バカみたいに壁の薄いおんぼろアパートの3階に、テルは一人で住んでいる。

 友達で不動産屋へ就職したらしい子が紹介してくれた部屋だと言っていた。

 都心に近いこの街で、狭くて古いとはいえトイレとお風呂付きで月4万の家賃。いいものを紹介してもらったじゃないか、と思った。

 一緒に住んでいたテルが「一人暮らしをする」と言った時、本当は止めたかった。経済的な理由からも、寂しさもあって。

 だけどしっかり者の当時の彼女が言ったのだ。テル君は、親離れをしようとしているのだから、邪魔してはいけないと。

「成長を見守るのが、家族の役割よ」

 そう言って、笑顔で俺を説得した。悔しいけど、確かになあ〜と思った。

 だからオッケーを出したのだ。凄く心配だったけど、テルは、案外ちゃんと暮らしている。

 それもまた、若干悔しい俺だ。でもテルにはナイショ。

 チャイムは3・3・7拍子で打つと決めている。鼻歌を歌いながらボタンを連打した。

 しばらくして、がちゃりとドアが開く。その速度は亀もビックリってくらいにのろくて、そのままで夕方が来てしまうのではないかと思った。

「テルー?」

 隙間から覗き込むと、目の前には鈍く光るチェーンが。・・・あ、こいつ、部屋に入れないつもりだな。

 どうやら寝起きらしい乱れまくった頭を更に手でかき回して、俺の甥である広輝は半眼で、ぶっすーとした声を出した。

「・・・・帰れ」

 第一声がそれかよ、まったく、愛想のカケラもないやつだ。

 俺はにっこりと微笑む。チャームポイントの垂れ目を細めて口角を上げると、女の子は喜んでくれる笑顔で。

 ただし、残念なことに目の前の不機嫌な人間は男だ。

 多くの女性が可愛く挙動不審になってくれる笑顔を見て、テルは更に機嫌を悪化させたようだった。吐き捨てるように言葉を出す。

「・・・ニヤニヤ笑うな。変態」

「お言葉だねえ、テル君ったら!いいから開けろよ、何なの、このチェーン」

 俺は人差し指でチェーンをビーンと弾いた。

「やだ。帰れっつーの」

「冷たいなー、お前は!」

 バタン。目の前でドアが閉まった。

 ・・・・・酷くない?この対応。全く、誰だよこいつを育てたやつは!躾しろよ、躾!

「テル〜!!」

 拳でドアをガンガン叩く。おーい、と言いながらしばらく叩き続けたら、チェーンが空くがちゃっという音が聞こえた。

 そして急にドアが開いたと思ったら、分厚い冊子が頭目掛けて振り下ろされる。

「うおっ!?」

 咄嗟に避けれた俺は格好いい。自画自賛も見逃して〜なナイスステップだった。

 態度の悪い甥はあからさまな舌打をして、俺を睨みつけている。

「オッサンのくせに動きは軽やかだよね、ハルって・・・」

「ありがとね」

「褒めてねえよ!!」

「褒めただろ。軽やかだって」

「・・・」

 口をあけたままでテルは固まった。あははは、バカだなこいつ。そして何て可愛いんだ。

「お邪魔〜」

 本人が呆気に取られている内に、俺はするりと部屋の中に入った。狭い玄関でテルの肩とぶつかる。

 ・・・あれ?こいつ、もしかして背が伸びた?振り返ってテルを見ると、外を見たままで悩んでいるみたいだった。

「軽やか・・・いや、でもだから凄いとかって別に言ってねえし・・・」

 根が真面目だ。あはははは。

 相変わらず暗くて散らかってる部屋の中に入って、俺はため息をついて見回した。

 ・・・どこから手をつけるべきか。

「オマエ、また女に振られたの」

 テルが後ろから入ってきて、ベッドにゴロンと寝転びながら言う。俺はそうそう〜と軽く返事をして、部屋に唯一ある窓のカーテンを開け放ち、窓を開けた。

「・・・眩しい・・・オレ、まだ寝てんだけど・・・」

 ベッドの上から聞こえた苦情は無視した。今何時だと思ってんだ、こいつ。

「パソコンフリーズしてんじゃねーのか、これ。折角書いた記事消えたらどうすんの?」

 床に散らばった仕事の資料らしき雑誌やメモ帳をまとめて壁際に寄せる。

 テルも俺と同じ職業に就いていた。つまり、プーの物書き。故に二人揃って貧乏。でもこんなに無愛想な男がどこから貰ってきてるんだろうと思うくらいには、仕事もちゃんととっているようだ。

 家賃、払ってるみたいだし。

 冷蔵庫を開ける。見事に何もない。真ん中にコーラのボトルが転がってるだけ。

 何だよ、この氷河時代の中身。冷やす必要があるものがねーじゃないか。

「テルくーん」

「・・・何」

「ちゃんと食ってる〜?」

「・・・ま、いちお〜ね・・・」

 俺は振り返ってベッドでトドみたいになっている甥を見た。

「お前もそろそろ彼女をちゃんと作って、一緒にすむとかすれば?」

 折角可愛い顔してんのに。うまくやれば、色々世話を焼いてくれる押しかけ女房みたいなラブリーな彼女がすぐ出来そうなのに。でも俺のこの手の台詞にはいつでも決まってこいつは言葉を返すのだ。

「・・・うるせー。次々彼女をとっかえひっかえするような、オマエみたいな酷い男にはならねーの」

「そういう台詞は次々彼女が出来るようになってから言えよ」

「ほっとけ。引きこもりで彼女が出来るわけないデショ」

 テルは寝るのを諦めたか、あーあ、と言って起き上がった。そして不機嫌な顔で続ける。

「それに、外に出るときはいつでも決まってあの女が―――――――」

 俺が苦笑するのとほぼ同時に、まるで魔法みたいにテルの玄関のドアが激しく叩かれた。

「・・・ああ・・・」

 正直にうんざりした顔をして、テルはベッドに倒れこむ。

 ドアがバンバンと叩かれて、外からは予想通りの声が聞こえていた。

「ピンクー!!ピンクー!!いるのは判ってるんだからさ!開けなさいよーっ!!」

 ベッドに寝転がったままのテルは微動だにしない。それを目の端で見て、俺は玄関のドアを開けた。

「ピンっ・・・あれ、ハルーっ!?」

 目の前には綺麗な女の子。切れ長で大きな黒い瞳を見開いて、整った顔に大きな笑顔を浮かべた。

 そして―――――――――抱きつこうと突進してきたから、スレスレでそれをかわした。

「おっと」

「あ・・・もう、ハルったら!」

 俺に抱きつき損ねて玄関でふらついた彼女、シンディーが下から膨れっ面を見せる。

「こんにちは、シンディー。テルはまだ寝てるんだ」

 彼女の手から逃げながら、俺は癖でにっこりと微笑んだ。

 この綺麗で明るくて賑やかな彼女はシンディー・チョウ。台湾系アメリカ人で、父親が成功した金持ちである、正真正銘のセレブだ。

 172センチを越す、アジア系の女性にしては長身で、白い肌と大きな黒目をもつスレンダー美人。

 一体全体どうしてそんな住む世界が違う女性とテルが知り合いになったのかは、実のところ、よく知らない。

 旅先であったとかなんかだったと思う。

 まあとにかく、語学習得だとか趣味でやっているモデルの仕事だとかで彼女は日本に居て、こうして度々テルを襲撃しているらしい。

 仕事以外は引きこもっているテルが外出するときは、大体このシンディーが係わっている。だからさっき言いかけたのだろう。

 オレが外に出るときは、いつでも決まってあの女がいるって。

 この、あらゆる意味で目立つお嬢さんが一緒にいるのに、彼女なんて出来るわけがない、そう言いたいのだろう。

「ピンクー!!まだ寝てるの!?起きなよ、お客さんがきてるっていうのに!」

 シンディーがまだ俺に手を伸ばしながら、ベッドに寝転ぶテルに向かって叫ぶ。

 テルは小学校の頃から、ピンクと呼ばれているのだ。その理由も一度・・・いや数回は聞いたんだけど、何だったか忘れた。

「・・・・うるせーよ、シン。オレが呼んだんじゃないデショ・・・」

 もごもごとテルが返す。

 言葉でも力でもテルはシンディーに敵わないのに、いつでも言い返すことはするんだよな。そこは、尊敬する。

 この外見が美しいお嬢さんは、そこそこ武道を嗜んでもいるのだ。生まれがセレブ故のことらしいけど、一度二人で一緒に犯罪に巻き込まれたことのあるテルは、シンディーの強さをその時にしっかりと見てしまったらしい。




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