・シカの入店@



 初日が来た。

 私は深呼吸して、居酒屋「山神」の前に立つ。あー、緊張する。大学に入ってから他のアルバイトをしたことがないので、勝手が判らないし、とりあえず耳を超オープンにしとこうっと。そう言いきかせて、ドアに手をかける。

 ガラガラガラ。

「こんにちはー」

 夕方の4時だ。本当は5時からだけど、今日は初日で教えることが多いから4時にきてくれる?と店長さんに言われていたのだ。

 既に準備が始まっているらしい店内には出汁のいい匂いが溢れ、カウンターの中には二人の男性がいた。パッと顔を上げて、笑顔をくれる。

「鹿倉さん、おはよう。どうぞー」

 もう一人の茶髪の男性は会釈をくれる。私は緊張した笑顔で頭を下げて、店内に足を踏み入れた。

 近寄ってきた店長の夕波さんの足元を思わずチェックしてしまう。今日はちゃんと靴をはいていた。踏み潰したスニーカーを、ちゃんと履いているというのかは知らないけど。

 それにしても、大きな足だ。まじまじと見てしまった。

「ここに、鞄しまってね。それで、これが制服です」

「はい」

 制服だと手渡されたのは、真っ黒なTシャツだった。後ろに大きく「山神」と漢字が入っている。

「おおー、格好いいですね」

「そうでしょ」

 私の言葉に店長が真面目に頷いたのが面白かった。

 下はズボンであれば何でもいいといわれていて、無難にジーパンをはいてきていた。油汚れが結構あるからね、と聞いたから。

「こっちだよー」

 店長の夕波さんはおいで、と手をヒラヒラする。
 
 店の一番奥、面接の日にこの人が降りてきた細い階段を、ついてきてねーと言いながら上っていく。

 階段のところには綺麗とは言いがたい文字で、「店の人だけの場所です」と書いた板が貼ってあった。

 ・・・店のひとだけ。書き方、他にもあると思うけど。関係者以外立ち入り禁止、とかさ。私は緊張を忘れて苦笑する。

 上に上がって驚いた。

 階段を上がってすぐ、ドアもないその部屋の中。目の前に広がるのは、緑の洪水だ。

 6畳くらいだろうか、私の部屋ほどの広さのそこは、壁紙も天井も床も、一面の緑色だった。

 緑色に塗られた空間に置いてあるのは、茶色いボロボロのソファーと、観葉植物。大きなものも小さなものも、天井からぶら下げているものも床に置いてあるものも、いたるところに植物の鉢が置いてある。そして、これまた古い机に椅子が3つ。いずれも茶色の木製で、貼られている合皮は緑色。

 まるで森だ。

「・・・わお」

 簡単に感想を漏らすと、夕波さんがまたあの笑い方をした。あははは〜って、軽やかで、あけすけな笑いを。

「俺が緑好きなんだよね。オーナーが2階は完全に好きにしていいって言ったから、こんなんになったんだよ。植物は大切にしてるから気をつけてね、傷がすぐついちゃうんだよ」

「あ、はい」

 私は腕にひっついていきていたアイビーのつたからそっと離れる。

 植物好きもほどがあるでしょ、そう思うくらいの量だった。小さな部屋はまるで植物園だ。

 私が部屋を見回していると、店長さんは腰に手を当ててサラサラと説明した。

「ここが従業員の部屋。ここで休憩したり、賄い食べたり、着替えたりする。うちは俺と厨房の人、それと学生バイト1人で男子が3人、君と、他に3年目のバイトの子で女の子が二人。皆ここで着替えるし、見ての通りにドアがないから、階段上る前に誰か着替えてないか下から声かけてね」

「はい」

「じゃ、着替えてから降りてきてー」

「はい」

 鞄を下に置くのは事故防止なんだろうな、そう思いながら、まるで林か森にいるような風景の中で黒いTシャツに着替える。

 自分の服を畳んで下に下りていった。

「鹿倉さん、紹介するよー」

 服を鞄にしまって体を起こすと、夕波さんがもう一人の男性を指した。

 キッチンの中に立っていたその男性は、茶色の肩までの髪を後ろでゴムで縛っていて、耳にはピアスが3つもついている。その小さな輪のピアスは綺麗なブルーで、キッチンの照明の下でやたらと目立った。

 背が高い店長さんよりも更に上に頭がある。この店はちょっと天井が高めなんだな、と気付いた。

「うちの厨房担当、右田龍治さん。元はイタリアンのシェフだったのに、何故かうちにいる変わった人だよ」

 変わった人、と紹介された右田さんは下拵えの手を止めて、私に顔を向けた。

 少し垂れ目の細い瞳で見られて緊張する。

「宜しく、歓迎するよ、シカちゃん」

 シ、シカちゃん??大きな疑問符が頭の中を横切ったけど、とりあえず私は頭を下げた。

「宜しくお願いします!」

 口元を右上にくっと上げて、右田さんが店長に言った。

「爽やかな風が、ついに森にきたな、虎」

「そうでしょ、いい感じでしょ。名前も名前だしね。龍さんは気に入ると思った」

 男性二人の会話についていけない。わたしはキョトンとしたままで二人の顔を交互に見比べた。

 虎?店長さんの名前って、虎なんとかっていうのかな。狐っぽいのに虎とは、ちょっと意外だ・・・。そんなことを思っていたら、さて、と夕波店長は伸びをして言った。

「じゃあ、教えようかな。まずは、挨拶だね」

「はい」

 挨拶?あら、何か悪かったのだろうか。私が若干首を捻ると、夕波店長は説明した。

「サービス業はね、いついかなる時も、仕事に入る時の挨拶はおはようございます、なんだよ。昼でも、勿論夜でもね。店に入る時は、おはようございます、で宜しくね」

「はい!」

 そうなんだ。へえー、と感心する。故郷の叔母のレストランではたまにしか入らなかったから、そういうことは知らなかった。

 夕波店長が仕事の流れを説明し始める。私はぐっと集中して、彼の言葉を頭の中に入れて行った。




 ぼーっと天井を見詰めて呆けていた。


 ・・・ああ、疲れた。


 今は少しだけ貰った休憩時間だ。時刻は8時半を過ぎたところ。お客さんの入れ替えも落ち着いたし、今からご飯どうぞって言われて、2階の従業員スペースに上がってきたのだ。

 とりあえず、と思って椅子の一つに腰掛けたら、それから動けなくなってしまった。

 ・・・・ここ、和む。

 目に入るのは一面の緑色。それってかなり心が落ち着くんだなあ〜、などと思っていた。

 ここ、2階のこのスペースを、この店の人たちは「森」と呼ぶのが判った。さっき龍さん、つまりキッチンに入っている3連ピアスの右田さんて男性に、賄いのご飯を手渡されながら「森に上がって食べな」と言われて、一瞬判らなかった。

 「も、森?」

 外で食べるってこと?混乱した私が眉を下げて聞くと、右田さんは口の端を持ち上げて笑った。

 店が開店時間になってからは頭をタオルで縛っていて(調理担当だからであろう)、こげ茶の髪の毛が隠れている。そのために軽い感じが消えていた。

「2階だよ。森って呼んでるんだ。スタッフルームとかよりいいだろ、気取ってなくて」

 まあ、確かに森のようですね、そう返して、私は上がってきた。

 机に置かれた丼の中には牛丼のような賄いご飯。・・・ありがたーい。それに美味しそう。でも緊張が酷くて疲れていて、お腹がすいてなーい・・・。

 で、とりあえずぼーっとしているのだ。30分、いいよって夕波店長が言ってくれた。だからまだ、あと20分はある。

「・・・ああ、疲れた」

 足を放り出して、初めての立ちっぱなしの仕事で痛む足を労る。ずっと立っているのがこんなにしんどいとは!

 今日は木曜日。夕方の5時半から最初のお客さんが入ってきて、私はとりあえず店長の後ろについて注文のとり方を教えて貰った。今日はとりあえず、注文をとってスムーズにキッチンへまわせるようになって、と言われている。

 この店は昔ながらに伝票へ自分で記入する。だからあまり急ぐと自分でも何を書いてるのか判らない文字になりかねない。

 伝票に書いて、お願いしまーすと言いながらキッチンのカウンター端に置く。それを見て右田さんが調理をする。

 なので、読めない字を書くと「読めねーよ!」と叫ばれてしまうのだ。私は焦ってわたわたと訂正する羽目になる。

 だけどお客さんはそんなこと気にせずにパッパと注文をしていくので、頭の中は超混乱状態の私だった。

 な、生って中ジョッキのことでいいんだったよね!?

 せせり?せせりってどこの部分だっけ?塩だった、タレだった?それを聞くんだっけ?

 一皿で串は何本?何本なんですか、店長さーん!!・・・みたいな。

 あがりってお茶だよねえ!?それって伝票に書くの?とか、色々と。自分がお客で来ていれば迷わないと思われることすらも疑問となって私を襲うのだ。

 キッチンに通すときに舌を噛んでしまって黙って苦しむ私に、店長がポンポンと肩を叩いてくれた。

「ほら、一度深呼吸だよ。最初から出来る人なんていないんだから、焦らないで。時間はかかってもいいんだ、間違えないのが大事」

 私は救われた気持ちになって、大きく頷く。そうだ、私は今日入ったばかり!焦らないで、ゆっくりと―――――――――

 ・・・・う、でも、とりあえず噛んだ舌が痛い・・・。

 一人で拳を握り締めていたら、屈んだ店長が顔を近づけてきた。ちょっと驚いて身を引くと、低い声でボソッと言う。

「今、舌、噛んだ?」

「へっ?あ、はい。噛みました」

「やっぱり」

 夕波店長の細い目に楽しそうな光がよぎる。くくく・・・と笑い声がして顔を上げると、キッチンから身を乗り出してカウンターの皿を提げている右田さんが言った。




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