A
車で3時間ほど北に上がったところにある高原で、私は緑の中で風に吹かれている。
山の上から吹き降りてきた風はそのままで熱い空気を払って、更に下の街へと降りていく。草原で、背の高い草っぱらにいて、さわさわと緑が揺れている音を聞いていた。
空は高く、青く光って、遠くの町の上で巨大な入道雲が伸びている。
太陽は熱かったけれど風が涼しいので、そこに座っていることは全然苦じゃなかった。
「やっぱり涼しいな〜」
隣で龍さんがそう言って寝転んでいる。両腕を後ろにもっていって頭の下に敷き、座る私を見上げて笑った。
「ちょっとはマシになった?」
「うん、もう大丈夫」
私も笑顔を作る。大きく視界が開けるこの場所にいて、強い風に緑と一緒に吹かれていたら、気持ち悪さはどこかに行ってしまったようだった。
単純に言うと、私は車酔いをしたのだった。
免許を持っていない家族の中で子供時代を過ごし、結婚相手はいつでも忙しく、二人で車で遠出をしたことなど数えるほどしかなかった。
現在姉は免許も車も持っているけれど、姉の車に乗るのはいつでも夜間救急に行くときだけ。病院まではそんな距離もないし、元々倒れている時に乗っている。
要するに私は車という乗り物に慣れていない虚弱体質なわけで、龍さんが迎えに来てくれてからずっと乗っていた車で、酔ってしまったのだった。
最初ははしゃいでたので大丈夫だったのが、トンネルに入るからと窓をしめた辺りから、急に。
何とか目的地に辿り着いてから、すぐにここに連れてこられて気分が落ち着くまで寝てよーぜ、と龍さんが言ってくれたのだった。
「ごめんなさい、来てすぐにこれで」
そう言うと、龍さんはケラケラ笑う。
「何で謝るんだ。別に予定は立ててない、ゆっくりしたらいいんじゃないの〜?」
有難いな、そう思った。この旅行は急に思いついたことらしく、元々観光地が近いわけでもないから着いてからどうしようかなって考えてたんだ、そう彼は話す。だから、ジュンコさんの体調治るまで寝てようぜって。
気分がよくなったところでようやく、昨日の夜の疑問を思い出した私は龍さんに聞いてみることにする。
「ねえねえ、どうして高原なんですか?龍さんって海のイメージがあったな、どちらかというと」
ん?と彼は眩しそうに目を瞬いて、ごろんと横を向いた。
「うーん・・・。俺もそう思ってたんだけど、うちの店長の影響で最近は山が好きになってきたかなあ〜とは思う。緑に癒されるというか。・・・まあジュンコさんが暑さに弱そうだから、涼しいところの方がいいかなって思っただけ」
ふうん?私は首を傾げる。彼が勤めている居酒屋の店長さん、よく話題に出てくるこの人は、よっぽど龍さんに影響があるんだな、と思った。
「店長さん、山が好きなんですか?」
私の質問に彼は目を閉じてうんと答える。そしてそのまま言葉を続けた。
「うちの店の2階は森って呼ばれてるんだ。ほんと、森みたいに一面の緑なわけ。壁も天井も床も緑色してて、そこに虎の育ててる観葉植物が所狭しと置かれてる。植物園みたいになってんだよ、あの店の2階」
「へえ〜!それは、相当好きなんですね、自然が。店長さんって男性ですよね?」
「そう。山神の虎といえば有名なんだよ〜。年は俺より若いんだけどね、昔結構なヤンキーで田舎では悪名高かった野郎で、今ではすっかり落ち着いちゃってるけど、たまーにその頃の名残が出るんでビビる時がある」
「へ、へえ・・・昔ヤンキーで、今居酒屋の店長・・・」
「そうそう。植物愛好家で山神信仰者。お陰でうちの店で働く子はすべからく山神に傾倒する羽目になる。なんか、自然とね、そうなっちゃうんだよな」
「ああ、山神様!」
龍さんもよく話してるもんねえ、私はそう思ってちょっと笑った。あまりにその単語を聞くもので、いつの間にか山神様は私の中でも大きくなっていたのだ。
「初めはちょっと引くんだよ。新興宗教かなんかですかって聞くバイトもいたし。だけどやることといったら手を合わせてお願いごとをするくらいだし、金がいったり特別な儀式があるわけでもない。だからその内皆と一緒に拝みだすのがいつものパターン」
「店長さんが生み出した神様なんですか?」
龍さんはうーん?と悩みだした。
「・・・まあ、そうとも言えるかな。虎が森や自然を好きで、それがそのまま形になったって感じっぽいけど」
「店長さんは元々は優しい方なんでしょうね」
自然が好きだなんて素敵だ。観葉植物もたくさん育ててるっていってたし、昔グレて居た頃があったにせよ、きっと今は春風みたいな雰囲気の人なんだろうな。そう思って私が言うと、龍さんはケラケラと笑って否定した。
「虎は表面はヘラヘラして軽いノリだけど、潜在的にはかなり怖い男だよ。去年うちのバイトの子と付き合いだしてから、えらく柔らかくなったけどねえ」
愛は偉大だぜ、ほんと!そう言って龍さんが私を見上げてウィンクをする。彼もこの高原で大いにリラックスしているようだった。くれる笑顔が、いつもよりも数倍優しい気がする。
「虎に龍・・・何だか名前まで迫力ある方が多いんですね」
私がそう言うと、彼はにやりと笑った。
「そんなことねーぞ。山神の決まりにのっとって虎って呼んでるけど、あいつの本名は虎に太郎ってつけてコタロウだ。外見も細くて色白で狐目だから、初対面では優男風だしな〜」
そ、そうなんだ。一度も見たことがないけれど、是非一度はお会いしたい。私はこっそりとそう思った。それにしてもコタロウか・・・ちょっと可愛いかも。
龍さんが話す勤め先の話は面白い。だけど私には想像もつかない人達が出てきて、ちょっと驚くことが多いのも事実だ。
そんな濃い人達に囲まれて、確かに龍さんは楽しそうに仕事をしているらしい。それはかなり羨ましい。
風が強く吹いて、私達の髪をかきまぜる。龍さんの綺麗な茶色の髪に緑がついていて、それを私は手でそっと取った。
龍さんは目を閉じて口元を緩ませていた。
「・・・ああ、落ち着く。あんたとこうしてるの、俺好きだなあ〜・・・」
強い風の中で低い声で呟く。それは私の耳にちゃんと届いて、心臓までを駆け下りていく。
照れたけど、彼は目を閉じていたから私はそのままで龍さんの寝顔を見詰めていた。
心の中でこっそりと呟く。
私は・・・あなたといると、ドキドキしっぱなしです。
しばらくしてから龍さんが起き上がり、犬みたいに全身をぶるぶると振って草を落とす。それから私の手を引っ張って、予約してあったペンションの周りの林を散歩した。
「実は」
白樺の林の中を歩きながら彼が言う。
「友達の代わりなんだ、この宿泊。嫁さんが出産する前に二人でいく最後の旅行を、って友達がいて、奥さん希望のペンションを予約したはいいんだけど、奥さんが階段から足を滑らしちゃったらしいんだよ」
「えっ!??」
私は驚いて足を止めた。に、妊婦さんが階段で足をっ!??それってそれって・・・。
青ざめた私を見て、彼は慌てて両手を振る。
「ああ、大丈夫。奥さんの体は大丈夫だったらしいんだけど、それで驚いてか産気づいちゃって。それで行けないから誰かいかないか?ってメールが回ってきたんだ」
「・・・ああ、良かった〜・・・」
ほお、と体の力を抜いた。龍さんが慰めるように私の手をポンポンと叩く。
「平日に休みのカップルって少ないからさ、俺が貰えたわけ。そろそろジュンコさんとどっか行きたいなあ〜って思ってたから、丁度いいやと思って」
「あ、うん。・・・私も嬉しかったです。ワクワクしちゃって、昨日の晩。眠れなくて、龍さんが持ってきてくれたお酒飲んだりしたの」
えっ!?と彼が仰け反った。
「あれ強かっただろう!臭みを飛ばすための料理酒で・・・美味しくないはずだし」
あ、そうなのか、私は苦笑する。何の確認もせずに飲んだから、何とも思わなかった。
「眠れたから、いいの。目的は達成」
龍さんは呆れた顔で私を見ていたけど、その内笑い出した。
「ジュンコさんってたま〜にマジで驚くわ。ほんと、おもしれ〜」
何が面白いのかは私には判らない。だけど繋いだ手が暖かくて木漏れ日は優しくて、目の前の白と緑の世界は本当に心が安らいだ。
だからニコニコと笑っていた。
その、龍さんの友達の奥さんが好きらしいペンションは、いかにも!なペンションだった。ログハウスちっくで大きな庭があって、ベランダにはカフェ風のコーヒーテーブルが置いてあるような、あんな感じ。主がヒゲ面で黄色いエプロンや赤いバンダナなんてしてたら最高、そう思ってたら、そのイメージ通りの人が出てきたからビックリした。
「お世話になりま〜す」
龍さんはすぐに仲良くなる。私は彼が手続きをしている間に、ダイニングの窓辺に近寄っていた。
そこには色とりどりのガラスの置物が。お城やエッフェル塔や、他にも世界の有名な建物などのクリスタルな置物。あとは琉球ガラスや伊万里などの焼き物も。それらが手編みのキルトらしいラグの上に雑然と並んでいて、それは見事な一角だったのだ。
光が入る窓辺にあって、それぞれがキラリと輝きを放っていた。
「ガラスが好きなんですよ、綺麗でしょう?」
後ろから声がしたので振り向くと、小柄で顔中を笑顔にした女性が立っていた。ここの主と同じバンダナをしているところを見ると、奥さんらしい。
「こんにちは」
私は挨拶をしてもう一度ガラスたちに向き直る。キラキラと光って、部屋の中に特別なあかりを入れては反射している。
「ほんと、綺麗ですね」
この赤なんて凄く素敵、そう言って琉球ガラスのビールグラスを指差すと、奥さんは嬉しそうに言った。
「私もそれが一番好きです!それは新婚旅行で沖縄で買ったものなんです」
わあ、それは記憶もセットで素敵だわ。
赤の中に時折黄色が光るそのグラスから目が離せなかった。何色っていうんだろう・・・こういう赤は。
いいなあ、こんなイヤリングや指輪があったらきっといいだろうなあ〜・・・私の頭の中では白紙にスケッチがされていく。ここは、別のガラスをいれるのもいいかもしれない・・・あとは花のモチーフなんかも・・・。
女の子が白い指に嵌めると、光を集めて光るような・・・。
「ジュンコさ〜ん」
トントンと肩が叩かれた。
「え?」
振り返ると龍さん。多少、膨れっ面。
「かーなり夢中なところ悪いけど、とりあえず荷物置きに部屋にいきたいんだよね〜。俺一人で行ってこようか?」
「ああ、ごめんなさい」
慌てて向き直った。
奥さんがくすくすと笑う。
「食事は7時でいいですか?ごゆっくりどうぞー」
「ありがとうございます」
可愛い夫妻に手を振られて、私は龍さんのあとに続いてペンションの奥へ。
ここは離れが1つあって、あとは2階に3部屋あるらしい。主に夏の避暑と秋の紅葉目当ての場所ですね、とペンションの主人が言っていたと龍さんから聞いた。
で、今回は平日で泊り客が私達だけらしいので、離れをどうぞってなったらしい。離れといっても廊下で繋がっていて、本館との間にお風呂場があるからそういうだけみたいだった。
「あら、可愛い」
8畳ほどの部屋は壁紙が卵色で、シーツやタオルやカーテンなどはオレンジか茶色でまとめられていた。大きな窓とライティングデスクが一つ、シングルのベッドが二つ。窓の向こうには白樺の林とその奥の森や山が見える。
とても明るくていい雰囲気の部屋だと思った。
もう夕日の時間で、夏の一日が暮れかかっていた。大きな窓の向こう、山の端から真っ赤な空が覗いている。
「旅行なんて久しぶりだな〜。ちょっと休憩・・・」
龍さんがそういいながらベッドに転がった。私はぼうっとしながら夕日を見ていた。
こんなダイナミックな景色を見たのは何年ぶりだろう・・・。ずっと引きこもっていて、誰かとこんな旅行に出るだなんて考えたこともなかったのだ。
山が燃えている。黒々とした森の向こうで、空だけがやたらと生命力を見せ付けていた。紫や赤やピンク、それに黄色や群青まで混じって、外の世界は色鮮やかにどんどん変化していった。
暫くそのままで、窓の外を見ていた。
そう言えば後ろが静かだわ、と思ってようやく振り返ると、シングルのベッドでは小さそうな体の龍さん。丸まって、枕を抱きかかえて目を閉じている。枕を抱きしめているのがその体の大きさに似合わずに笑いそうになったけれど、疲れているのかな、と思って口を閉じた。
いつも何かを企んだように光っているあの瞳は閉じている。規則正しい寝息が聞こえたので、夕食まで時間があるしと思った私は声をかけるのをやめた。
私は龍さんを起こさないようにそうっとドアを開けて廊下へ出る。
ダイニングまで歩いていくと、夕食の準備をしているらしい主夫婦に会った。
入ってきた時にガラスに夢中になってしまってここの説明を聞いてなかったのだ。お風呂はどうしたらいいのかを、私は改めて奥さんに質問した。
「夜の10時まででしたらいつでも入れますよ。今日はもう沸かしてありますし、他にお客さんもいないですからご自由にどうぞ」
にこにこ〜っと笑ってそう言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。
部屋に戻るとやっぱり龍さんはその格好のままだった。・・・疲れて寝てしまったんだな、と思う。私は出来るだけ音を立てないように支度をして、もう一度龍さんを覗きこんだ。
規則正しい呼吸。しっかり夢の中に入ってしまってるみたいだ。
いつもは居酒屋から帰って昼まで寝るといっていた。私と付き合うようになってから朝起きてるよ!って笑ってたから、今日も午前中はきっと眠かったのだろう。
私は一度だけ彼の頭を右手で撫でる。それから、起こさないようにと部屋の電気を全部消して、お風呂を貰いに部屋を出て行った。
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