2、痛い記憶


 鏡の中には私がうつっている。

 無表情で、目の下にはクマがあり、肌にはぽつぽつとシミ。肌は水分を失って、口元の皺が前より少し深くなったようだった。

 セミロングの黒髪。奥二重の瞳は左右で少し大きさが違うし、実は色も違う。それはカナダ人の祖父の隔世遺伝で、なのだが、後は完全にアジア系の顔立ちなので片目のブルー掛かった瞳は悪目立ちするだけだった。遺伝というのは不思議だ。どうせなら両目が同じ色なら良かったのに、片目だけが色が薄い。だから普段はカラーコンタクトで黒くしている。

 最大にして一度だけ来た人生のモテ期は21歳の頃で、その頃は「美人だ」とか「可愛い」などと言ってもらえたものだけど、それも23歳過ぎたら聞かなくなった、程度の顔立ち。

 167センチ、体重は平均より低く、元から痩せ型。電信柱のようだ、と自分では情けなく思っている。元々胸もお尻も自慢できるほどはなかったけど、離婚のバタバタで激痩せをしてしまってからは本当に電信柱みたいになってしまった。

 離婚前から食欲が失せ、以来食べ物に興味が持てなくなって、取り合えずの生命維持活動だけの為に食べている状態だ。当然の結果といえば、それまでの体。

「・・・・顔色、悪すぎでしょ・・・」

 吹き出物がないのはそれだけの栄養分が体にないからだろうな〜とぼんやり思う。

 32歳には見えないぞ。自分に突っ込んだ。そして色のない唇に赤いグロスをのせる。そうでもしないと死人のようだ。

 疲れてるにもほどがあるな。何で営業職選んだんだろ、私。女性営業の華やかさ、皆無でしょ。

 でも出来ることがこれしかなかった。事務職の経験は無しの私が、一人で生きていく道は。

 洗面所で手を洗って自席に戻った。

 保険会社の記念月、11月戦真っ只中の10月なのだ。それで、出だしの遅れまくっていた私は今日ようやく1件目をいれたところ。もうちょっと喜びに浸ってたいが、笑顔の上司が帰社した私に言った言葉はこれだった。

「良かった、1件目ね!でもまだ実働だから、さっさと次、行きましょう!」

 ・・・・はーい。心の中でそう言って、片手を上げる。実際にはへらっと笑っただけだった。

 実働とは、成果が1件のことを言う。通常毎月2件は契約を貰えないと、給料が下がる。事務所の営業一人に対する本社からの予算も出ないし、故に上司からの叱責も酷くなる。

 だから営業は皆必死で2件目と3件目を追いかけるのだ。それをこなすまでは夜も眠れない日々がやってくる。

 しかも記念月ともなれば、そのノルマは一気に3倍ほどに跳ね上がるのだ。そんなわけで、今月の目標(と名前を変えたノルマ)は5件だった。

 ・・・5件・・・。想像しただけで眩暈がするわ。出だしが遅かったせいで、あと2週間で締め切りだった。2週間で4件・・・。ううう・・・。奇跡が起こらない限り現状では無理な数・・・。

 そして、奇跡は滅多に起こらないから奇跡なのだ。それは痛いほど判っている。

 洗面所からの戻りで、隣の男性営業部のドアが開けっ放しなのが見えた。

 つい横目で見てしまった個人成績グラフ。壁に貼ってある特大のそれの、やたらと長い棒線は先ほどの平林さんのだろう。そしてもう一つぐぐーっと伸びた棒線は、高田さんの。

 もうすでに二人はあれだけ契約を入れてるのか・・・。

 平林さんはともかく、高田さんはあれだけ無愛想で無口なのに、一体どうやって契約を貰っているのだ!是非聞きたいが、人と交わらないようにしている私にそんな情報をくれる人もいない。

 また重いため息が出そうになって、慌てて口を閉めた。今日くらいは明るい気分でいようよ、私!

 他人を気にしても仕方がない。一人暮らしの私は自分の食い扶持を稼がなくてはならないのだから。


 1年半前の春、私は突然、日常の全てを失った。


 その時まで順調にきていると思っていた何もかもが、フェイクだったと判った。

 世界は私だけを置いて、急速に遠ざかりつつあったのだ。

 私が知らなかっただけで。


 まず、夫に別れを切り出された。

「ごめんな、他に好きな人が出来たんだ」

 もうすぐくる結婚記念日を前に、私は5回目のその日をお祝いするために、サプライズでプレゼントも用意していたんだった。

「え?」

 わけが判らず笑顔で振り返った私に、見たこともないような真面目な顔で彼が言ったのだ。


「離婚してくれ」



 驚いて固まる私に続けて頭を下げて謝り、君が悪いんじゃないんだ、とか、ずっと考えてたことなんだ、好きな子がいるが、その子と間違いを犯す前にこの結婚は解消したい、などと好き勝手言った後、その日の内に夫は出て行った。

 春の日が差し込む居間に立ちすくんで、私は一人で長い間呆然としていた。

 彼が何を言ったのかが判らなかった。全然そんな気配もなく、いきなり結婚生活の終わりを告げられたのだ。

 他の女に惚れたと言って。

 確かに触れ合いは減っていた。だけども昨日だって楽しく私の作ったご飯を一緒に食べたのだ。今年の夏は海に行こうって約束もしていたのだ。そろそろ子供の事も考えようかって正月にも言ってたじゃない。

 あの約束は何?好きな人って誰?前触れもなく出て行くなんてあり?今日はエイプリルフールだったっけ?

 ・・・なんで、彼は出て行ったの?

 さっきまで自分の前にいた男は知らない人のようだった。


 確か私はその日、表情をなくしたままで電話をしたと思う。結婚記念日のサプライズに用意していたレストランへ、予約を取り消しに。

 このままで終わるだなんて思ってなかった。

 学生の最後から付き合って、お互い社会人に慣れた頃に結婚、そして4年が普通に過ぎていたのだ。彼に変化が起きているなんて全く気付かなかった私だけど、さすがにもうちょっとはチャンスをくれるだろうと思っていた。

 それくらいの長い付き合いだったって。

 だから、戻って来てくれるって。

 そう思ってた。呆然として泣けずに、一人で、彼を待っていた。

 だけど両家の両親まで巻き込んでの長い話し合いの結果、結果的には私は離婚を受け入れた。他に好きな人が出来たと言われた子供のいない女。どうしたら離婚を止められただろう。

 実家の玄関先で私と私の両親にすみませんと頭を下げる彼の両親に、一体何が言えただろう。

 だって、人間も動物なのだ。

 私の魅力が、その彼女に負けてしまったってことなのだ。長い間一緒にいた私は、飽きられてしまったのだろう。彼は新しい刺激の方へといってしまった。もうこれ以上、どうしようもなかった。

 そういう意味では誰も悪くなかった。だから親も彼を罵ることも出来ず、淡々と私は、結婚生活を失った。


 悪いことは連鎖する。不幸というのは団体さんでやってくるものだと、30歳の私は身を持って知った。

 次は、勤めていた証券会社では脳無しと有名な上司のミスを私が被るハメになった。

「本当に申し訳ないんだが、田西さん」

 出勤してすぐ、まだ鞄を持ったままで支社長室に呼ばれた私に鎮痛な表情の支社長が言ったのだ。

 専務の息子である私の直属の上司はバカ野郎で、金融会社にあるまじき個人情報の漏洩をしやがったのだ。ただ、彼が持ち出して紛失してしまったその書類には私の判子が押してあった。そう告げられて、一度は真っ青になった私に専務が頭を下げたから驚いた。犯人は自分の息子だとすぐに判ったらしい。

 問い詰めたら白状したけれど、書類におしてあるのは君の判子なんだ、って。

 お客さんとの話し合いも上手くいき、新聞沙汰にせずにもみ消すことに成功した。が、どうしても生贄が必要になるとのことだった。本社への対応として。専務の息子である私の上司は田舎へ左遷。そして私は、退職金をはずみ、会社理由での解雇にするからという条件で、証券会社を辞めたのだ。

 会社の為に頼むと支社長に言われ、泣きながら専務に頭を下げられ、はいと無表情で答えた記憶がある。

 だってどうせ、帰る家だってないんだから、と。

 愛していた夫に捨てられたのだ。会社から捨てられたって今更そんなにショックも増えないわ、そんな事を思っていたような覚えがある。

 もう、どうにでもして下さいって。

 私が今更頑張ったって、物事はうまくいかないようになってるんでしょ、って。

 当時の私は確実に病んでいた。頭の中の色んな回線がショートをして、マトモな判断が出来なくなっていたのだろう。

 そして、尾崎姓に戻った。

 大好きな夫と平凡でも幸せな毎日を過ごしていて、バカな上司には頭が痛かったけど、仲のよい同期にも恵まれた楽しい会社生活。その全てをいきなり失った1年半前。

 暫くは世界が崩壊した影響でひたすら寝て過ごし、それから改めて離婚の後始末をした。

 地獄のような時期を実家や友達の慰めで何とか過ごし、前職の会社に書かせた推薦状でこの保険会社に滑り込んだ。

 そして、心配をする親を安心させるためだけに、実家を出て一人暮らしを始めた。

 あの日から、夫が出て行ったあの日から、私の人生は色を失ったのだ。

 だけれども、コップ一杯に入れられた水を零さないような姿勢で、ギリギリでも毎日を過ごすこと、目標がなくても今日を耐えること、そして時間が経つのを待つこと、それだけを自分に課してやってきた。

 営業職は、その点気が逸れてよかった。新しいお客さんにどんどん出会えるし、珍しい場所にいくことだって出来る。恨み言を胸の中で繰り返すなら、ノルマの事を考えて頭の中をいっぱいにする方がいい。別れた夫との日々を振り返って涙に濡れるよりは断然いい。

 そう思って頑張ってきたのだ。

 大丈夫、大丈夫だと言い聞かせて。

 そして1年半がようやく経って、最近気付きだしたのは、痩せこけて、干からびた、トゲトゲした一人の女である自分。

 食欲が出ないままで砂のような食事を一人でしてきた。それが栄養に変わるとは思えない状態で。契約を貰えたときだけ、少し、味がするような、そんな生活をしてもう1年半なのか。

 私は痩せた肩を自分の手で撫でてそう思った。






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