B
ペンションには二つの家族風呂があって、今日はそのうちの大きな方にお湯を張ってくれたみたいだった。私は広いお風呂が嬉しくてうふふと笑ってしまう。
よく歩いたー・・・。それでも春からしているゴミ拾いのお陰で体力は増しているらしく、足がそんなに痛んでないのは驚きだった。
やはり何事も継続なのだ。続けることで、他の色々なことにも効果が現れ始めるのだろう。
髪が短くなっていいことの一つは洗髪の簡単さがある。手早く洗ってしまって、その香りに気がついた。・・・あ、これはカモミールの香り。
奥さんが手作りしているシャンプーみたいだった。シャンプーのボトルも好きだと言っていたガラスで、黄色いシールが貼ってあってそこに「シャンプー」と書かれていた。あはは、可愛い。一つ一つに愛情をかけられているこのペンションが羨ましく思えてしまう。
ここの夫妻は、夢と一緒に住んでいるのだな、と思った。
外も段々と暗くなってきて、ぼんやりとした明りの中、湯気で一杯の浴室で、私はほお〜・・っと湯船に浸かる。
ああ、いい気持ち。
お湯がサラサラと素肌を流れていって、その感触にうっとりと目を閉じる。
龍さんも後で入ったらって絶対に言おう。高原で下界よりは涼しいとはいえ、やはり太陽が当たればそれなりに暑くて汗もかく。龍さんも食事前に入りたいかな、起こしたらよかったかな?
そう考えて、いや、それでは彼はきっと一緒に入ろうとニヤニヤしていったはず、と気がついた。一緒に泊まることの意味は判ってるとはいえ、流石にお風呂を一緒は恥かしすぎる。だってようやく手を繋いだってくらいの私達が!
きゃーきゃー!一人で想像して照れ、お湯をバシャバシャと顔にかける。
「・・・」
顔にかかってゴホゴホと咳き込んだ。
・・・恥かしい。私ったら、一人で、もう!
外が真っ暗になったのを確認して上がることにした。30分ほど入ったかな、龍さんは起きてるかな、と思いながら部屋着を着る。
下着をつけて、コットンのワンピースをバサッと被って着る。薄いベージュで、髪の色が薄くなった私がこれを着ると妖精みたいな雰囲気だ、と言って姉が私に押し付けたものだった。
そういえばお姉ちゃん、仕事終わったかな・・・。
今朝になったらやはり仕事に終われていた姉を心配しながら、荷物を持って離れの部屋へと戻った。
ドアを開けたら廊下の明りが真っ直ぐに入って、真っ暗な部屋の中のベッドの一つで眠る龍さんが浮かびあがる。まだ枕を抱きしめていた。
・・・よく寝てるなあ。でももうあと20分くらいでご飯だし、起こしたほうがいいよね?
私は荷物を自分の鞄の上に落とすと、ベッドサイドのランプをつけてから、眠る龍さんの上に屈み混んだ。
「りゅー・・・」
龍さん、とよぶつもりだったのだ。
だけどそっと彼の頭の上に落とすはずだった腕は寸前でガシッと捕らえられて、私は悲鳴を上げる暇もなくベッドの上へ倒れこむ。凄い力で引っ張り上げられて、わけが判らないままで組敷かれる。
倒れこんだ私の上にぐっと覆いかぶさって、龍さんが低い声で言った。
「暗闇の中に、俺を一人で置いてっちゃダメだよ」
「えっ・・・?あ、へ・・・」
ベッドサイドの明りに浮かび上がった龍さんは、いつもは笑ってるたれ目の瞳を細めて睨みつけていた。口元も厳しく引き締まり、私はその真剣さに驚いて言葉を失う。
「・・・龍さん?」
強い力でベッドに押し付けられていて、両手首が痛かった。彼は完全に私の上に被さっていて、非常に不機嫌そうに見える。
弱いライトが彼の顔に陰影を作っている。細めた瞳に暗い影がって、それが私の体を強張らせる。
「い、たっ・・・」
「どこ行ってた?」
―――――――怖い。
私は何とか声を出して説明しようとする。
「あ―――――あのー・・・」
身を捩ろうとしたけれど、すぐにその圧倒的な力の前に屈してしまった。手首が、痛い・・・。何で、こんな。龍さんは一体どうしたんだろう・・・。
「お、お風呂に・・・龍さんが、寝てたから・・・」
「・・・風呂?」
「そ、そう。あの・・・起こした方が、良かった?」
ふ、っと手首の力が緩んだ。
彼は私の隣にごろりと落ちて寝そべる。捉えられた時と同じくらいにいきなり解放されて、私は驚くばかりだった。
・・・ドキドキしてる。耳の中で自分の鼓動が大きく跳ねていた。
さっきの龍さん・・・怖かった。
「ごめん」
胸を押さえて寝転んだままでいたら、隣に寝そべった龍さんからそう聞こえた。
私はそろそろと起き上がる。
・・・何、一体さっき、何が・・・。
「・・・あの、大丈夫?」
龍さんは私に背中を向けて転がっていた。うん、と小さく呟く声が聞こえる。
「ほんと、悪い。ちょっと寝起きがやばかったんだ。・・・真っ暗で。誰もいなくて。一瞬どこか判らなくて」
背中を向けているから、彼がどういう顔をしているかが判らない。私はベッドの上に座りなおして、そっと彼の背中に手を伸ばした。
指で触れるとビクリと動く。
ど、どうしよう・・・。触らない方がいいのかな。一人になりたいのかな。一瞬躊躇したけれど、とにかくよく判らないままでは嫌だった。
「・・・暗闇が、怖いの?」
小さな声で聞くと、暫く間を空けてから彼は頷いた。
・・・暗闇が、怖い。私が部屋の電気を消して出て行ったから、目が覚めた彼は恐慌をきたしたらしい。そこに私が戻ってきた、そういうことなのかな。
物凄く申し訳ない気分になって、私は彼の背中をさすりながら言った。
「あの、ごめんね。よく寝てるみたいだったから・・・明るいのが邪魔だと思って・・・ライト、つけないで行ったの」
「うん、ジュンコさんは悪くないよ。俺が、ちょっとね・・・」
ぐぐーっと身を縮めてから、彼はほお、と息を吐く。
それからくるりと振り返った。ベッドサイドの明りに浮かぶ笑顔は、もういつもの龍さんのそれだった。
「手首、痛かっただろ、ほんと悪い」
「・・・大丈夫。だけど、驚いた」
「それに怖かったよな。あんな怯えた顔させちまって・・・」
龍さんが寝転んだままで私の右手を引き寄せる。そして自分が強く掴んだあたりを指でつつつと撫でた。
「・・・あーあ、折角のジュンコさんの綺麗な肌が。俺ってば、全く」
「大丈夫よ、ほんと―――――――――」
そこで私は言葉を飲み込んだ。
だって、龍さんの唇が。
私の手首に当てられて―――――――――――
「・・・うーん、いい匂い。それに、柔らけー」
ちゅっと音をたてて、彼がはむはむと私の手首を食べている。
「りゅ、りゅ、龍さん!」
はーい?手首にキスを繰り返しながら、彼はにやりと笑って返事をする。薄く開いて私を見上げた瞳は、既にさっきとは全然違う光が揺らいでいた。
私は急に全身が発火したかのような熱さを感じた。
「あの・・・あの・・・手を」
離して、と言う前に、彼は自分の体を持ち上げてもう一方の手を私に伸ばす。私が呆然としている間に腰を引き寄せられて、さっきとは違った形で押し倒されてしまった。
ドサッと音がするほどに私の体がシーツに沈みこむ。彼は私の上によっこいしょと跨って、嬉しそうに見下ろした。
「うーん、そうか。風呂上りのジュンコさん、それはものすご〜くそそるよねえ」
瞳がキラキラと輝いて、舌なめずりしそうな勢いだった。
「え?ええ!?あのあの、ちょっとま――――」
「待たないっしょ。折角二人きりで、こーんなにいい匂いする女の子が俺の下にいるのにさ」
いやいやいやいや!女の子じゃないし!ってそこじゃないし、突っ込むとこ!私は一人で大パニック状態だ。彼は嬉しそうにククク・・・と口の中で笑いながら、ゆっくりと私の首筋に顔を埋める。左手で私の顔を固定して、右手で邪魔な掛け布団をはがしてかかる。
彼の唇が私の肌を滑る。そこが一々ちりちりと火花を立てるように熱くなって、私はつい体を震わせる。
「ちょっ・・・あの、あの、龍さん!」
「んー?」
「ご、ご飯だから!!」
パッと龍さんが顔を上げた。
「ご飯?」
私は必死で叫んだ。
「そ、そう!だってもう7時だし、ほら、ご飯は7時からって・・・」
彼は私を見下ろして、ぐぐっと眉間に皺を寄せた。思いっきり不機嫌な顔をして、ついでに舌打までした。
「・・・・しゃーない。飯を作ってくれる人を待たすことは、俺にはどうしても出来ない」
そう言うと呆然としている私の上からパッと飛び降りた。
そして手ぐしでザッと髪を整えると、まだベッドの上で間抜けな顔をしている私を振り返ってにやりと笑う。
「ほら、いくよ、ジュンコさん」
「・・・・あ・・・はい」
私は何とかそう返事をすると、ゆっくりと体を起こした。
まだ彼の唇を受けたところが、私の耳朶や鎖骨周りや首筋が、熱を持って音を立てているようだった。顔も熱い。きっとダイニングの明りの下では真っ赤な自分が鏡にうつるはずだ。ドキドキしていて、その心臓の音が足にまで響いているようだった。
だってだってだって、急に、龍さんたらあんなこと・・・。
今夜、勿論そうなるだろうってことは頭では理解していたのだ。だけど、いきなりそんな展開になるとは思わなかった。全くの無防備な状態で組み敷かれてしまって、私は今、完全なるパニック状態だ。
龍さんは部屋の入口でドアに肩を預けて私を見る。
そしてにやにやと相当悪そうな企んだような顔をして、言った。
「早く行こうぜ。―――――――ご飯が済んだら、ゆっくり今の続きするからさ」
血圧が上がって、死ぬかと思った。
頭に血が上ってフラフラな状態で行ったのだけれど、晩ご飯は凄く素敵だった。
このペンションのマスターは元々フレンチのシェフだった人らしく、こじんまりしたメルヘンなペンションには驚くほどの本格的なフレンチが出てきたのだ。
フルコースだよ、フルコース。
外見や好んで着る服装からは想像も出来ないテーブルマナーを見せて、龍さんがフレンチを楽しんだのにも私は底抜けに驚いた。お陰で折角の素敵なフルコースも上の空で食べたほどだ。
龍さんはふふんと鼻で笑って、私をたかーいところから見下ろす。
「料理人がそんなこと学んでないわけないでしょ。作法を知らなければ、美味しそうに食べればそれでいいんだよ」
そう言って、あからさまに私をバカにした。
くううう〜!!と私は悔しさに歯噛みしたけれど、主の「そんな人滅多にいませんよ。どうぞ気軽に楽しんで下さい」の一言で、呪縛が解けたように肩の力が抜けたのだ。
だから最後の方は純粋に、美味しくて目も楽しませる料理として堪能できた。
龍さんはイタリアンなんでしょ?と聞いたけど、専門は、一応ね、なんてよく判らない答えしか返ってこなかったのだ。専門なのに一応って、何。この人、何だか底抜けに奥があったらどうしよう。
お客さんが私達しかいなかったからだろう、ペンションの経営夫妻はよく相手をしてくれた。主と龍さんは料理の話をしていたし、私は奥さんとガラス工芸の話もした。元々人懐っこい龍さんが場を盛り上げて、夕食は始終楽しい雰囲気だったのだ。
お酒はどちらもそんなに強くないからと食前酒だけにして、終わりのコーヒーをペンションのベランダのテーブルで飲む。
夏の高原は虫の声もあまりせず、静かな夜だった。
半月が遠くの空に浮かんでいる。
ウッドデッキに置かれたテーブルとベンチで、私達は満腹の状態でだれきっていた。
「・・・ああ、ほんと、よく食べた」
私がそう呟くと、隣で龍さんがうんと頷く。
「俺も。人のご飯食べたのかなり久しぶりかも。美味かったな〜・・・。ここ、あの料理があるんならもうちょっと料金あげてもいいと思う」
その商売人発言に笑ってしまって、私は龍さんを見る。
彼は目を細めて壁に背を預けて座り、風に揺れる草花を見ているらしかった。
「ここは・・・」
つい言いかけて、私は言葉を飲み込む。小さな声だったけど龍さんは気付いたらしい。ちらりと私を見て、何?と聞く。
「いえ、何にも」
「・・・何だよ、言って」
「何もないです」
龍さんが本格的に体を起こして私に向き直った。目が笑っていない。私は簡単にビビッて、仰け反った。
「言えっつーの」
彼から心持体を離しながら、私は恐る恐る答えた。
「あのっ・・・あの、ここは・・・暗闇だけど、怖くないのかなって」
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