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龍さんが顔を巡らせて私を見た。それは優しい顔で、口元だけでちょっと笑っていた。
「それで・・・ちゃんと強くなれたよ。高校生の頃には、俺は腕でも迫力でも誰にも負けなくなっていた」
私は唾を飲み込んだ。聞いている内に緊張してしまって、喉がカラカラだったのだ。手を伸ばして彼の手を握る。その手は暖かくて、いつもの龍さんのそれだった。
「お母さん達も、守れたの?」
出した声は掠れていた。だけどその時の私は最悪のことを想像していたのだ。もしかして、龍さんから家族の話を聞かないのは、聞いたことがないのは、もしかして・・・。そう思って怖くなったのだ。
龍さんが苦笑する。ふっと口元を歪めて、それから低い声で言った。
「父親は本当にバカだから、勝手に自滅したよ。俺が中学生の時だ」
「え?」
私は首を傾げる。・・・自滅?それってどういうこと?そう思って。
「酒に酔って通りで喧嘩したらしい。その時に殴った相手は学生で、かなりの重症を負った。それで父親は刑務所行き」
彼は苦々しげにそう言って、ふんと鼻で嗤う。
「懲りずにその中でも喧嘩して、打ち所が悪くて死んだと聞いた。俺と弟の体が大きくなるにつれて、父親の暴力は母親に向くことは少なくなっていた。俺はボクシングで腕っぷしを鍛えたし、弟は勉強を頑張って頭の方を鍛えた。バカ親父は俺達には敵わない。それで、父親が死んで終わりだ。俺達は本当の意味で自由になって、母親は職場で見つけた新しい男と再婚した」
私はホッと肩の力を抜いた。
「・・・お母さん、幸せになったのね」
龍さんは目を閉じて頷いた。
「相手の男は年上で、穏やかな性格で、初婚。子供はもう生まれなかったから、母親について行った弟が子供として籍も入れたしよくしてもらっているらしい。俺は高校の時から一人で暮らし始めて、ボクシングを教えてくれたその人にひっついていた」
龍さんが、この話を始めてからやっといつもの笑顔を見せた。
「その人も料理を作る人だった。手先が器用だからと勧められて、俺は料理の専門へ進んだ。ボクシングでも優秀だったから、誘われたんだ。プロを目指さないかって。だけど―――――――――壊すか作るか・・・それなら、作るほうにしようかって思った」
彼はにっこりと笑って言った。それに、優秀と偉大はやっぱり違うよなって。プロになれるやつは、優秀なんでなくて偉大なんだって。
彼はついと手を伸ばす。そして柔らかく私の頬に手を当てた。
「・・・屋根裏に放り込まれた、その頃を思い出すんだ。だから、未だに暗闇は苦手。一人で暮らしてる時はずっと電気はつけっぱなしだった。だけど、もう、あんたと住んでる。だから大丈夫だ」
小さい龍さんは痛む体を丸めて屋根裏に転がっていた。
痛みや父親、そして暗闇の恐怖から逃れる為に、泣きながら蹲って震えていた。
父親が酔っ払って寝て、お母さんが助けてくれるまで、いつでもそうしていた―――――――――――
・・・ああ。
私は手伸ばし、彼の顔を引き寄せる。体から力を抜いて、龍さんは私にされるがままになっていた。引き寄せた頭を抱きしめて、私は頬をすりよせる。
彼の悲しい過去の話。だけど、それを自分で乗り越えるべく、この人はすごく努力したんだ。
私が今までそれほど頑張ったことがあっただろうか。
弱い体と心を抱えていた。だけど、私の周りはいつも温かい人ばかりだった。この人の気持ちは、私には一生理解出来ないに違いない。
だけどとにかく、二人が今一緒にいるならば。
この人には、笑って欲しい。
私がその助けになるならば、喜んで、苦しみだって受けて立とう。
そう思った。
こんなに強い気持ちで何かを願ったことはなかったかもしれない。
私の胸に抱かれて、龍さんが口を開く。
「―――――――俺はね、彼女にはいつも振られてきた。何だか真剣じゃないみたい、こんなのは恋じゃない、そんなことを女の子たちに言われてきたんだ。・・・それはある意味当たってる。嫌われないような、適当に当たりのいい態度しかしてこなかったって、今は判るんだ」
彼の手が抱きしめる私の手を引っ張る。龍さんは頭を上げて、至近距離で私を見上げた。
「だけどジュンコさんには、イライラする」
彼のタレ目に私がうつる。ただじっと見詰めたままで、龍さんが話すのを聞いていた。
「ジュンコさんには腹が立つし、何でなんだって思う。泣かせたいと本気で思うし、でもやっぱり笑顔がいいとも思う。毎回忙しくて、ハラハラして、会えない時に思い出して苦しくなったりとか、する」
ガーン・・・と私の頭の中ではマンガみたいな効果音が鳴り響いた。
・・・イ、イライラ、するんだ、やっぱり。忙しいのもハラハラするのも苦しいのも、何だかそれって全然いい恋人ではないのでは?少なからずショックをうけながら、私はそんな事を考えた。
龍さんは私の胸元から見上げながら続けて言った。
「どうしようもないって判ってるけど、俺はあんたの別れたダンナに嫉妬してる。俺がジュンコさんの、初めての男になりたかった。何であんたはバツ1なんだって、それもまたムカついたりして」
「す、すみません・・・」
謝ったってどうしようもないけれど、居た堪れなくて私はとりあえずぼそぼそと謝罪を口にした。
龍さんは何だかやたらと色気のある切ない表情になって、じいっと見詰めてくる。うわ・・・くらくらする、そう思ったら、低い声がまた聞こえた。
「今までねえよ、こんな状態、自分でも笑うくらいだ。俺は、あんたが本当に好きなんだよ」
ぐっと胸にきた。危うく涙ぐみそうになったくらいに。だけどだけど、その前にかなり気になることも言ったわよ、この人・・・。
私はちょっと困って、そお〜っと言葉を出した。
「・・・泣かせたいって思ってたの?」
すると急速でガラリと彼が表情を変えて―――――――――――にや〜っと笑った。
「うん。苛めて苛めて苛め抜いたらどんな顔するかなって想像した」
恐怖のあまり、強烈な眩暈に襲われた。
「そ・・・想像、だけに、しといて下さいね」
ちょっと前までは包み込むような気持ちでいたのに、今では私は唸っていた。何てことよ〜・・・私苛められるの嫌なんですけど。
・・・ていうか、もしかしてこの至近距離は、大変、危険なのでは・・・。
彼の体からパッと手を離す。それからソファーの上で、体を離すべく後ずさった。
龍さんはだらんと背もたれにもたれ、ニヤニヤしたままで首を傾げる。
「おや〜?慰めてくれるのはもうお終いなわけ?うれしかったんだけどなあ〜。もっかい胸にぎゅう〜ってしてよ」
・・・きゃーっ!私は心の中で叫ぶ。もう、すんごい恥かしいんですけど!ちょっといきなり雰囲気というか、性格変わりすぎじゃない、この人!?さっきまでの傷付いた過去の回想はどこに消えたのよ〜!
「・・・だってもういつもの龍さんでしょ。慰める必要ないでしょ!」
くくく・・・と龍さんは口の中で笑う。そしてすごく悪そうな顔をして、私を覗き込んだ。
「どんな苛め方したいのか具体的に聞きたい?例えばの話で、聞いてみる?」
「聞きません〜っ!!」
私はそう叫んでガバッとソファーから立ち上がった。もう、もう、もう〜!!顔がカッカしていた。あんな顔をしている龍さんは、きっとろくでもないことを言うに決まっている。絶対そうだ。聞かないべきだ!
ケラケラと笑う彼の声を後ろに聞きながら、私は元姉の部屋で今私の仕事部屋のドアをバンと閉じた。
後ろ手にドアを閉めて、しばらくそのままで突っ立っていた。
ドキドキした。
彼のあんな顔を知ってしまって、私は本当にドキドキした。
3つのRを教えてくれた先輩っていうのは、あの話に出てきたボクシングを教えてくれた人なのかもしれない。
その出会いを無駄にせずに、龍さんは強くなった。過去の自分から変わるために、教えてもらった3つのRを実践したと言っていた。
私に会って、それをまた教えてくれた。
あれは、とにかくもがいて前に進もうとする人の為の、背中を押す温かい手なのだ。
今では私の仕事部屋になった部屋を見回した。壁にはまだ3つ目のRを書いた紙を貼ってある。ここで私は生活費を生み出し、社会とかかわりを持って、元夫との生活から離脱しつつあるのだ。
元夫がくれたお金は今ではほとんど使わずに済んでいる。仕事をみつけ、外へ行き、新しい恋をして。
そして私も―――――――――――ここまで、変われた。
龍さんは、私に子供時代を話したことで何かつき物が落ちたみたいに前よりお喋りになった。
といっても主に話すことが増えたのは自分の過去や家族のことに関してだけど。
昨日の朝食の時なんか、朝日にキラリと光るいつものピアスを私が綺麗だねと褒めると、ぶっ飛ぶようなことを言ったのだ。
「あ、これはあれだよ。元々俺の趣味なんじゃなくて、父親に耳に根性焼きいれられた跡を消すためにしてんだよ」
って。
私はぽかーんとしてコーヒーカップをもったままで固まった。
「・・・根性焼き?」
そう聞き返すと、彼は不思議そうな顔をする。
「あら、知らねーの、ジュンコさん?タバコの火がついたままで、こうじゅう〜っと・・・」
「うぎゃあああああ〜っ」
痛い想像をして私は顔を顰める。そ、それを耳朶にされたってことなの〜!?もう、本当になんてことを、龍さんの父親って!私はううっと呻いて彼の耳を見詰める。
「小4の時ね、あれはマジで痛かった。やっぱり目立つから中学の時に穴開けて誤魔化そうとして、だけどそれよりも焦げ跡の方が大きくてさ。仕方ないから太い輪を入れて、一つじゃゲイみたいだからついでにって3つにしたわけ。でもやってみたら気に入ったんだよ。俺、似合ってるっしょ?」
にーっこり。私はその笑顔を見て、仕方なく微笑みを作る。・・・はい、大変よく似合ってます。
そんなことが増えたのだ。
彼の、様々なことは結構その幼少時代の暴力に由来していて、人間ってやはり過去から出来てるんだよね、と思うほどに。彼が今まで自分のことを進んで説明しなかったのは、幼少時代のことを話せなかったからだったのだ。
私はその話を聞くと悲しくなるけれど、それ以上にそれを乗り越えて強くなった彼を誇らしく思うのだ。
努力して、彼は変わった。
だから私は、今、一緒にいれるのだなって。
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