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思ったより時間がかかった。
取引先の担当者に挨拶に回るのに、4社目で亀山のお使いも果たし、その時点で夜の7時。
私の性分なのも相手が気さくでお喋りなのもあって、それぞれにそれなりに時間がかかったのだ。
笹山コーポレーションを出て、ビルの下で月を見上げる。
またビル風が髪を巻き上げた。
・・・・うーん。晩ご飯、どうしようかなあ〜・・・。
ぐるりとその場で見回せば、飲食店はそれなりに目に入る。だけど心惹かれるお店は一つもなかった。
「―――――いっか、あそこ行こう」
あそこ、とは、いきつけのバー。パスタくらいの軽食は置いてあるし、一人でもあそこなら気楽だ。
正輝の会社から近いので、やつを慰めるときは定番の店になっていた。逃げ回ると決めてからはあまり行けないかも、と悲しく思っていたが、ここは近いし、取り合えず癒しを私は求めている。
よし、そうしようっと。
決めてしまうとすぐにでもあの素敵なジン・トニックが飲みたくて、舌なめずりする勢いでバーに向かって歩き出した。
ジン・トニック。
ジン・トニック。
ああ、早くあのキラキラの薄い金色の液体を流し込み、うっとりとしたい。
店の前で、一応中をチェックする。ドアの隙間から覗き込んで、万が一でも正輝がいたら逃げようと体勢を整えた。
だけど、カウンターとテーブル2つだけの小さな店内は一組のカップルとサラリーマンが2人だけ。
安心してドアのベルを鳴らしながら入る。
「いらっしゃいませ」
マスターが笑顔を送ってくれる。
私は安心して、笑顔になる。
これよ、これ!これぞいきつけの店って感じよ!!
「こんばんわ。マスター、私すぐにでも・・・」
「ジン・トニックが欲しい、でしょう。疲れたお顔ですよ」
にこにこと頷いて、スマートに私の為のお酒を作ってくれる。店の一番奥の椅子に滑り込んで、私はウキウキとそれを見ていた。
「どうぞ」
来た来た〜!ゴールドの、私の栄養源!!
どうしても笑顔になる。そっと、そお〜っと、本日最初のアルコールを口にする。
くううううう〜!!美味しい〜!!その場でジタバタと暴れたいくらいの喜びだった。
勿論、そんなことはしてないが。
「・・・はあ〜・・・。美味しいです。本当に好き、ここのこれ」
「何よりのお言葉です」
マスターが頭を下げる。
「お腹空いてるんです。ぺペロンチーノお願いします」
はい、と笑顔で頷いてマスターはカーテンの向こうのキッチンに入っていった。
落とした照明の店内にホッとする。今日は一日パソコンと睨めっこして、全く仕事は進まずに無駄に目だけが疲れた。
足をぶらぶらさせてほぐす。
後ろのテーブル席に座るカップルは食前酒だったようで、一杯をそれぞれ楽しんだ後、会計を頼んだ。
出てきたマスターが会計をするのを、私は見るとも無しに見ていた。
あー・・・カップルかあ・・・。これからデートなんだな。ご飯、食べに行ったり映画を観にいったりするんだろうなあ・・・。
恋人は長い間いないから、バーに入るようになったのはいつも一人でだったんだよねえ・・・。私は正輝に片思いしている間に随分と世慣れてしまった。
何でも一人でやってきた。メンタル分も、日常的なことも。
別に苦じゃなかったし、当たり前のことだから悲しくもなかった。だけど、いざ恋人を作ろうと決心してみると、一人でいた期間が長くって今更人に頼ったり甘えたり出来るんだろうか、とぼんやり考えた。
恋人たちは去って行った。
マスターが調理に戻り、そして私に出来たての熱いぺペロンチーノを運んでくれる。
にんにくのいい匂い。急激にお腹が空いてきて、私は人目も気にせずガツガツと食べる。
「・・・よっぽどお腹がすいてたんですね」
楽しそうに笑いながらマスターがカクテルのお代わりを作ってくれる。
熱々で、ぴりっと辛くて、めちゃ美味しい〜!!またジタバタと暴れたかったけどそれはやめて、私はひたすらパスタに没頭する。
「・・・・美味しい・・・」
うっとりと呟くとお礼を言われた。
サラリーマン二人が立ち上がる。ご馳走様、という声を背中に聞きながら、私は綺麗にお皿を空にした。
入口までお客さんを見送って戻ってきたマスターに、口元を拭きながら笑顔で言う。
「本当に美味しかったです!ありがとう。やっと元気でました」
マスターは魔術師のような不思議な風貌で、いつものようにニコニコしていた。それはよかったです、と頷いてお皿を下げてくれる。
「待ち合わせですか?」
え?と私は顔を上げる。
「待ち合わせ?」
マスターはカウンターに入って少し首を傾げた。
「いつもの男性の方と」
・・・ああ、正輝と。
私は目を伏せて首を振る。ここには一人でも来ていたけど、確かに正輝ともよく使った。それで今日も待ち合わせかと思ったのかな。
私の反応を見て、更に不思議そうにマスターは続けた。
「あ、待ち合わせではないんですか。あの方もここにいらっしゃいますよ、多分」
――――――――何だって!?
椅子にもたれていた私はがばっと身を起こした。
「―――はいっ!?」
私の勢いにビックリしたらしいマスターは目を見開いたけど、指を入口のほうに向けて言った。
「・・・・さっき、駅からこちらに歩いてくるのを見ました」
えっ!??
私はパッと入口の方を見る。
正輝が来る!?ここに!?なんで判ったんだろう。ヤバイ、ここではすぐ捕まっちゃうじゃん。何とかしないと――――――
私はとっさに椅子から滑り降りて、マスターが入っているカウンターに回りこんだ。
「えっ?ちょっと――――」
「ごめんなさい!そしてお願い!!隠れさせて〜!!」
バタバタと叫びながら私はカウンターの後ろにしゃがみ込む。
と、同時にドアがチリンと涼しい鐘の音を立てて開いた。
私は座り込んだまま身をすくめる。
マスターは驚いておろおろと私を見ていたけど、ドアベルに反応して出した声はいつも通りの落ち着いた声だった。
「――――いらっしゃいませ」
そして、カウンターを回って客席の方へいき、お客さんを誘導して戻ってきた。
その手には私のストール。
あ。鞄は引っつかんできたけど、それ忘れてた!
私は縮こまったまま恐縮して、両手を顔の前で押さえて感謝を伝える。
「――――――ビール、下さい」
声が聞こえた。マスターがはいと返事をして準備に入る。
私はそろそろと体を避けて仕事をするマスターの邪魔にならないポジションまでしゃがんだまま動きながら、汗をかいていた。
・・・・やっぱり、正輝だあああ〜・・・。
さっきまで私が座っていた席の隣くらいに座りながらため息をついてるようだった。
私は緊張してドキドキしながら身を小さくする。
ビールを出したマスターが、正輝にも、お疲れですね、と声をかける。
「・・・はは、疲れてるように見えますか?」
正輝の声。
「仕事が忙しいんですか?」
マスターが優しい声で聞く。私はしゃがんだままで、早く帰れと呪いをかけていた。
正輝がビールグラスを置いた音。
「・・・・仕事は、そうでもないんですが・・・。別のことで、ストレスが」
―――――別のこと。・・・え、もしかして、私っすか?
マスターの視線を感じた気がしたけど、敢えて上は見上げなかった。
「ストレスはいけませんね」
また優しくマスターが返す。私をかくまってくれる気はあるようだ。少し、息を吐き出した。
「・・・マスターは結婚されてるんですか?」
正輝の声。
グラスを拭いていたマスターが、はい、と答える。私はイライラとしゃがんでいた。
結婚指輪してるでしょうが!見たら判るだろ!!と心の中で毒つく。観察力が足りないよね、正輝はさ!
「・・・女の人って、わっかんねー・・・。恋愛と友達は別物ですかね?」
正輝の問いかけにマスターがまたちらりとこちらを見たのが判った。
私はまた無視する。
「・・・状況がわからないので、答えるのは難しいですね。彼女さんともめてるんですか?」
マスターの質問に、いえいえ、と呟きが聞こえた。
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