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今日の彼は前の黒いTシャツとボロボロジーンズ姿ではなく、白いロンTにエナメルのような光を放つ黒いスタジャンを着て、長めの髪を後で無造作に縛っている。ラフで小奇麗な都会の男性って外見だった。
私が彼の全身をざっと見たのと同じことをあっちもしていたらしい。口元をひゅっと引き上げて、タレ目を細めて彼が言った。
「んーと、あ、そうだ。ジュンコさん、だ。奇遇だね〜、出会いがいつも病院てのがちょっと何だかなーだけれども」
私は思わず人差し指を彼に向けながら言う。
「こんにちは。ルーズリーフの・・・」
「じゃなくて、名前は龍治ね。そのルーズリーフから離れてくれないかな〜」
彼は苦笑して、私の突きだした人差し指に自分の人差し指の先端とトンと引っ付ける。おお、E.T.―――――――とか言いたくなるのはこの世代の悲しきクセだわ。
私は慌ててパッと指を回収して、頭を下げる。
「ごめんなさい。でもその耳が。一度思い込んでしまったので訂正が」
「耳がね〜」
苦笑した顔は、確かに見覚えのあるあの男性だった。わあ、本当に奇遇だ〜!私はちょっと興奮して改めてそう思う。
大きな病院だし、私みたいに定期的に使っている人ではない、健康な男性だ。だからもう2度と会うことはないって思っていた人が、何の偶然か目の前に立っている。
「あ、どうぞ」
椅子を一つずらしたら、彼は軽やかに隣に座る。ふんわりと風が吹いて待合室のざわめきが一気に遠ざかった気がした。
うーんと・・・あ、そうそう、右田さんだった。右田龍治、さんだ。隣に座る男性を意識して固くなる体の力を抜くためにこっそりと息を漏らした。
彼は今では怪我も完治して、綺麗な肌にバランスの良い目鼻立ちが映えている。
・・・ああ、やっぱりいい顔だなあ、私は心の中で呟いて、口を開いた。
「また怪我ですか?」
「まさか」
彼がニッと笑った。長めの髪や首筋や目元や口元から、えらく色気の漂う笑顔だった。私はその威力に照れてしまって凝視をためらう。
・・・うーん、こんなに色気のある男性は初めてだから、どこを見たらいいのか判らないわ!
「俺だっていつでも暴れてるわけじゃないんですよー。前の、あの怪我で保険が降りるから、診断書がいるんだよね。書類を書いてもらいに久しぶりに来たら、何かみたことのある人がいるぞ、と思ってつい話しかけました」
「あ、なるほど」
保険の請求か、それは大切。元夫が保険会社勤務の営業だったので、一般の人よりは保険について知っている。傷害保険のことも張り切って話していた夫を思い出してしまった。
私は彼に頷いてみせて、ようやく自分の重ねた両手を見詰めることで視線の落ち着き場所を定める。何だかこの男性はどこを見てもドギマギしてしまうのだ。普通の格好で平然としているけれど、こちらとしては目のやりどころがない。いきなりパッと笑うしさ。
「そっちはまた高熱?」
いっそのこと彼の顔をじーっと見てみたいけどそんな勇気もなくて、私は自分の両手を凝視しながら話す。
「いえ、検診です。私も前の時から熱は出してないんですよ。この冬は一度も!」
「それって当たり前の話だと思うけど、ジュンコさんにとっては凄いことなんだろーねえ」
「そうなんです。―――――――あ、そうだ」
私は思いついて、ついくるりと彼を振り返ってみた。
「ん?」
バッチリと目があってしまって、やはり少しばかり身を引いてしまう。
「あ、ええと・・・あなたが去年言ってた3つのR、私始めました。とりあえず、部屋の整理からですけど、過去に関係あるものはバンバン捨ててます。夫に買って貰ったものとか、思い出の雑貨とか」
おお、と彼が呟いた。
「そういえば、そんなこと言ったな。実行するとは素晴らしい〜。・・・あ、アダチジュンコさん、呼ばれてるよん」
「あ、はい。ありがとうございます」
椅子から立ち上がって財布を出しながら、何だ、言った本人は忘れてたのか、とちょっとガッカリした。だけどこれは私の問題なのだから、彼は関係ないんだし、ガッカリするとか失礼か!お金を支払いながらごちゃごちゃと考えていると、お釣りを貰いそこねるところだった。
お釣りですよ、と言われて慌てて貰う。
「すみません」
「いいえ。お大事に〜」
ペコリと頭を下げて素早く離れる。もう、私ったら・・・恥かしいったらないわ。
自分で勝手に恥かしくなって財布を鞄に仕舞う。ああ、そうだあの人に挨拶してかなきゃ―――――――
そう思って顔を上げると、さっき座っていたところには既に彼の姿はなかった。・・・あらら。帰っちゃったのかな?さっきよりはもっとハッキリとガッカリして、仕方なく出入り口の方へ歩き出したら、ドアのところに件の彼の姿を発見した。
あ、いた。
立ち止まった私に彼はヒラヒラと片手を振る。
「会計、終わった?ジュンコさんて結構おっちょこちょい?」
にやにやしているのは私がお釣りを忘れかけたのを見ていたかららしい。ううう・・・何てこと。
「見てたんですね」
「うん」
とりあえず帰りの挨拶をしようと彼のところに行って、目を合わせるために見上げる。やっぱり高いなあ!元夫と同じくらい・・・もしくは、この人の方が高いかも。ついしみじみと比べてしまった。
彼は見られることに慣れているのか私のガン見にも平然として、あの色気ある笑顔で私を見下ろしながら言った。
「ジュンコさん、腹減ってない?」
「え?あ、お腹・・・空いてます」
「時間もいいし、俺とご飯しない?」
「え、ええと・・・」
何度か瞬きをした。私ったら、ご飯誘われちゃった!そう思って、つい緊張する。うわああ〜・・ええと、一体どうしたらいいんだろう。こういう時って、どう返事したらいいのだっけ?私が一人でわたわたと焦っている間に、実に自然に誘いの言葉を口にした彼は何でもない風に歩き出してしまう。
「あ・・・あの――――――」
ちょっとちょっと、私まだ返事してないんだけど・・・。だけれどもそれは口に出来ず、とにかく私は大きな背中のあとを追った。
病院を出たところで春先の光を全身に浴びながら、彼が振り返る。垂れ目を細めて、口元をひゅっと上げて。
「それで、オッケー?」
「え?・・・ええと、はい」
どっちにしろ、今日は家にはまだ帰れないのだ。私は姉の姿を思い浮かべてそう思った。だからこの人とご飯を食べて時間を潰すのはすごくいい考えだと思うって。一人で散歩するよりも・・・楽しそうだし。
「そうですね、お昼しましょうか」
私がそう言いながら頷くと、彼は後ろポケットに突っ込んでいたらしい携帯を取り出した。
「じゃあちょっと待ってね、上司の了解とるから」
「え?」
歩きながら彼は携帯電話を耳に押し当てている。私はその後を歩きながら、ちょっと混乱した。上司?どうして私と一緒にお昼食べるのに、上司の了解がいるの?あれ?私、何か聞き逃している?
「おー、虎、あのさあ、今から山神のキッチン借りてもいいか?」
彼は私に歩調をあわせてくれているらしかった。焦って歩こうとする私を手の平をパパッと振って抑えて、急がなくてもいいって呟く。
や、優しい!私は少しばかり感動して、歩くペースを自分のものに落とした。
「ちゃんと材料は持参するっつーの。それか後で補充しとく。・・・え?いや、女の子と一緒だけど。あははは、お前、俺がそんなことすると本気で思ってんの?」
何やら楽しそうにベラベラ喋りながら進む彼にひっついて、私はわけが判らないままで歩いていた。
・・・ええーっと。これからどこに行くんでしょうか。それに今、上司の人と話している電話とは思えない言葉遣いだけど(しかも虎って・・・名前も呼び捨て??)、それはまあ置いておいても女の子って誰のこと。・・・女の子・・・私、33歳なんですけど。それともまさか他の人の話だったりするとか??
色々複雑な考えがぐるぐると頭の中をまわる。彼は最後にまた大きな声で笑ってから、じゃあまた明日な〜と言って電話を切った。
「お待たせ。了解貰えたから行こうか」
「え、あの、一体どこへ?」
「店だよ、俺の職場〜」
え!?私は驚いて彼を見上げる。私の反応は予想通りだったらしく、面白そうな顔をしたままで彼は言った。
「ここら辺で一番美味しいもの作るのは、俺だよ。店の厨房借りるからスペシャルランチ作る。期待しまくってついて来てくれる?」
「店?・・・あの、駅前のご飯屋さんではダメなんですか?」
だって私、今日あなたに会った2回目なんですけど!?混乱していたけれど、彼はどんどん進んで行くから必死で質問を飛ばした。相変わらず楽しそうに、しかし断固とした雰囲気で彼は話す。
「うんダメ。外見はちょっとばかしお洒落かもしれないけど味がイマイチ。金払って食べるなら美味いもん食いたいけどここら辺ではそれが簡単じゃねーんだ。だから俺が作る」
「え、いえいえ、あのー、お店は開いてるんですか?」
驚いたままの私は焦って彼を見上げる。お金払うならってのは判るけど、すごーく判るけど、でもそれでどうして話が職場に行き着くの〜!?そう思っていた。
「まさか。居酒屋だから仕込み始めるのでも2時からだよ。でも今日は店が休みの日だから大丈夫」
「や、大丈夫って・・・えーと、あの?」
「それとも職場の店より俺の部屋がいい?」
「!!」
「おお、固まった〜。あはははは」
彼は実に嬉しそうに大きな声でゲラゲラと笑った。道行く人が振り返るほどに。・・・あああ、恥かしい。私は顔が熱くなるのを感じながら、ぼそっと言った。
「・・・いえ、お店の方がいいです」
まだククク・・・と口の中で笑ったままで彼が頷く。
「そうでしょ。で、何が食べたい?和食洋食、どっちする?」
「ええと」
「どっち?今選んで。ほら、早く早く早く!」
「あ、あ―――――」
「選べーっ!!」
「よ、洋食です!」
迫力に恐れをなして、私はつい叫ぶ。
はいよ、彼はそう言ってまた笑った。
茶色の髪の毛を光に輝かせながら、スタスタと歩いていく。私は冷や汗が垂れるのを感じながら、大きくなった鼓動を抑えようと必死になっていた。・・・大きな声、聞いたのも出したのも久しぶりだ。でもそっか、短気だって自分でも言ってたっけ、この人・・・。
だけど、初対面といってもいい人を職場に連れて行って大丈夫なんだろうか。それにそれに、ついていって大丈夫なの、私!?一応姉に連絡いれといたほうがいいのかな。いや、でもそれって失礼かもしれないし―――――――
考えまでこんがらがって、何が何だかわけが判らない。彼は平然と私を連れてその長い足をゆっくりと動かしていく。
目指しているのは商店街のようだ、と気付いたのは結構経ってからだった。
「ここ。ようこそ山神へ」
彼がこちらを振り向いて笑った。
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