A



 驚くのに忙しくてずっと無言の私を見下ろして、彼はちょっと困ったようだった。落としたタオルをこっちへ差し出しながらもう一度聞く。

「・・・なあって。大丈夫、なんですか?結構な勢いでぶつかっちまって・・・その・・・」

 あ。返答を待ってるんだわ、この人。

 ようやくそう気がついて、差し出されたタオルを受け取りながら頷いた。

「大丈夫です。ほら・・・点滴の針も外れてないし。場所がないらしくてここでやってるんですけど、そりゃあ邪魔ですよね、すみません」

 点滴に繋がれた腕を見せてそう言うと、彼は腕から点滴の薬袋までをチラリと目でなぞった。それから切れて血が少し滲んでいる口元をきゅっと上げて、笑顔を作ったようだった。

「そっか、それは良かった、です。じゃあ、お邪魔しました〜」

 ヒョイと片手をあげて、使いにくそうな丁寧な言葉を出して、彼は衝立の向こうへ消えた。

 私の瞼にはその塞がりかけた片目の残像や光ったブルーのアクセサリーがいつまでも残る。潰れてないほうの瞳は甘えん坊そうなタレ目だった。彼は、あんなに顔がボコボコでなかったら結構整った顔をしているのじゃないかしらね、そう思って、私はまた一人で壁にもたれる。

 ・・・ああ、それにしてもビックリした。



 熱が下がって体が軽く感じるまでそこにいて、それから会計を済ませて電話で姉に来てもらい、家に戻った。

 久しぶりに他人と・・・何も関係のない男性と会話をしちゃったわ。そう思い出すと、少しだけ笑えた。多分喧嘩だったのだろう、いいなあ、そんな元気があって。私があんな顔になるまで暴れようと思ったら、腕をあげるだけで熱が出ちゃうわよね、きっと。そんなことを考えて、しばらくニコニコとしていた。

 姉に、熱が下がって機嫌がよくなったのねって言われてハッとするくらいに、微笑んでいたようだ。

 自分のベッドで眠りにつくまで、彼の青いアクセサリーはしぶとく私の瞼の裏に残っていた。




 翌日は昼過ぎまで寝て、ちゃんと熱が下がった状態でもう一度病院に行く。

 先生に、点滴で下げるのはあくまでも対応の一つである、と長年言い聞かせられてきた私は大人しくもう一度診察を受けに行ったのだ。

「ああ、ちゃんと来たんだね。偉いじゃないか、潤子ちゃん」

 仮眠程度のはずなのに、もう70歳は超えているはずなのに、先生は今日もツヤツヤとした肌で元気そうだった。

「先生が羨ましい・・・。どうしてそんな元気なんですか」

 思わず零れた言葉に先生は、はっはっはと笑う。

「君だってなろうと思えばなれるんだよ。別に血が悪いとか、先天的な持病があるわけじゃあない。ただ、全てが細くて血流が悪い、疲れやすい体質なんだ。だから改善は出来るはず、ずっとそう言ってただろう?」

 まあ、それは判ってるんですけど、口の中でゴニョゴニョ返す。確かに自分から改善しようと努力したかと言われると、詰まってしまう過去しかない私なのだった。

 血圧も測ってから、先生はいつものようにパンと両手を合わせた。

 それは診察が終わったという合図なのだ。私は立ち上がって深深と頭を下げる。

「大丈夫、前に比べたらずっとよくなってるよ。新しいことも始められるはずだよ」

 
 診察室を出てから廊下を歩きながら、それは確かにそうだよね、と思った。

 離婚直後の私は本当にボロボロだったのだ。いや、むしろ殆ど無理をしていなかった体は元気だった。だけれども、心の方にとてつもない疲れがあって、それで毎週のように高熱を出して倒れていたのだ。

 その度に村上先生に診てもらい、慰めの言葉を貰っていたのだった。あの頃に比べたら、私、かなり元気になってるんだから。自分で頷いて確認まで取る。

 私がまた倒れたとどこからか話を聞いて見舞いに来た元夫には、そんな姿を見せたくなかった。ただでさえやつれているらしいのにまた心配させてしまうのが嫌で、会うことはずっと拒否してきた。だけど、それは今では自分の為だけのことで、彼の為にはなっていなかったと判る。

 私はまた、更に彼を傷つけたはずだ。



 薬を貰って会計を済ませながら、ざわめく病院の中を見回す。ふと、中庭の光溢れる緑色の空間に目が行った。普段はあまり行かない中庭。そこはキラキラしていて、風が緑を揺るがせ、とても温かくて気持ち良さそうな場所に思えた。

 私は吸い寄せられるようにフラフラと中庭へ出て行く。

 初秋の風が細めた瞼や髪を撫でて通っていくそのあまりの気持ちよさに、ついその場で深呼吸をした。

 中庭の緑や芝生が風で揺らいでいた。そこここに散歩をしている人の姿があって、私はゆったりとした気持ちになる。

 気持ちいい。もうちょっとだけ、ここで光を浴びて行こうかな。

 そう思って見回すと、少しばかり奥まったところに木陰になったベンチを発見した。そちらを目指してゆっくりと歩いていく。すると、近づくにつれてそのベンチに横たわる大きなものが目に入った。

「・・・」

 人影・・・あら、先客?まさか倒れてるんじゃないよね?

 場所が場所だけにそんな恐れも少しは抱いて、私は恐る恐るベンチに近づいて行った。

 ちょっと足運びを慎重にして、音を消して回り込む。すると視界一杯の、大きなスニーカーが目に入った。それからボロボロの汚れたジーンズ。黒いTシャツにお腹の前で組んだ腕。長い茶色の髪をベンチから垂らして、男性が寝ていた。

「あ―――――――」

 声を出しかけて、パッと口元を両手で覆う。・・・寝てる、よね。規則正しく呼吸しているみたいだし、倒れてるんじゃないってことは・・・私は邪魔、ですよねー。

 いつもならそのままくるりと背を向けて、そそくさと去ったはずだ。だけど、その時の私の視界には、キラリと光る何かが飛び込んできて、それが気になって振り返った。

 木漏れ日が顔に当たるのも気にならないのか、その男の人は熟睡しているらしかった。目元の青あざ、切れたらしい口元、それから髪の間に光る青いアクセサリー―――――――・・・ピアス、だよねこれは。青い、3つのピアスだ。うわあ〜3連なんて初めて見ちゃった!私は思わず凝視してもう少し顔を近づける。うーん・・・何というか・・・ルーズリーフみたい。

 私は男性がぐっすりと眠っているのをいいことに、じりじりと近寄ってじっくりと観察する。・・・こういうの、痛くないのかな、とそこまで考えて、ようやく私は気がついた。


「あ」

 この人、昨日の人だ!衝立に足を引っ掛けて、車椅子に倒れこんできた、あの男の人だ―――――――――

 声は小さかったはずだ。だけれども、やはり人に見られていると気になるらしい。熟睡していたと思った男の人が、いきなりパチッと目を開いた。

 そして私が固まっている間に何度か眩しそうに瞬きをして、組んでいた腕を解き、体を起こそうとして―――――――私に気がついた。

「うわあっ!?」

「ひゃあ!」


 彼が叫んでガバッと身を起こす、それに驚いて私は仰け反って叫んでしまった。

 あ、お、起きちゃった。あら、どうしよう。やだやだ、私ったらあまりにもじっと見ちゃったから・・・。し、失礼だったわよね、ああどうしたらいいの!私が脳内で大いにオロオロしていると、まだ垂れ目を見開いて驚いていたらしい彼が、ほお〜っと大きく息を吐いて全身の力を抜いた。

 焦った私は何とか言葉を押し出す。

「あ、のー・・・こ、こんにちは」

 言ってから自分で情けなさに凹んだ。・・・ああ、私ったら。とりあえず驚かせたのだから、まずは謝るべきだったんじゃない!?そう思って。

 だけど胸に当てていた手をするりと下ろして、男の人は口元を持ち上げた。どうやら笑ったらしい。

「・・・ああ、ビックリした。えーっと・・・邪魔、ですね、俺。すみません。」

 そう言いながらパッと自分の足を下ろしてベンチの端へ寄る。

 私は焦って手を振りながら言った。

「あの、いえ、大丈夫です。どうぞお休みになってください。私帰りますから」

「いや、いいよ。むしろ俺が消えるべきだよな。こんなところで寝ちまって――――――・・・って、あれ?」

 ワタワタする私に手を振ってみせて、それからマジマジと私を見た。私の全身をザッと彼の視線が走る。少し怪訝そうな顔で、小さな声で彼が言った。

「昨日の人?だよな。・・・・でも――――――立ってるけど?」

 そのタレ目とバッチリ視線があって、思わず私は動きを忘れる。・・・あら、綺麗な顔。そう思ったのだった。昨日よりはマシではあるが、色んな箇所が青かったり赤かったり膨らんでいたりしてやっぱりボロボロの痛そうな外見だった。だけど、公平に見て、この人はかなり格好いい男性だった。

 10秒ほどは無言で目があっていたけれど、彼は怪訝な顔のままで待っていた。そこで私はようやく、質問されたのかと気がついた。

 え?何かまってるよね・・・この顔。え、え?だけど、一体何て言えばいいの?私はよく判らなくて首を傾げる。自慢じゃないけど、賢いだなんて褒められたことなど一度もないのだ。元夫にも「のんびりさ〜ん」などと頻繁にからかわれたものだった。

「・・・」

「・・・」

 こ、困った。彼も居心地が悪そうな様子。ああ、どうしよう。私は焦って両手を合わせる。

 落ち着くのよ、ゆっくり考えたら判るはず、そう思って懸命に答えを探る。彼は何て言ったっけ?・・・立ってる・・・立ってる?そりゃあそうでしょ、私は別に足なんて怪我してない―――――――あ、判った。

 彼の疑問がとけた、それが嬉しくて、ついにっこりと笑った。

「はい。昨日は、点滴打つためのベッドが空いてなかったので車椅子でやってただけですから」

 私が昨日車椅子に座っていたから、歩けない人だと思ったらしい。彼は手をパンと合わせて頷いた。

「ああ、そうなんだ。えーっと・・・とりあえず、座って下さい」

 彼も苦笑して更に端へ寄る。それから座ったままで、うーんと上下に伸びをして――――――呻いた。

「うっ・・・いたたたっ!」

「だ、大丈夫ですか?もしかして怪我は顔だけじゃなかったりします?」

 驚いた私がワタワタと聞くと、彼は身を縮めてははは、と苦しそうに笑った。

「もうちょっと避けれると思ったんだけどな、案外全身負傷だった」

 やっぱり年かな、小さく口の中で呟いている。・・・聞こえちゃったけど。

「昨日より・・・マシですね、目元は」

 恐る恐るそう言った私を見て、隣で彼は小さく笑った。

「ああ、そうか。昨日の俺の顔見て、確かに仰天してましたよね。幽霊のお岩さんみたいになってたからな」

「喧嘩ですか?」

 お岩さんって・・・まあ、確かにちょっとグロかったけれど。それにしてもえらく楽しそうに話すなあ〜、喧嘩とか暴力とか、そういうのが好きな人なのだろうか。私はちょっと怯えながらそう聞く。こういう感じの男の人は今まで周囲にいなかった。怖いけど、得体の知れない怖さよりも好奇心が勝ったのだった。

 彼はうんと頷く。

「そうそう。この短気は直さなきゃとは思ってるんだけどね、柄の悪い客が来て、つい切れちまって・・・店で暴れちゃったんだよ」

 店!?私はもう遠慮なく彼を見た。え、え、お店で暴れたってことなんだろうか。うわあ〜・・・そんな、やっぱりちょっと怖い人なのかも。

「・・・お店で、ですか」

「そうそう、俺の仕事は板前なんだよ。元々はイタリアンなんだけど、今は居酒屋にいてさ」

「え!?料理作る人ですか?」

 この上にまだ驚くことがあるとは!私としてはそんな感じの驚きだった。仰け反った私を見て、彼は小首を傾ける。

「ん、そんな驚くこと?」

 だって・・・・。言い難そうな私の顔を見て彼が促すので、私は遠慮なしにピアスの耳元を指差した

「あ、これ?派手?」

 耳元の3つの青いピアスを揺らして彼が言う。私はドギマギしながらも、ゆっくりと頷いた。

「・・・派手・・・というか、ルーズリーフみたい・・・」

 少なくともご飯を扱う職人さんには見えない。

 彼はショックを受けたらしい。眉毛を八の字に落として情けない顔で言う。

「ルーズリーフには足りないだろ、8つはないと!・・・それにしても、俺のトレードマークが・・・」

 体の大きな、しかも外見がボロボロの男の人が悄然としているのはちょっと可哀想で面白かった。だから私は思わず声を立てて笑ってしまう。





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