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「だから、その耳がルーズリーフの男の人よ。ちょっと話しただけの人の提案を受け入れるなんて、潤子らしくないなあと思ったのよ。我が妹はそーんなに積極的ではなかったはず。だから、よっぽど記憶に残る男性だったのかなあ〜って。イケメンなの、その人?」

 彼の言葉に従おうと思ったのはきっとただ単にタイミングの問題だと思う、と心の中で呟いて、姉には何てことないって感じで言葉を返した。

「・・・ああ、そうねえ・・・一般的に見て、イケメンと呼ばれるんじゃないかなあ。ちょっと軽そうだったけど。女性を褒めなれてるようだったし、茶髪も長めで、ピアスも・・・派手、というか目立つ。喧嘩が原因で病院にきてたしねえ」

 ふーん、と聞こえた。色々想像しているようで、姉は天井を睨みながら次々に質問をしてくる。

「背は?」

「高い」

「孝太君くらいに?」

 姉はかなり身長が高かった私の元夫を出してきた。うーん?と考えてから、気がついた。あら、私、ちゃんと立ってあの男の人を見てなかったんだわ。こっちが座ってるか、あっちが座ってるか、だった。・・・でも。

「・・・高かった、と思う。よく判らないけど」

「ひょろっとしてるの?もやしっこみたいな?」

「え?ううん。いい体してると・・・思うよ。肩幅も広かったし、腰は細かったけど」

「おおー!それでイケメンは美味しいわね!連絡先聞いたの、潤ちゃん?聞いたんでしょ勿論?」

 私は呆れて姉を振り返る。そこには小さな目をキラキラと何かの光で輝かせている企んだ笑顔が。

「――――――聞いてないわ。だから、彼には多分2度と会わないのよ」

 ええーっ!??姉が絶叫した。・・・煩い。至近距離でその甲高い声を聞いてしまって私はくらくらする。出来るだけ急いで部屋を横切り、自分の席について姉から離れた。

「ちょっとちょっと!?バッカじゃないの、あんたー!!そんな、イケメンでガタイがいい男に出会う確率は、この町ではゼロに近いのよ!何してんのよ〜っ!!結構長い間喋ったんじゃないの!?」

 ・・・私は治療をしに病院にいったんですけどね。それは声には出さず、瞳にうつした(つもり)で姉を凝視する。彼女は華麗にその視線をスルーして、潤子はバカだバカだと罵った。

「チャンスはもぎ取ってでもモノにしないと!」

 拳を振り上げる姉にため息をつく。チャンスって・・・一体何のチャンスなのよ、それ。

「食べようよお姉ちゃん」

「私はショックを受けてるのよ!折角の出会いをみすみすと逃した妹がふがいなくて泣きそうだわ!」

 ・・・ダメだ、こりゃ。どうぞ、いくらでも勝手に泣いてちょーだい。

 挨拶をして、ご飯を勝手に始めてやった。

 幼稚園からずっと女子校に通いひたすら女の園で生きてきて、男性ともまともに喋れなかった過去がある姉には言われたくないぞ!あんたなら彼の連絡先をキチンと聞いたのか?そう突っ込みたいけど止めておいた。少なくとも私は彼の名前は知っている。それって凄いことだと思うし。

 だけど、それは姉には内緒なのだ。

 もう出会わないだろうって思っていた。だから彼がくれた人生のヒントだけを黙々と実行して、私はまた自分の生活を楽しめるようになるんだってそればかりを考えていた。

 朔君が指導してくれたお陰で、ネットでのアクセサリー販売は結構うまく行きだしていたのだ。

 だから私は個人的断舎利を実行しながら販売業にも懸命に頭を使い、何とか熱を出さずにバランスを保って冬を過ごしていた。

 前半は結構寒くて雪もたくさん降ったのに、冬の後半はそれほどでもなく日々が過ぎていく。

 世間様は、受験や確定申告や卒業やって忙しい時期だっただろう。

 私も私で、何とか自分でやらなくちゃならないことをして、過ごしていた。

 過去にまつわるものをどんどん処分して行って、私の部屋はかなりすっきりとしていた。だから今までなかった作業台を、空っぽになった押入れを書斎に改造して作り、材料や製作スペースを確保した。

 仕事がうまくいくように、と父親がまだ新しいパソコンを譲ってくれたので、インターネットの勉強も始める。毎日目が痛くなるくらいに作業をして眠る。だけどそれは辛くなくて、私の中に大きな安定感を生んでいたのだった。

 とにかく今の私には、やることがあるのだ。暗い家で一人でただ呆然として夫が帰ってくるのを待っていた日々や、実家に戻ってやることもなく病院と家を往復していただけの日々は確実に遠いことになっているのだから。

 壁にはったreduceの文字も見慣れ、部屋から物が少なくなり、仕事が何とか形になって、風がそろそろと温かくなってくる。

 春はいつの間にかすぐそこまで来ていた。




「悪いけど、締め切り近いから私今日家に詰めるわ」

 げっそりした声で、姉がそう宣言した。

 朝日差し込む小さなダイニングで一緒に朝食を食べている時だった。

「あ、はい。大変そうね、お姉ちゃん。私は外に行った方がいいってことよね?」

 ダージリンを淹れたカップを両手で持ちながら私はそう尋ねる。

 翻訳家の姉が現在かかりきりになっている英国の分厚い医学書、その仕事の締め切りが近いようだった。最近の姉は膨大の資料に埋もれて睡眠時間を削って作業しているのを知っていたけど、それがいよいよ佳境に入っているらしい。

 二人とも基本的には家の中での仕事をしているので、たまにお互いの存在が気になってイライラしてしまうときがあるのだ。現在は、姉がそうなのだろう。だから私に外出願いをしているのだろうって。

 姉はクマの出来た目元を乱暴に擦って重いため息をついてから頷いた。

「・・・そう。悪いけど、体調いいなら今日は外でお願い」

「うん、大丈夫。私ついでだから検診もいってくるね。ここ最近行ってなかったし、久しぶりだから村上先生の顔も見たいし」

「ありがと、恩にきます。今日中に何とかやっつけるわ、私も」

「どうしようもないから無理してるんだろうけど、息抜きしながらやってね」

「うん。潤子もしんどくなったら無理せずに帰ってきたらいいからね。精神統一して乗り切るわ」

 そういうわけで、肩の上に子泣き爺を3匹くらい乗せているのかと思うほど沈みこんだ姉を置いて、私はうららかな3月の光の中を出て行った。

 ・・・ああ、大分暖かくなってきた・・・・。道の木蓮の木には既に白い花が存在を主張している。私はそれを楽しんでから、目を伏せて顔に風を受ける。もうすぐ土の匂いがしてくるはずだ。きっと木々もつぼみがたくさんついているのだろうし、もしかしたら桜も、もう―――――――――――


 私の好きな季節が来た。



 家から近い川原の土手をゆっくりと歩いて病院へ向かう。

 reduceを実行しまくったせいで極端に少なくなったワードローブの中から、今日はお気に入りの一枚ワンピースを着ていた。それは実家に戻ってから一度気晴らしにショッピングに出かけた際に買ったものだから、今回の作業には関係のないものだった。その上に明るい色のカーディガン。そうして風と光を浴びながら水辺を歩いていると、余りにも平和な気分で心が底からほんわかする。

 確かに冬は終わった。そして、私は違う自分になろうとしている途中。

 知らぬ間に浮かんだ微笑をそのままにして、私は自分の主治医がいる病院までゆっくりと進んだ。


「ああ、潤子ちゃん。顔色がいいね、それに・・・ちょっと雰囲気が変わったようだね」

 村上先生は振り返って最初にそう言った。

 私は診察用の椅子の上でニコニコと笑う。

「はい、この冬に思い切って、色んなものを捨てたんです。これからちょっとずつ新しい気に入ったものを買っていこうと思ってて、最近は気分もスッキリしてます」

「そうか、そういう時は確かにあるね。思い切りが必要だが、いいことだと思うよ。さあ腕を出して」

 いつもの確認を一通りして、先生はうんと頷いた。

「体もいい調子だね。このまま、無理をせずに、熱を出さずに夏まで持っていけるのを期待してるよ」

「はーい」

「ゆっくりだよ、ゆっくり。君は僕にしてみたら、まだ子供ほどの若さがあるのだから」

 親のように諭すとき、先生の瞳にはいつもやんちゃな光がともる。小さい頃から見てきたそれを今日も私はしっかりと見て、嬉しくなる。

 安心してホッとするのだ。

「ありがとうございました。先生、また」

「うん。春先は体調不良になって当たり前なんだから、気をつけるようにね」

「先生もですよ」

「はいはい」

 いつものように、先生は肉厚の手をゆっくりと振って見せる。私はぺこんとお辞儀をして部屋を出た。

 ざわつく病院を会計カウンターまで真っ直ぐに進む。今日も病院は混んでいるようで、名前を呼ばれるまで待合室の椅子に座って待っていた。

 大きなテレビの中はワイドショー。レポーターが甲高い声で都心で起こった放火事件について話をしている。私はそれを見るともなしにぼーっと眺めていた。

 その時、目の前を通りかかった大きな影が、あ、と声を出した。

 何気なく、ヒョイと見上げると、そこには垂れ目の笑顔とあの目立つ青いピアスが―――――――いやいや、ピアスをつけた男性が立っていた。

「あら」

 つい声を零す。




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