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少しずつ風がひんやりとしてきたなあと思いながら、飛んでいく雲を見ていた。
その日は晴れていて、上空は風が強いみたいだった。雲が千切れてはビュンビュンとんでいき、ちゃんとした形なんて形成される暇がないようだ。
そんなに急がなくてもいいのにね、ふとそんなことを思いながら空を見上げる。
・・・ゆっくり、ゆっくりでいいのに。
首の後がいたくなって、苦笑を漏らした。
6月頃から暑かった空気が漸くマシになりだした9月の最後、昼間はまだシャツ一枚だけで十分だけれども、夜には軽く羽織るものが欲しくなる、そんな季節だった。
今年の夏は一度も倒れなかった。それが素敵だと思って、ちょっと久しぶりに遠出をしてみたのだ。一人で電車に乗って、2時間くらいの高原まで。ふわふわのフードがついたパーカーを着ていればちょうどいいくらいの涼しい空気を求めての外出だった。
高原では早いコスモスが揺れているのをゆっくりと眺め、それから山道を歩いてその近所の大きな神社にお参りにいき、手づかずの深い緑の空気に飲み込まれそうになって帰ってきたばかりだった。
太ももがだるい。こんなにちゃんと歩いたのは久しぶりだったから。
少し眩暈を感じるけど、寝てしまえば大丈夫、そう思っていた。ご飯をたべて、お風呂はパスして寝てしまおう。本当はちょっとでも体を温めるのがいいのだろうけど、湯気でやられちゃうかもしれないし・・・。疲れの度合いを自分の中で量りながら門扉を開ける。
ゆっくりと手を伸ばして玄関のドアを開けて、奥にいるはずの姉に声をかけた。
「お姉ちゃん、ただいま」
阿達潤子という名前で26年間生きていて、それから学生時代からの恋人と結婚した。だけどその結婚生活がうまくいかず、28歳で離婚、実家に出戻りって形になってしまったのだ。
しばらくはそのまま両親と家で暮らした。だけど、親の、出戻り娘に対する腫れ物にさわる感じが次第にイライラしてしまったのだった。
十分な大人になったはずだったのに、子供と同じように相変わらず保護されている自分が情けなくて悔しかった。
いうなれば、すれ違いの果ての離婚。私は最後に言いたいことを全部彼に投げつけて家を飛び出し、慌てた彼がやつれて迎えにきたり、せめて生活費だけはって大金が振り込まれたりで色々あったけれど、もう修復は難しかったのだ。
不倫や物に対する価値観の違いなどではなく、お互いがお互いのことを思って行動した結果、巨大な孤独の空間が生み出されてしまったのだ。
どっちもが悪かったし、どっちもが悪くない別れだった。結局のところ、私と彼は合わなかったのだろう。一緒にいると関係を悪くさせてしまう縁があるとなれば、それがあの頃の私達だったのだ。
別れてしばらくして、彼が過労で倒れたと共通の友達に聞いた。
私を一人で放置していたと自分を責め、少しでも多くお金を渡そうとして、働きすぎたらしい。
彼らしくて、私は少し笑ってから泣いた。彼の、無理が見なくても判って痛かったのだ。ああ、バカな人なんだからって一人で呟いて。
もう気持ちも手も届けることは出来ないけれど、幸せになってほしいのに、そう思っていた。
多分、お互いにそう思ってた。
ちょっとした親切が人を殺すこともある、そう知ったのは2年間の結婚生活だったわけだ。強烈な幸せなどなかった。だけど確かに彼のことは好きだったのだ。一緒の生活に憧れて、結局のところそれは思っていたのと大きく違う模様を描いて散り散りになり、毎日の中に消えてしまった。彼には私は必要なかった、それが判ってしまって苦しくて、自分から逃げた日常なのだ。
仕事が大好きで、朝から晩まで働いていた夫。体の弱い私を自分の力で何の苦労もない暮らをさせてあげたいと、ニコニコ笑って出掛けていった。
そんなにお金はいらないから、一緒にいて、とは言えなかったのだ。
二人で働いていて財産を築けない、私は無理をすれば直ぐに倒れるし、定期的に病院代までかかってしまう。
だから出来るだけワガママは言わないようにしようとしていた。行ってらっしゃいと手を振って笑う。それからドアを閉めて泣いていた。けれどもそうしたのは私だ。
夫と話したりせずに、勝手にそうしたのは私なのだ。
だから責めるわけにいかないのだ、本当は。
長く責める言葉だけを書いたあの手紙。置手紙をして家を出た、過去の日の私を平手打ちしたい。だけど勿論そんなことは出来ないから、私は仕方なく前を向く。
昔から体が弱かった。だけど、この体で生きていくしかないのだからって。
とりあえず実家を出よう、そう決めてから、だけどそれすらも難しかったのだ。計画の時から疲れると高熱がでて寝込んでしまう。
見かねた姉が、都会からこっちに戻ってきた。それで、ちょっとした郊外の住みやすい町に、姉と二人で住むことになったのだ。
「いいのよ、私はちょうど独立を考えていたところなんだから」
姉はそう言って笑うけれど、私に対する心配がありありと見てとれた。でも甘えることにしたのだ。まだ、両親といるよりは心がやすらぐはずだ。この世で一番近い遺伝子の人間である姉と、私は人生を前に進ませようと決意した。
その際に、家賃は半分にするって意見を通す必要があった。自立、それが一番私の求めるものだったのだから。
養われるのが夫から父に、そして姉に代わっただけって状態は嫌だったのだ。だから、できることをしてお金を稼ぐから、私にも家賃を払わせて。そう頼み込んでやっと実現したこの生活が、3年目に入っている。
私は、もう33歳になっていた。
高原に一人で出かけたその夜に、熱が出た。
「うう〜・・・本当に、情けないったら」
頭の下にアイスノンを敷きながらソファーに寝転んでブツブツ言う私を覗き込んで、姉が呆れた声を出す。
「疲れたのよ、そりゃあそうでしょ。今までの潤子なら一泊するような距離を日帰りで行ったんだから。今年の夏は折角一度も倒れなかったのに、最後にこれとはね〜」
はい、体温計終わった?そう言って私の脇から電子体温計を抜き取る。そして表示を見て、姉は眉毛を八の字に下げた。
「・・・39度突破してるわ。これじゃあしんどいでしょう。夜間行きましょうか」
ええ〜、もうやだ〜!私は情けなさから泣きそうになりつつ、苦しい呼吸の下で小さな抵抗を試みる。
「も、もう薬飲んで寝とくから。お姉ちゃんまだ仕事あるんでしょう、気にしなくていいから、続きしてよ」
「この小さな家で視界の端でうんうん唸られているのが嫌なのよ!私の為を思うなら、大人しく救急いってちょうだい。点滴でもしてさっさと下げるほうがいいわよ」
腰に手をあてた姉がそう威嚇するので、仕方なく私はうなずいた。
もう目の前はクラクラするし、やたらと寒いし、頭も割れそうだ。言い合う元気もないから甘えるべきよね、そう思って重力をいつもの3倍ほど感じる体を何とか起こした。
ラッキーなことに、姉に車で連れて行って貰った夜間の病院には、私の主治医が勤務していた。
「おやおや・・・最近見ないなあ〜と思っていたのに」
残念だねえ、そう柔らかく言って、主治医の村上先生が苦笑した。
私が小学生の頃からお世話になっていて、私の体のことは何でも知っているおじいちゃん先生だった。私は先生の顔を見て、心の底から安心する。ああ、辛い・・・だけど、もう大丈夫だって、先生の手で触れられるとすぐにそう思えるのだ。
肉厚の温かい大きな手。この手で私は数々の危機を乗り越えてこられたのだから。
「・・・ちょっと油断しちゃって・・・。遠出して、疲れたんです」
私が細い声で言うと、仕方ない人だね、君は、といつもの説教が降って来た。
「普通の人間でも疲れが出始める時期に、体の弱い人間はじっとしとかなきゃダメなんだよ。さ、ちょっと今日は混んでて忙しいから、部屋が空いてないので悪いけどあっちで点滴しようか」
歩けないので車椅子に乗せられて、廊下を衝立で囲んだ場所で私は点滴をうけることになった。確かに、今晩はやたらと怪我人が多いようだった。
なんだろう、どっかで喧嘩でもあったのかな?何か・・・イベントで事故とか?
熱が高くてうつらうつらする。そんな状態で、車椅子に座ってタオルをクッションにして頭を壁に預けていた。小さな夜間受付の、ざわざわする音が響いてくる。
ほんと、今日は騒がしい・・・・。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、さっきまであった強烈な寒気が消えているのに気がついた。
「・・・わあ、さすが点滴」
もう既に熱が下がり始めているのだろう。毎度のことながら、感心する。乾いた唇でそう呟く。血液に直接薬をいれること、それって絶大なる威力なんだわ―――――――――
ガシャン!
「うわ!」
「きゃあ!?」
急に揺れ動いた車椅子の上で驚いて、私はつい叫び声を上げる。パッと顔を上げると、そこには車椅子の横にしゃがみ込む一人の男性がいた。
「い、いてぇ・・・」
足首を押さえてうずくまっているらしい。どうやら、込み合った廊下を進もうとして衝立の足に引っかかったらしかった。で、そのままその中にいる私に倒れこんできた、そういう場面らしい。
驚いた拍子に私の頭の下から落ちたタオルを大きな手で拾って、その男の人が顔を上げた。
「!」
私は思わず仰け反る。高熱で潤んだ瞳でも、ハッキリと判るくらいに盛り上がったこめかみ近くの瘤。それから、目の周りの青い皮膚。これはアザだろう、それから片目も塞がって――――――――
「・・・すみません、ぶつかってしまって。・・・えーと、大丈夫でしたか?」
男の人が、そう言った。
私はまだ驚いて目を見開いたままの状態で、ついしげしげと眺める。
・・・痛そうだわ、この人。そう思ってたら、つい、それがそのまま言葉で出てしまった。
「痛そう・・・」
「は?」
彼が怪訝な顔をする。盛り上がって変形した片目と眉間を寄せて見上げられて、その迫力に一瞬怯えた。きゃあ〜・・・は、迫力が・・・。
私は焦ってうまく回らない舌で、懸命に言葉を押し出す。
「ええと、あの・・・その、怪我が・・・」
「え?――――――ああ、これ。これは、まあ痛いけど。それより、そっちは大丈夫ですか?俺がぶつかって変なことになってない?」
彼がヒョイと立ち上がった。うわあ〜・・・私はまた驚いて、身を固める。
だって、高かったのだ。彼は車椅子に座る私を遥か上から見下ろして、顔の怪我を片手で覆っていた。どうやらその怪我で私が怯えていると思ったらしかった。
濡れたように首筋にはりつく茶色の髪は長めで、その髪の間からはキラリと青く光るアクセサリーが。黒いTシャツはかなり汚れていて、それは血や何か他の液体のようだった。彼の体からは、微かに汗や調味料の匂いもした。
大きくて、肩幅も広くて、なんともいい体つきをしていた。
・・・・きゃあああ〜・・・こ、この人って、何だかもしかして不良さんって呼ばれる人なのかしら・・・。
少なくとも今まで私の周りにはいなかった外見をした人間だった。よくは知らないけど、ロック?系とか・・・そんな感じのイメージの人だわ。
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