・阪上君と小泉君


 大学4回生で滅多に学校に行くこともない私には、日常的に接する人間がえらく少なくなってしまっている。

 友達はまだ就活に飛び回っている子もいるし、皆個人的にそれぞれがバイトやクラブに忙しいから、遊びにいく相手もいない。

 今のところ、家庭教師先の生徒と彼氏。この二人が、私の日常生活を形作っていると言ってもいい状況だ。その他は、私もアルバイト探しで時間を埋めていたから。

 二人の男の内の一人は、実際、かーなりの困り者で・・・。

 

 その夜、私は、上機嫌で家庭教師のアルバイトに向かった。

 週に2日入っているこの家庭教師に行く前は、自分で最大限の気合を入れる必要がある。だけど今日はテンションが高く、気分的には鋼の鎧を身にまとっている気分だった。

 ここのお宅は息子の高校受験で家庭教師を探していた。大学に入学したばかりの私は、学生課のアルバイト斡旋でくることが決まったのだ。

 生徒は男の子で、名前を阪上八雲君という。八雲・・・やくも、が名前だ。さかがみやくも君。最初に聞いた時は「格好いいなあ!」と思ったものだけど、本人は気に入っていないらしく、八雲って呼ばないで、と最初に釘をさされたものだ。

「じゃあ何て呼ぼうか?」

 私がそう聞くと、彼は、整ってはいるがまだにきびが目立つ幼い顔をプイと横に向けて言った。

「先生の好きに呼んでいいよ」

 それで、困った挙句に普通に阪上君、と呼んでいる。

 だけどこの生徒の素が見え出した頃から、呼び名は「悪魔君」に変えるべきだったかと真剣に悩んだことがある。


 私の生徒は、大人顔負けの腹黒さと好奇心を持っていた。回転が早く、人をおちょくるのが大好きで、そして、セクハラ大魔神なのだ。

 危険でしょ、危険危険。この子から半径2メートル以内に入ってはいけません。特に女性は気をつけましょう、そう書いた看板を作って、この子の胸に引っ付けたいほどだ。

 まず、親から金を引き出させる腕は天下一品。色んな嘘を上手について、必要とあらば綺麗に涙まで浮かべてみせて、母親を銀行のATM代わりにしていた。

 ひょんなことからそれを知ってしまった私は、足りない脳みそをこねくり回して彼を阻止することに全力を注ぎ、その状況に阪上家の父親が気付いて、大変な信頼を得てしまった。

 実は、半年くらいで嫌気がさして辞めたかったのだけれど、阪上君が無事高校に入学してからも、私は家庭教師を辞められないでいる。

 阪上家の両親曰く、この悪魔に社会常識を教えてくれる奇特な存在、だかららしい。そう褒められてもあまり嬉しくないね。でも時給を普通の家庭教師では無理でしょってくらい上げて下さったので、私はやっぱり辞めずにいるのだ。

 金に、負けたのですね。いいのよ、笑って笑って。

「センセー、今日何か機嫌いいよね」

 悪魔君・・・・いや、訂正、阪上君がそういった。

 彼がやっているのは私が教科書から厳選した今学期の重要項目のプリントだ。

 とにかく何かやらせてないと、この子は悪巧みを繰り返すのだ。すると私は気力も知力も体力も消耗する。なので、ひたすら課題を与えまくる。だって家庭教師で来てるのですもの!

「あ、判る?やっと決まったんだよね、夜のバイト」

 るんるんと私は答える。今日はいいよ、結構なレベルで許容範囲が広がってるから〜、そう思って、満開の笑顔もつけてみた。

 阪上君はプリントから目を上げずに、シャーペンをサラサラと動かしながら言った。

「・・・ついに、ソープに手を出したのか・・・」

「出してないわよっ!!」

 机をパンパンと手で叩く。あまり近づくと、この子は危険なので大体同じ部屋にはいるけど遠くから私は指示を出すのだ。

 基本、8畳の部屋の端と端で会話。そして基本、部屋のドアは開けっぱなし。

 この条件をのんで、私は未だに彼の家庭教師なのだ。

 救いだったのは、この子は理解力が高いので(それも最初は隠していた)、傍でつきっきりで指導しなくても教えられるということかな。

 でないと、この子はすぐに手を出そうとする。具体的には、スカートならめくろうとする(なので基本的にはズボンスタイルだ)、手が届けば胸を触ろうとする(だから遠くに避難している)、隙があれば組み敷こうとする(14歳の時からだよ!驚愕だったね、私。無事逃げたけど)。

 今もにやりと不気味に笑って振り返った。

「ソープなんて行かなくても、センセー彼氏いるんでしょ?満足させて貰ってないの?」

「ソープでなくて、居酒屋です!お子様はさっさとプリントをしなさい!」

 またパンパンと机を叩く。

 大体、彼氏とは2週間以上会ってません!勿論そんなこと、この悪魔君にはバラせないけど。

 何てことを言うのだ!と、最初は一々まともに反応していた私も、3年間もこれをされれば流石慣れるってものである。

 最初に家庭教師の仕事として学期末のテスト勉強を指導した時、この子が言った言葉はこれだ。

『学年順位あげたら、センセーの体をご褒美にくれる?』

 私は激しい眩暈に襲われながら、ぶっきらぼうに『あげません』と返したものだった。

 すると次に言ったのは、『じゃあ胸触らせて』で、それには廊下から顔を突き出して、『お母様〜、ちょっとすみません!』と叫ぶことで、悪魔君を黙らせた。

 あー、懐かしい、そして悲しい思い出・・・。

 この子がいう私の彼氏は、付き合って2年の大学の同級生。小泉君だ。彼氏が出来たことが何故かバレた時、このエロ悪魔は泣いて悲しんでいた。

『センセーの処女は僕が貰うって約束したじゃないかああああ〜!!!』

 確か、あの時は部屋に転がっていた週刊雑誌で頭を叩いてやったのだった。

『そんな約束してませんから〜!!』と怒鳴りながら。

 暴力だ〜!と騒ぐので、あなたのお母様から、八雲がセクハラ発言をした時は体罰を許す、と許可を頂いております!と返したな・・・。

 私が悲惨な過去のバイト生活を思い出してしみじみしていると、今は17歳になって体も大きくなった阪上君が、出来た、とプリントを頭の上に上げた。

「あ、はいはい」

 採点をつけようと立ち上がって近寄り、紙に手を伸ばす。するとそれをヒョイとかわされた。

「ちょっと」

 文句をつけようとすると、阪上君はニヤニヤ笑って言う。

「センセー、僕と約束して」

「はい?」

「その居酒屋で人に言えないことしないって、僕に約束して」

 ・・・・・・・脱力。

 ああ〜・・・疲れる。疲れます、この子の相手するの。

 私は壁に背中をぐったりと押し付けて、だるーく口を開いた。

「あのね、阪上君。居酒屋というのは飲食をお客さんに提供する場所でね、君が考えるようなことをする場所ではないんです」

 絶対、ろくでもないこと考えてたに違いない。ナンでしょうか、人に言えないことって。

「だって男ばかりなんでしょ?」

「え?そりゃあ働いているのも男性が多いとは思うけど」

「だったら気をつけてよね、センセー!皆心の中では絶対その体を狙ってるんだから!」

 ないないないないない。心の中でお経を唱えた。精神統一するのよ、ひばり。この子の常識は世界の非常識なのよ!

「・・・・・・例えそうだとしても、普通の大人は職場でそんなこと見せないからね」

 いいからさっさと渡しなさい!パッとプリントを奪取する。

 あー、全くこの子は。どうにかならないのだろうか。

 外見はどちらかというと爽やかで、清潔感もある男の子なのに。私には悪魔にしか見えないが、彼の両親とも美男美女で、彼も普通にしてれば整っている顔をしている。きっと黙ってたら高校でももてると思うのだけど・・・。

 彼女いないの?と聞くと、彼女はいない、という微妙な返事が返ってきて、怖くて突っ込めなかったのだった。

 この子の発音には、それと判る含みがあった。

 彼女「は」って。・・・じゃあ、何だったらいるの、とは、さすがに・・・。

「大体どーしてバイト増やすの、センセー?カテキョだけじゃ足りないの?」

 私が決めた部屋の真ん中にある境界線ギリギリに立って、阪上君が言う。

 私は答えあわせをしながら答えた。

「まあ暇だし・・・仕送りして貰ってる身分だから、時間があるなら働いて稼がないとね。家だって別に裕福じゃないし」

 彼はふーん、と呟く。丁度採点が終わって振り返ると、折角整った顔をわざわざブサイクに歪ませている阪上君がいた。

「あらー、可愛い顔」

 棒読みで言ってあげると、ふんと鼻から息を出す。

「お金足りないなら、カテキョに毎日来ればいいのに」

「いえ、結構です」

 とんでもないっす。私の精神状態考えたら、そんな、まーさか!

「お母さんに時給上げろって言うよ、僕?」

「いえいえ、しなくていいからね。お宅様には十分な謝礼を頂いてますから」

「じゃあやっぱり日数を増やして――――――」

「私のことはどうぞお構い無く!ほら、間違えたとこやり直すよ!」

 境界線まで歩いて行って、彼の顔面にプリントをつきつけてやる。15問中13問の正解。間違った2問は、絶対わざとだと判っている。だって基礎問題間違えて、それより遥かに難解な応用問題正解してるんだもん。

 プリントを受け取って、阪上君はにやりと笑った。

「ちゃんとやったら襲わせてくれる?」

「黙れクソガキ!」

 そんなこんなで折角いい気分だったのが、悪魔へプリント3枚させる間に交わしたセクハラ発言に疲れ果てて、その夜はヨロヨロと部屋に戻ったのだった。

 給料給料、と帰りの電車でぶつぶつと唱える。全く怪しい人だっただろうけど、仕方がない。お金のことを考えるのは、いつだって精神統一への近道だ。



 そして、私に近いもう一人の男の子。彼は、最近性格が変わってしまった。



 彼は小泉仁史という。経済学部が専攻で、明るくて活発、アウトドアがすきで、私を色んなところへ連れ出して色んな経験をさせてくれた。

 大柄で、クマのような印象のある男の子だ。クマはクマでもプーさんの感じだけど。

 とても行動的だけど、優しくて、一緒にいると落ち着いた。

 大学の文化祭が縁で出会って、告白されて付き合いだした。こんな明るい人が世の中にいるんだなあ!と私が感動したくらいに、彼はポジティブに色んなことを笑って吹き飛ばしてくれたのだ。

 声も大きくて、大らか。就活が始まるまでは、彼は度々一人暮らしで不安になる私を慰め、勇気づけてくれたのだった。

 け、ど――――――――――


『居酒屋?』

 2年前から付き合っている彼氏の小泉君は、電話の向こうで言った。

「そうだよー、居酒屋。これで何とか財政状況もマシになりそうだわ」

 明るく茶化すように言って、あはははと私は笑う。

 だけど予想通りに、彼は笑わなかった。

『・・・決まったんだ、へえー・・・。よかったな、おめでと』

 声が、暗い。

 私は自分の部屋でベッドに額をつけながら、電話の向こうに聞こえないようにため息をついた。

 決まった、この一言が彼を不機嫌にさせたのだろうと思う。


 彼はまだ、就活をしている。自分より遅く活動を始めた彼女である私が、先に就職先を決定してしまったときから、やたらと不機嫌になる度合いが増えたのだ。

 友人達も、就活が始まったらそういうことはよくあるよ、と言って散々慰めてくれた。

 男のプライドが耐えられないんでしょ、って。でも仕方ないよね、ひばりの方がラッキーだったし、タイミングもよかったってだけなんだから、と。

 彼も仕事が決まればまた、いつもの小泉君に戻るよ。そう言って。

 実際のところ、去年の冬頃、彼が志望していた大手の企業を全滅した辺りから、雲行きは怪しくなっていたのだけれど。

 それでも、私が決まったときは喜んでくれたし、それからすれ違いも多くなったけど、私のバイトが中々決まらないってとこで、「やっぱりそういうことってあるよな」って、彼の中では折り合いをつけていたんだろうと思う。

 就活は恋愛の邪魔だ、そう断言する女友達に囲まれて、私は曖昧に笑った。

 現実はそうなんだろうな、と思っていた。だけど、私達は違う、大丈夫なカップルだってあるはず、そう思いたかった。思いたかったけど―――――――最近の彼は全然あってくれなくなったのだ。電話だけ。・・・それも、私からかけるときだけ。

「仁史君は、どう?前にいってた製造は?」

 大きなため息。更に低くなったトーンで、ぼそっと。

『それもうまくない、か、な・・・』

 アウチ!私はつい、目を閉じる。地雷?地雷だった?だけど就活の行方を聞かないと、俺に興味なくなった?って前に言われてしまったし。うおおおー、何てことでしょうか!

 私はまたガックリと額をベッドに沈める。受話器の向こうで彼がボソッと言った。

『・・・俺、明日もセミナー行くから切るわ。まだ資料読んでないし・・・』

「あ、うん。ごめんね、忙しい時に・・・」

 ぶつ。言ってる途中で切られてしまった。私は力なく携帯のボタンを押して閉じる。


 ・・・・あーあ、一緒に喜んでもらおうなんて、やっぱり無理だったか。

 ビーズクッションを引き寄せて、それにぐりぐりと頭を沈みこませる。

「ううー・・・」

 就活が壁になって別れるカップルは多いと聞いたことがある。だけど、俺達はそんな小さなことでは崩れないよって、言ったくせに・・・。

 言ったじゃないのよー。

 明るさと大らかさをなくしてしまった彼を、今度は私が支えるのだ。ファイト、私!――――――――そう思ってきた。

 だけど、それって一体、どうやったらいいの?

 今まで、ただついてきただけだったんだな・・・。私は、彼の後についてきただけなんだ。で、どうしたらいいか判らなくなっているんだろう。

 仁史君の為に、私には何が出来るだろうか。


 ぐだぐだと夜を寝転んで過ごした。

 昼間上がったテンションは、エロイ阪上君と暗い小泉君によって見事な急降下を果たし、私は一人、ゾンビのようになって布団に潜り込んだ。


 既に、明け方だった。






[ 2/46 ]


[目次へ]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -