3−@
部活中は、隣の席の女子のことを忘れていられる。
それってつまり、部活中以外は、結構考えているってことだ。
それを言い訳には出来ないけれど、俺は翌日、ポカをしてしまった。
それも、大きなおおき〜なポカを。
「・・・・あ、俺死んだ」
もうへなへなと崩れ落ちてしまいそうな心境でそう呟いて額に手をやる。
・・・しくじったああああ〜・・・・。なんてこった。
俺はよく寝る、それは周知の事実だ。だけど、そんな横内でもこれはさすがに起きてるよな、って友達に笑われるような地獄の授業が、我が校にはあるのだ。
それは、数学2−B。文系を選択した生徒は3年生からはおさらば出来る数学も、うちの高校は2年ではまだ必修授業として与えられる。それが数学2−B。
教鞭をとる貝原先生はこの高校の名物教師で、それは決して友好的な意味での名物先生ではなく・・・どちらかというと、モンスター的な扱いをされている先生だ。
背がひょろりと高くて、眼鏡をしていて、超無表情。
とにかく、なんとしても答えなければならないこの授業には、予習と復習が必ずいる。もうそれをしておかなければ一年間が台無しになるといって間違いない、そういう恐ろしい授業なのだけど――――――――――――
・・・その予習ノートを、俺は忘れてしまいました。家の、自分の机の上に。
チーン、と頭の中で音がなったほどだった。
大げさでなく世を儚みたい。うおおおお〜・・・やばい、どうすればいいんだ!とりあえず誰かに今すぐノートを借りないと!だけど休み時間でほとんどのクラスメイトが廊下に出てしまってるし、よく話す佐藤や田原は一体どこに―――――――――――
だけどそこで、まさかの天使が降りてきた。
その例えがちょっとくさいのは判ってる!だけどマジで、そう表現したくなるようなタイミングで、隣の席から小さな声が聞こえたのだ。
どうしたの、って。だから俺はノロノロと答えた。ノートを忘れてきたって。それだけでこの落ち込みが判るのは、紛れもなくうちの高校在籍者だ。
すると何と!隣の静かな女子は、更に好感度が上がるような行動に出たのだ!
しばらく俺を見詰めたあと、佐伯は自分の机の上に準備していたノートを差し出した。
「横内、君。これ、えーっと、よかったら」
え、いいの?
頭の中ではそう言った。
現実には彼女を見詰めただけだったけど。
差し出されたノート、それは間違いなく、俺に向けられていた。
時間がない。だから俺は感動もそこそこに、サンキュ、とだけを返して奪い取るように借りる。それから全力で彼女の予習内容を書き写したのだ。
几帳面そうな細い文字。小さくて、でも綺麗な形。
もっと観察したいけど、それに貸してもらったって感動も味わいたいけど、とにかく次の1時間生き残りたかったら、今の内にうつしてしまわないといけない!
受験勉強なみに集中した。だから案外早くうつし終わることが出来たのだ。
「わお」
ずっと見ていたらしい佐伯が小さな声で感想を漏らす。俺はちょっと笑って彼女にノートを差し出した。
「マジで助かった。ありがと」
「あ、いえいえ。昨日物理で助けてもらったし・・・。てか、横内君でも貝原先生は怖いんだ?」
あはははと声を出して笑ってしまった。この子は、会話でいきなり距離が近づくようなときがある。それはいつもタイミングが計れないような突然さで、面白くて俺はつい笑ってしまうのだ。
「だってあれはキツイだろ。出来なかったら恐怖の朝学習だし。俺今クラブがハードでそれに出てる余裕もないしさ」
だからマジで、助かりました。その場で頭を下げると彼女はニコニコしていた。
おお、機嫌も良さそう。
だから俺は、その笑顔に勇気を借りて言ってみた。さりげなく、自然〜な感じで。
「そういえば佐伯って、下の名前ななみでいいの?何か海に関係ある家の人?」
ぴたっと音がしたかと思った。
それくらい判りやすく、佐伯は目の前で固まった。
ノートを片手に持ったままで、目を見開いて俺を見ている。・・・あれ?これって驚いているよな、多分。俺何か変なこと言ったっけ?
自分が言った言葉を思い返してみるけど、何がそんなに驚くことだったのかが判らない。個人的なことでもないよな?クラスメイトが名前知ってたっておかしくないだろうし・・・。
さえき・ななみ、がどんな字を書くのかは、委員会で情報を仕入れたその夜にクラス名簿で確認したのだ。そういえばそんなものがあったな!と思い出して、お風呂上りに何気なく母親がプリントを仕舞っている引き出しをあけたりして。引っ掻き回して連絡網を発見した。
すると書いてあった。七海って。七つの海、なんだ。これってもしかして、共通点になりえる?そう考えたわけ。だって俺の名前が海との関連でつけられたものだったから。
肘の上に顎をのっけてリラックスしたような装いで無言の彼女を見ていて、実際のところ俺は焦り始めていた。
自分がやっぱり何か変なことを言ったのかも、と思って。
だけどそこでやっと金縛りから解けたみたいな動作で佐伯が動き出した。そして上ずった声で喋りだす。
「え?ええ・・・っと。あ、うん。ななみ、であってる。それでもって、うちのお父さんが・・・海自だから・・・」
「かいじ?」
その挙動不審さがちょっと面白かったけど、そこは突っ込んではいけないんだろうな。この会話がなくなってしまうと嫌だ。だから、会話を続けるためだけに問いかける。
かいじ、が多分海上自衛隊だろうって見等はついていたんだけど。
「あ、海上自衛隊。元々海が好きで・・・それで、七海ってつけたって聞いたけど」
「へえ〜」
そうなのか。ちょっと佐伯の事が判ったのが嬉しくて、だけどそれを表情に出さないようにと気をつける。会話を続けるにはどうすればいい?そうだ、俺のことも話せばいいんだ、よな。
「俺も海に関係ある名前だからさ、ちょっと気になっただけ。俺はじいちゃんが漁師でさ。初孫だってんで、決められたって母親が言ってた。じいちゃん家は瀬戸内で滅多に行けないけど、暖かくて綺麗な海なんだよ。俺は好きなんだけどさ、この名前」
もう一気に話した。
名前は航という。航海するの航だ。それを彼女が知っているかは知らないけど、もういいやな勢いで。だけど考えるような顔をして自然に頷いていたから、どうやら佐伯は俺の名前を知っていたらしい。
じいちゃんの家がある、あの海辺。
キラキラに光る、太陽が高い位置の時には波が眩しくてしっかり見ていられないくらいに光輝くあの海を。
小さい頃はよくいっていて、じいちゃんの口癖を船の中に座って聞いていたのだった。
―――――――――ほら、航、すげーだろう。海と空が同じ色なのは何でやと思う?空があまりに綺麗だから、海の神様が羨ましく思ってうつしたんじゃ・・・。
人間は水の中では呼吸は出来ん。だけど、魚みたいに泳げるんや。しっとるか?自分の手と足で水をかいて、自由に行き来出来るんやぞ。
そう、何度も。行くたびに、何度も。
魚みたいに、泳げるんだ。なら俺も泳ぎたいかも。それが、水泳を始めたきっかけだ。じいちゃんの海からは遠く離れていたけれど、水の中の青がみたくて。魚みたいに自由に泳ぎたくて。
だけどそれはいつの間にかタイムに支配された日常へと変わり、好きで泳ぐのではなくて誰かに勝つために泳ぐようになった。
二つ年の離れた弟も泳いでいて、才能という意味では弟の方があったのだろう。どんどん追いつかれて追い抜かされて、弟が同じ中学に入ったその年、もう無理かもしれないと思ったんだった。俺の頂点は、ここなのかもって。兄弟にのまれる、それはめちゃくちゃ悔しかったけど、それよりも疲れきった心と体がもう言うことを聞いてくれそうになかった。
まるで、分離してしまったようだった。俺の頭と体が。あの冬に、俺はそれがどうしようもなく嫌になって――――――――――
俺の頭は一瞬、ほんの一瞬すごい勢いで過去へと飛んでしまった。だけどその時、目の前で佐伯が笑う声を聞いてハッとする。
ああ、せっかくこの子と話してるのに。
今はそんなこと、関係ねーのに。
だからそれからは集中して、ちゃんと目の前の話に没頭した。俺の知らなかったこの子の生活。父親や母親の話。それから佐伯の、話す時の呼吸や目を和らげるところも。
「横内君も海が好きなんだねー」
「うん。塩辛いのが辛いけど」
「そうだよね、目に入っちゃったら痛いしね」
「塩素漬けのプールよりは、好きかなー」
「うん、あたしも。なんせ、海は体が浮くしね」
「そうそう」
「初めてそれを知った時は感動したの。浮くんだ!?って」
「あははは」
数学の貝原先生が入ってくるまで。他のクラスメイトがうんざりした顔をして待機している中、俺達だけは明るい声と表情で笑っていたんだ。
・・・すんげー、楽しかった。
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