A
そこに、あの人が居て欲しい。そう思ってるのは私だけかも、そう思ってしまうのだ。
店長は可愛いって何度も言う。だけど愛し方も抱き方もストレートの欲望がむき出しで、本当に動物みたいなのだ。
好きだとか、愛してるとか、そんな言葉は聞いていない。そんな言葉を言うか言わないかは大事ではないって、今までは思ってきたはずなのに。
だけど、聞いてみたいのかもしれない。
欲しい、とかではなく、好きだ、って。それが、その単純で、でも人間らしい言葉が。
店長は獣だ。私にはそれが重いのかもしれない。
もっと話をして、彼がどういう人なのかの理解を深めたい。だけどそう望むことをうまく口に出来ない。そうこうしている内に抱かれてしまって、あれよあれよと言う間にアッチの世界へ行ってしまう。
そしてまた話が出来なかったなあ、と思うのだ。
パチンと何かが弾ける音がした。
私はハッとして周囲を見回す。
だけどそこには相変わらず静かな、正月のしんしんとした風景が広がっているだけだった。
動いてるものは、私しかいない。目にうつる全てのものが、正月の澄んだ光を浴びて静にそこに存在していた。
「・・・あ」
そうか、判った。
ああ、今私、判った・・・。
冷えた鉄の門をそっと握り締めた。
手の先から冷えが伝わって、それはまもなく私の全身にまわる。
違うんだ、そう思った。
夕波店長の、彼のせいにしているけど、これは紛れもなく私の中の、私だけの恐怖。
新しい世界に入る私が、忙しさに逃げていつかあの人を忘れるんじゃないかって、思ってた。この恋をくれたあの人を。勝手にそう思って、わけが判らずに怖がっていたんだ。
本当に怖がっていたのはこれだ。新しい世界に入っていく私を、あの人は興味を失っていくんじゃないかって、それを怖がっているんだ。
だけど、冷えた私の手を包んでくれたのは店長だった。
両手で持って温かい息を吹きかけてくれるのは彼だった。
いつも真っ直ぐ言葉をくれるのに。ああ、どうして勝手に恐れたりしたんだろうか。
だってだって、余りにも真剣で深い付き合いがいきなり目の前に開けて・・・だから私は失くすのを恐れてしまったのだろう。
いつか、なくなるかも。そう思うと怖いから、今なくしちゃえば、そうチラリとでも思ってしまったのかも。環境が変わることを恐れてしまっていたんだ。
「・・・私って、バカ〜・・・・」
憮然とした声は、静かな町へ消えていく。
悩んでいる間、あの人とコンタクトを取っていない、そう、いきなり気付いた。
ケータイ電話は家に置いて来た。
家の中の、旅行鞄の中に。
新年が明けたというのに私はまだケータイをあけていないのだ。
きっと店長から電話やメールが来ているはずなのに。
彼は拗ねているだろう。もしかしたら、何か感じているかもしれない。
「・・・ああ、やだ」
ケータイを忘れるふりをしていたなんて、私ったら。勝手に煮詰まっていたようだ。しかも、それを声に出さずに一人で。
このままでは、彼を失ってしまうかもしれない。
パっと手を離した。
冷たくなった指先を握り締めて、私は小学校に背を向ける。早く早く帰ろう。そして、店長に電話しよう。私は煮詰まって、彼の気持ちを考えることを放棄していた。きっと、この数日間でずっと。
ああ、怒ってなきゃいいけど―――――――――――焦ってバタバタと実家へ戻る。
お帰り〜というお父さんに適当に返事をして、ポテチは?と聞く飛鳥に忘れた!と叫んで、私は旅行鞄に駆け寄る。
そしてケータイを引っつかんで、あら、どこ行くの?と聞くお母さんに答えずに家をまた飛び出した。
歩きながら、ケータイを開く。ドキドキしていた。店長からの、メールは――――――――・・・
だけど、何もなかった。
来ていた数件のメールは全て友達からで、新年の挨拶だった。今日行く予定の初詣の待ち合わせ場所などのメールもあった。
だけど、店長からのものは皆無だったのだ。
「え?」
着信もない。メールもない。店長からのコンタクトは一つもなかった。
私は血の気が引くのを感じる。周囲の気温が一気に下がったような錯覚が襲ってきた。
私からだって、連絡をしていなかった。
だけど、彼からのコンタクトがない、それはこんなに激しいショックを私に与えるんだ、そう思った。
震える手で電話番号を呼び出す。
声が聞きたい。
聞きたいです、ねえ、店長。
ごめんなさい、だって、私は悩んでて・・・しかも、何に悩んでるのかすら自分でも判らない状態で・・・。
通話ボタンを押してから、耳にそっとケータイを押し当てる。
出てくれるだろうか。
店長は、応えてくれるだろうか。
ああ、山神様―――――――――――
私、泣きそう。そう思った瞬間、電話が通じた。
『はいはーい、シカ?明けましたね、おめでと〜』
・・・・・・・・・・超、フツーだ。
何だか一人で盛り上がってた分、私のガックリ度も半端なかった。
『あれ?シカ〜?』
電話の向こうで能天気な店長の声が聞こえる。低くて軽い響きのあるその声は、私の耳から全身に伝わって、失くしたばかりの体温を取り戻してくれた。
コホン、と一度空咳をする。
「・・・はい、店長。明けましたね、おめでとうございます」
『ああ、いたの。どっかいったのかと思った』
そう言って店長は笑う。
俺と離れて寂しくないの、とか言っておきながら、そんなことは微塵も感じてないような雰囲気だった。
私はちょっと拗ねたような気持ちになって、ぶーぶー言う。
「店長あんなに騒いだクセに、メールもくれてませんでしたね!」
すると電話の向こうでクククク・・・と笑い声が聞こえた。
『そっちもくれなかったでしょう。メールも電話も、なかったけど?』
「そ、それは、そうですけど・・・」
『久しぶりの家族と会って、俺は邪魔だろうって思ったんだよ』
「邪魔なんかじゃないです!妹には店長の話がバレて散々からかわれましたし」
『へえ、シカ坊には妹がいるのか。やっぱり名前も動物なの?』
笑ってしまった。やっぱり気になるのはそこなんだ、と思って。私はつい笑い声を漏らしてしまう。それから電話に向かって答えた。
「そうですよ。妹は飛ぶ鳥の、飛鳥と言います。うちのお父さんの趣味なんですよ、バードウォッチング」
『そうなのか!お父さんとは話が合いそうだなあ!』
・・・話す機会があれば、ですけどね。こう心の中で呟いた。
既に私の中では不安とかよく判らない気持ちが消えていた。電話で話しながら笑顔になっていて、それに自分で気付いてしまったからだった。
「明日には・・・帰りますね」
『うん、俺も明日には帰る〜。年も明けたし、やらなきゃならないことが山積みだろ?何か手伝えることあったらやるよ〜』
え?私は首を傾げる。やらなきゃならないこと?・・・ううんと、何だろう。私、何かやらなきゃならないことってあったっけ?
「え、店長が何いってるのかちょっと判りません」
考えたけどすぐに放棄して、そういった。すると電話の向こうから聞こえてきた愛しい声はこう言ったのだ。
『新しい部屋探さなきゃならないんじゃないの〜?』
って。
私はケータイを握り締めたままで目が点になった。
・・・え?ええ!?どどどど、どうして私が引っ越すってこと知ってるんだろ、店長は!?
「えっ・・・あの・・・・あれ?ひ、引越しって、何で・・・」
知らない間にぎゅうっとケータイを握り締めていて、指が白く染まる。実に何でもないことのようにあちら側では店長がアッサリと言った。
『え?だって今の部屋から通うには、会社遠いだろー?』
私は、愕然とした。
「店長、知ってらっしゃったんですか!?あの、私が部屋を出ること」
『うん。会社の入社の書類そこら辺に置きっぱなしであったからねえ。ご飯の準備するのに邪魔だから退けた時に、熟読させて貰ったよ〜。就職ってあんな色んなことするんだねー、新入社員に』
まーじーでー!!
電話の向こうでまだ店長が、俺には向いてないと思ったわ〜だとか、会社って人材教育に金かけてんだね〜などと言っているのを、口を開けっ放しの愕然としたままで聞いていた。
・・・知っていたんだ、店長・・・。でも何も言わなかったんだ。私があの町を出て行くこと、知っていたけど相変わらず抱きしめてくれて、問いただしたり、どうするのかを聞いたりはしなかったんだ・・・。
ケータイ電話を握り締めたままで、私はぼーっと突っ立つ。
何だか、自分が物凄く小さく感じた瞬間だった。
環境がガラリと変わること、それそのものに対する動揺が店長には全然ないらしいってことに驚いた。
私一人で、考え込んで小さくなっていた。
『シカ?』
店長の声が聞こえる。
私はちょっと震える声で、ゆっくりと言った。
「・・・会社に近い場所に、引っ越そうと思うんです・・・。あの・・・それでも私と付き合ってくれますか?」
夕波店長が笑った。
それは、いつもの軽い、あけすけな笑い方だった。
『そんなこと聞かれるとは!おかしいなあ、本気の恋になったはずだったのに、まだ薄かったのか?帰ったらお仕置きだぞ〜、シカ坊』
「え」
おおおおおおお仕置き!?お仕置きですかっ!いや、それは遠慮したいです・・・。心の中で呟いていたら、店長は続けて話す。
『俺はまだしばらく山神を続けるよ。他にやりたいこともないし、龍さんが新メニューを考えたぞって明けて早々に電話くれたし。だから、店を辞めてもシカはいつでも来たらいいんだ。戻りたいときに、戻ればいい。店はあそこから動かない。だけど・・・』
「・・・だけど?」
『俺は自由に動けるからね、当たり前にシカの部屋に居座るつもりなんだけどね〜。・・・それか、あらあら、まさか離れるつもりだったとか?』
ぎょっとした。最後の方、いきなりぐいいい〜んと店長の声が低くなったからだった。
私は慌てて舌を噛みながら言う。見えないと判ってるけど首もぶんぶん振っておいた。
「いえいえいえいえっ!わ、別れるとかはっ!考えてませんでした!だ、だけど・・・その、遠距離恋愛になるかなあ〜って・・・」
ククク・・・と向こうから笑い声が聞こえる。何か、バレてそう。一瞬でも別れとかを考えてしまったこと。
私は一人で冷や汗をかいていた。
『そんな距離じゃないでしょ。それに、山神は週休2日だぞ〜。前の日から会いに行けば、都会のカップルでは普通のデート頻度でしょ』
週に二日はシカを相手にやりたい放題出来るってことだよ〜、なんて恐ろしい台詞を吐いて、機嫌を直した声でカラカラと笑っている。
私は緊張をといて、ふう〜っと息を吐いた。
・・・・ああ、良かった。一瞬びびってしまった。危ない危ない。下手なこと口走らなくて良かったよ、私!!
低くて柔らかい声が聞こえる。
私は彼のいう事に相槌を打つ。
時々笑って、時々焦って。
体が完全に冷えるまで、そうやって外で話していた。
家に戻った時には心が軽くなっていた。
遠距離なんて距離じゃないでしょ――――――――そう言って笑う声を思い出す。
・・・私ったら、もう、両手で頬をぺちぺちと叩いた。
まだまだなんだな。でもそれを店長は判ってる。それで、私をせかすようなこともしないんだな・・・。
早く戻りたい。
あの町の私の小さな部屋で、店長とお茶を飲みたい。
友達と初詣に行ってその後久しぶりのカラオケなんかにも行き、家族と楽しくテレビをみて笑い美味しいものを食べながらも、心の中、頭の大きな部分を彼の笑顔が占めていた。
それってとても素敵なことだと思った。
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