B



 ・・えーっと・・・・どうしてこのタイミングなの。太陽の眩しさに思わず見開いていた目を閉じる。

 すっごく久しぶりに会った彼氏、と、危険人物の阪上君。・・・わお。

「センセー、この人、噂の彼氏?」

 そう言いながら、阪上君が私に近寄ってきた。私は反射的に飛びのいて彼から距離を取る。それに傷付いた顔をした坂上君に言った。

「そうよ。悪いけど、阪上君、また勉強の日にね」

 私の言葉で小泉君も、この男の子が問題の生徒だと気付いたらしい。彼には色々と家庭教師のバイトの話はしていた。

 そいつ、危ないな。親御さんはちゃんと見てくれてるのか?そう言って小泉君は心配してくれていたのだ。他にアルバイト探したら?って。

 男同士が無表情で視線をぶつけ合っている。どうしよう、何故こんな雰囲気に?ええと、私はとりあえず小泉君と――――――――――

「へえ、あんたが未だに就活をしてる彼氏?」

 先に阪上君が口を開いた。そのあざけるような声音に私はハッと振り返る。ちょっと、何言い出すのよこの子は!

「阪上君!」

 私の声はあっさりと無視される。阪上君は完全に体を小泉君の方げ向けて、じろじろと彼の全身を眺め回した。

 小泉君は無表情のままで、その視線を見返している。

「ふーん、センセーが惚れるんだからどんな男かと思ってたら、何か、大して魅力的じゃないじゃん、あんた」

「・・・高校生には判らない世界なんだよ」

 小泉君が口を開いた。淡々とした喋り方だった。感情がこもっておらず、そのせいで余計に私は怯える。

 私は一歩近寄って、阪上君の服を少しだけ引っ張った。

「阪上君、いい加減にして。失礼なのは君よ。オープンキャンパスは終わりなんでしょ?もう帰って――――――」

「ひばりセンセーが、あんたの就活成就を願って神様にお祈りしてるって知ってる?」

 一瞬、空気が止まった。

 私は言いかけの言葉を見失う。風と太陽にまみれて、大学には似合わないリクルートスーツ姿の小泉君が霞んで見えた。

「センセーの新しいバイト先は居酒屋って知ってるよね?そこにある神棚みたいなものに、いつもお祈りしてるんだよ、あんたのこと」

「さ、阪上君、やめなさい」

 この子にお祈りがバレたのは、私のミスだった。だけどこんなこと聞いて彼が喜ぶはずがない。私は焦って、また阪上君の服を引っ張る。

 女の子みたいな整った顔をした彼は、厳しい視線に歪んだ口元で、小泉君だけをじっと見ていた。

「なのにあんたは電話もしないそうじゃないか。それで彼氏面?酷いことしてんだよ、判ってないみたいだけど」

「さか――――」

「自覚はある」

 小泉君が低い声で遮った。私は手を阪上君の服から離して彼を見上げる。

 急に現実が戻って来て、セミの鳴き声が頭の中に鳴り響きだした。私は後ろによろめいて下がる。

「・・・」

「へえ?自覚、あるんだ?だったら余計に最低じゃないか」

 阪上君が、更に険悪な表情で噛み付いた。

「ずっとデートもしてないんでしょ?センセーは可哀想だったよ。我慢してるんだよ、彼女が。あんた、自分の彼女も大事に出来ないんだから、仕事探しなんて無理だよ。バランスが悪いんだよ、情けないと思わないの?」

 止めなければ、そう思っていた。この失礼な男の子の発言を、止めなければ。だって小泉君は頑張っているんだもの。その辛さもしんどさも、私は判ってるんだもの。だから―――――――――

 ああ、でも・・・・。


 セミが、うるさい。



「お前に」

 小泉君の低い声が聞こえた。

 彼は阪上君を見下ろして、ハッキリと嫌悪感を顔に浮かべて言った。

「お前に何が判る」

 そして口を空けっ放しにして固まるだけの私の方を向く。彼のネクタイは綺麗なブルーだった。その青に瞳が連れて行かれる。

「ひばり」

「は・・・・い」

 掠れた声が出た。私の前まで歩いてきて、小泉君が言った。

「話があるんだ。ちょっと、いいか?」

 いいとも悪いとも言えなかった。私は阪上君が見ているその場所から、小泉君の誘導で、フラフラと歩き出す。

 口の中がカラカラだった。額から落ちた汗が、コンクリートの上にシミを作る。

 彼の後ろを黙ってついていく。

 歩きながら呆然と見る光景は、連なる大学の校舎の後ろに聳え立つ夏の山。

 私はつい、夕波店長の言葉を思い浮かべて山を仰ぎ見る。

 シカ、本当なんだよ。そう店長は言ったのだ。大根おろしでまみれた手を痒いといいながら洗って、微笑んで、そう言ったのだ。

 山には、神様がいるんだから――――――――――――――


 ・・・いるのなら、神様、ヘルプ・ミー・プリーズ。


 小泉君は、日に焼けていたし、それに痩せたみたいだった。前に会ったときにはなかったくぼみが頬のところに浮いている。

 セミの鳴き声が反射する校舎の裏側。日陰になっている所に、彼は私を導いた。

 前に立って、向き合い、暫くは黙っていた。

 それから疲れた顔をして、暗い声で彼が言った。

「・・・別れよう」

 私はただ見上げていた。

 彼の、浅黒くなった、ちょっとこけた頬を。眠れてないのかもしれない、そう思っていた。


「・・・別れるの?」

 私の声は小さかった。だけどちゃんと聞こえたようだ。一瞬、彼の顔が苦痛に歪む。

 そこには出会った時の彼はいなかった。あの朗らかで、明るくて、いつでも大声で笑っていた小泉君は。

 ひばりはちょっと心配性過ぎるんだよ、なんだって、笑っていれば乗り越えられるものさ、そう言って手を差し伸べてくれた彼は。

 暗くて重い、そのまま地面にのめりこんでしまいそうな表情をして、私の前に立っている。

「俺には・・・ちっとも余裕がないから・・・。さっきの高校生にも、返せなくて・・・」

 ぽつんぽつんと彼は話す。

 見てたんだ、図書館で。あの子に後ろから抱きつかれて驚いてたひばりを。だけど、足が動かなかった。何してんだって行くべきだったのに。ひばりが嫌がってるのは見てて判った。でも、助けに行けなかったんだ。

「・・・俺は」

 俯いてしまった彼の、表情は判らなかった。

「ひばりに心をあげてる余裕がないんだ。もう・・・ずっと考えたことがないんだ。忘れていた。・・・むしろ、ひばりのことは、忘れようとしていた」

 ちゃんと聞いていた。

 私は自分でも驚くほどに冷静な状態で、ひとつも残さず彼が言った言葉を拾い上げていた。

 だから、仕方ないと思った。


 顔を上げて、小泉君を見る。彼は私をみていない。でも私は目を見開いて、じっと見詰めながら、言った。

「・・・わかったよ。じゃあ、もう、これで」

 これで、君とはお別れだね。

 最後は言葉に出来なかった。言う前に、私の足は動き出していたのだ。

 最初はゆっくりだった。そろそろと後ろ向きに下がって行く。でも気付いたら、早足になって―――――――――逃げるように走っていた。

 暑くて汗が垂れる。

 呼吸は苦しくて、体が熱かった。

 結構な勢いで校舎を走り抜けて、目に付いたトイレに駆け込んだ。

 ハアハアと荒い息に、大粒の汗。だけども夏休み中でそのトイレには誰も居なかった。

 手の伸ばして電気をつける。そして壁に背をあてて、俯いて足元を見る。

 呼吸が落ち着くまでそこにいた。

 鏡は見なかった。顔をあげないようにして両手を洗う。冷たい水の感触に、ハッとした。

 ああ、そうか。

 そこで理解したのかもしれない。私は、やっと、そこで。

 今・・・今、私。


 ・・・私は、振られたのか。




 校門を出るところで、足を止めた。

 大学の門前には、阪上君。うちの大学のロゴが入ったブルーの紙袋を手から提げている。

「・・・まだ帰ってなかったの」

 私が言うと、うん、センセーを待ってたんだよ、と言った。

 私は前を向いて歩く。別に泣いたりはしなかったから、汗でファンデは剥げていたけど目元の化粧はそのままで残っていた。

 私の顔をじっとみていた彼が、ため息をついた。

「僕、謝らないからね」

「・・・謝るべきよ。初対面の人に、あんな失礼な口聞いて」

「・・・だってもう会わないし。それに、間違ったこと言ってないよ」

 駅までの道を歩く。私が黙っているのを見て、阪上君も黙っていた。

 街路樹の緑が水を欲して変色している。その下を、汗をたらしながら私達は歩く。

 セミの声がうるさい。光は眩しくて、オープンセミナーの手伝いで足はパンパンだった。それに、今日はよく走った日なのだ。

 だるい体をひきずって歩く。ちょっとの間、阪上君の存在を忘れていた。私は夏の太陽が作る、白くて強烈な光と影のコントラストに見惚れていたのだ。

 その白と黒に。

 ぼそっと、声が聞こえた。

「センセー、あいつはセンセーに似合わないよ」

「・・・」

「僕にしときなよ」

「・・・」

「ねえ、センセー」

 駅が見えた。私は歩調を速める。

「・・・エロい男は好きじゃないの」

 声が掠れてひび割れた。自分でも嫌な声だと思った。

 もうすぐ、日陰に入れる。もうすぐ、もうすぐ。

「・・・判ってないなあ」

 阪上君の声が聞こえた。いつもと違う声色に引き摺られて、つい、足を緩めて彼へと視線を向ける。

 少し後ろで止まっていた。すっきりとしたシルエットの男の子が、眩しそうに私を見ている。

「ひばりセンセー」

 泣き笑いのような、微妙で繊細な表情を浮かべて、彼が言った。

「エロくない男なんて、いないんだよ。特に、好きな女にはね・・・」

 私は顔を背ける。


 阪上君の言葉は、入ってきた電車の音にかき消されてなくなった。






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