのない教師、それが上田先生だ。だけど今は、ちょっと逃げないと――――――・・・

 だけど既に遅く、俺の右腕をガッチリ掴んだままで大きく笑った上田先生が持ち前の大きな声で言った。

 横内、お前中学の時、バタフライで全国だったんだって!?って。

 俺は一瞬目を閉じた。

『そんな水泳の逸材が、なんでうちの部に入ってないんだ!お前がこれば試合結果も明るくなるじゃないか!!もう2年だけど今からでも遅くないぞ、おい!』

 って。

『お前今は何部だっけ?硬式テニス部?なんでそんな虚弱クラブにいるんだ、勿体無い!』

 それから俺が返事をする間もくれず、放課後体育教官室へこい、と言ったのだ。叫び声に近い声量で。

 俺は腕を離して欲しくて仕方なく頷いた。それから放課後になるのを待って、部活に参加せずに一人で体育教官室へと向かったってわけ。この夏休みに水泳部のメンバーとファミレスで出会ってしまったときに、しまったと思ったのだ。ああ、やべ、これってもしかして、バレるかもって。

 予感は的中し、俺、横内航が中学生の時にバタフライで全国大会へいったことがある人間だとばれてしまった。あのファミレスで、たまたまうちの水泳部と一緒にいた他所の高校の水泳部のメンバーに顔見知りがいたのだ。お互いに中学時代の試合で顔見知りだったあいつは、確か水泳の強豪高に行ったはず。それが、どうして。

 とにかく俺の顔と経歴が、ここ最近試合で結果を残せてない水泳部の熱血顧問である上田先生にばれてしまったのだった。だけどこうも予想通り「水泳部に入れ!」と連呼されるとは思わなかった。それも、今の所属クラブである硬式テニス部の顧問の前で。

 放課後にいきなり呼び出されたのは田崎先生も俺と一緒だったらしい。二人が揃うといきなり上田先生はベラベラと喋りだしたのだ。横内は、テニス部でなく水泳部にいるべき人材だと。

 両腕を組んだ田崎先生は一通り上田先生の話を聞いていた。この時は、機嫌が悪い時の無表情で。

 それから俺に聞いたのだ。で、横内。お前はどうしたいんだ?って。水泳部へ入りなおすのか、それともこのままテニス部にいるのか、って。

 俺はテニスをしますと即答した。

 それで上田先生がしばらくごねて―――――――こんな時間だ!

 イライラと俺は廊下を歩く。

 もうすっかり夕方で、夏休みが終わって実力テストも終わった後、夏の終わり前の、まだ凄いオレンジ色で校舎中を染めてしまうような夕焼けの中だった。

 この、山の上にある大きな高校は西日を真っ向から受ける立地なのだ。毎日天気のいい日には学校中の廊下を真っ赤に染める光が隅々まで満ちている。眩しいその光景の中で、俺の影だけが黒くのたのたと廊下を這っていた。

 教室に鞄が置きっぱなしなのだ。それを取って部活に行かなきゃ。

 そう思って歩いていたんだった。

 それが、校舎の真ん中にある階段の踊り場前。

 俺はそこでいきなりとてつもない痛みに襲われた。

 ドン!と同時に、ガツン!って音もしたと思う。

 気がついたら俺は少しだけ吹き飛ばされて、自分が歩いてきた廊下を戻った場所で尻餅をついていた。

 ・・・・・・・いったあああああ〜!

 口元が強烈に痛いぞ!それにこの感触、味は・・・。

「いたっ・・・た・・・」

 そう零すのがやっとの状態で、俺は口元を押さえながら夕日に染まる廊下で顔を上げる。

 丁度曲がり角の向こう側、横向きになった上履きが目に入った。それから、廊下に散らばる大量のプリント。うわ、ぶつかったんだな、それにしても凄い衝撃――――――――――絶対今、口がぶつかった・・・。唇が酷く痛む。一瞬の記憶、覚えているのは、見開かれた目とそれから・・・。

 ぬるりと手の平で気持ち悪い感触がした。

「げ」

「・・・うおっ・・・おえ〜・・・」

 相手の声が聞こえた、と同時に自分も言っていた。それも、こんな情けないセリフを。

 げ、が相手で、おえ〜が俺だ。

 バッチリと目が合った。

 ・・・・・・・あ。この人。

 倒れた上半身を引き起こしながら呆然とこっちを見ている女子を、俺は知っている。

 クラスメイトだ。それに、席が隣の・・・はず。ええと、名前が出てこないけど―――――――――

「・・・だ、大丈夫?」

 彼女が小さな声でそういって、そろそろと膝を地面について近づく。

 口の中で血の味がするし、喉にはダラダラと血が流れていってしまっているようで、気分は悪かった。気持ち悪いのだ、血の味で。きっと鼻血もだしているんだろうなと考えて、でもとりあえず、目の前にある心配そうな目に何か答えなければ、と思った。

「らい、ろーぶ」

 実は、めちゃくちゃ気持ち悪いんだが。

「あのー・・・ごめん、かなり走ってたから、あたし。ええと、保健室に行ったほうがいいと思う」

 どうやら彼女が突っ走ってきたらしい。俺はちょっと意外に思って、一瞬気持ち悪さがどこかへ消えた。

 だってそのクラスメイトは、あまり走ったりするって印象がなかったのだ。

 すらっと名前が思い出せないけど隣の席の、髪の長い大人しい女子だ。多分今までまともな会話をしたことがない相手。だから勿論、こんなに間近で顔をみるのも初めてだった。

 へえ、あんた、階段を走って上ったりするんだな。心の中でそう言っていたら、ぽた、と音がして自分の鼻血が廊下へ落ちたのに気がついた。

 その時、白い手がぱっと出てきて、床に散らばったプリントを手早く集める。その勢いに驚いて、それから苦笑したい気分だった。

 ・・・血がついちゃ、まずいよな。だけどそんなにさっさと集めなくても。

 とりあえず保健室に行こう。気持ち悪いし、冷やさないとクラブにも行けない。俺はゆっくりと立ち上がりながら相手にじゃあ、と言う。

 すると前髪の向こうで眉毛を八の字によせて、なにやら焦った感じの相手が早口で言った。

「一人でいける?」

 え、勿論。だって別に足を痛めたわけじゃあないし。それは口には出さずに、俺は片手だけ背中越しに振って歩き出した。

 気持ち悪くてそろそろと保健室まで歩く。もしかしたら頭も打ったかも・・・。おえ〜・・・。

 夕日満ちる校舎の中、俺はどうにか保健室へと辿り着き、そのドアを開けた時に思い出した。


 ぶつかった相手の名前を。

 彼女は―――――――――佐伯、さん、だ。



 その日の学校帰り、6時台のほどほどの混み具合の電車の中、俺はポケットの中にある小さな赤い袋のことを考えていた。

 廊下で拾ったのだ。保健室からの帰り。

 曲がり角でぶつかったと言ったら大いに同情してくれた保健の先生が、言ったのだ。そういう時って知らない間に落し物してることもあるから、また教室に戻るんだったら見ておいたほうがいいわよ、って。家の鍵落としてたとかね、あるからって。

 その言葉に従ったというよりは、普通に歩いていて見つけたのだけれど、確かにぶつかったあの角のところ、小さな何かが視界にひっかかって目を向けたのだ。

「・・・何?」

 手のひらの中にすっぽりと納まってしまうサイズの、小さくて真っ赤な袋。巾着のような形で、一応と思って中身を見てみるとそこにはいい香りのする葉っぱみたいなものが詰められている小袋があった。

 ・・・これ、何だろ。

 疑問だったけど、多分、これは佐伯さんのだろうなあ〜・・・。ぶつかった拍子に落ちたのは、俺のでなくて彼女のだったんだろう。これの正体は判らないけれど、あの子のなら返さないと。






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